RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『喪服の似合うエレクトラ』ユージン・オニール 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

二〇世紀アメリカを代表する劇作家オニールの最高傑作。ギリシア悲劇の筋立てを南北戦争後のニュー・イングランドに移し、父母姉弟の錯雑した愛憎を描く迫真のドラマ。

 


ユージン・オニール(1888-1953)は、アイルランドアメリカ人の舞台俳優ジェイムズ・オニールの子として生まれました。「モンテ・クリスト伯」で一世を風靡した父は、人気を保ちながらツアーを行い、実に六千回以上もの興行を成功させました。オニールはこの巡業に合わせて、各地をまわりながら幼少期を過ごします。カトリックの寄宿学校を経てプリンストン大学へと進学しましたが、勉学に熱は入らず、異性との交友と酒を呷ることが日常となり、わずか一年で退学します。そしてオニールは、当時の労働者階級が海運労働の処遇改善を求めて起こしていた運動に参加して、自らも船乗りとして活動します。数年間を海上で過ごしましたが、神経衰弱とアルコールへの依存で身体を壊し、船を降りて療養することになりました。療養中は海と同じように愛していた読書に励み、そのうちに自らでも筆を取ろうと決意して執筆を始めました。


劇作家として歩み始めたオニールは、四年目にして『地平線の彼方』(Beyond the Horizon)で成功を見せ、ピューリッツァー賞演劇部門を受賞します。ニューヨークで行われた初演では、その頃広まっていたメロドラマのような演劇を一蹴するものだとして高い評価を受けました。オニールは革新的な演劇作品を次々と生み出し、新たなリアリズムの潮流を演劇界に巻き起こします。これに感化された劇作家たちも倣い、「オフ・ブロードウェイ運動」(日本の小劇場運動に近しいもの)へと繋がっていきます。この運動は商業主義のブロードウェイを否定し、新しい世代による新たな演劇を世に見せるというもので、約二十年後にはベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』が上演されました。商業主義を否定した新たな演劇は、経済的に抑圧された思想を解き放ち、真に観せるべきものを解放しました。


本作『喪服の似合うエレクトラ』は、1931年に初演されました。ギリシア悲劇を確立した作家アイスキュロスによって作られた『オレステイア三部作』の構成を踏襲して、オニールは本作を現在(当時)である南北戦争を経たアメリカの中産階級を舞台に描きました。『オレステイア』はギリシア小アジアへと攻め込んだトロイ戦争(トロイア戦争)の総大将アガメムノンとその家族を描いた愛憎劇ですが、本作では家族間での惨劇はそのままに、その動機、救済、栄誉、絶望を当時の心理学を下敷きにして、心を抉る濃厚な悲劇へと生まれ変わらせています。オニールは、不義による殺害、憎悪の継承、復讐の奸計、死と報復の連鎖、これらを神々による「運命と救済」で描かれていたものを、現代では「人間心理と血族の死霊」と置き換え、濃密な感情による悲劇として成り立たせました。


前述のように、戯曲構成や登場人物は『オレステイア』を踏襲していますが、物語の主軸を成す娘ラヴィニアの性質はアイスキュロスエレクトラとは大きく異なり、母親への激しい憎悪と狡猾さは異質なものに感じられます。これは恐らく、同背景を描いたソポクレスの悲劇『エレクトラ』を踏襲していると考えられます。こちらの作品では、娘エレクトラが弟オレステスに高圧的に復讐を唆し、殺害を強制するような筋書きとなっています。本作『喪服の似合うエレクトラ』のエレクトラ像は、ソポクレス作品のエレクトラを反映させていると言えます。父親が不在のあいだに母親が姦通し、その相手の男と共謀して父親の殺害を企み決行。その事実を知った娘は長く家を離れていた弟と共謀して、母親と男に復讐する。物語の筋書きは共通でも、神々は介入せず、人間の重い感情のみで進められる現代の愛憎劇には、深い心理の動きが見えてきます。


娘であるラヴィニアは不貞により父親を裏切った母親に、尋常ではない憤怒の感情を表します。ここには親子という関係性以上の愛情、言い換えるならば父親に対する異性としての恋愛感情が表れています。これは「エレクトラ・コンプレックス」と呼ばれるものですが、ラヴィニア同様に弟のオリンも母親に近親相姦的な愛情を持っており、こちらは「エディプス・コンプレックス」と呼んでいます。双方ともに、異性の親に対する恋愛的感情が元となり、同性の親を嫌悪するというものですが、それぞれの欲望の形や目的が異なっています。男性側の欲望は母親を我がものとすることが目的であり、多くは父親に抑圧されて諦めのもとに欲望を鎮圧させますが、過剰な欲望により手段を選ばず父親を排除した場合、自身が父親の代わりとなり同一視して満足を得ます。対して、女性側の欲望は自身が母親の代わりに父親に愛されるだけでなく、母親を排除したうえで自身を母親の代わりに愛するように求め、その子を宿して完全に父親にとっても母親の代わりの存在になることを求めます。母親による抑圧は嫉妬心による反発しか生まず、より一層の感情激化を促すのみとなり、母親との対立関係は決定的なものへと進んでいきます。これは劇中でも対照的に描かれており、オリンが戦争からの帰還後も父親の抑圧が身に染み付いていることに対し、ラヴィニアと母親クリスティーンとの不和は物語が進むほどに悪化していきます。


また、本作では「神々の介入」に代わって「運命の永続性」が主題に込められています。栄誉、不義、絶望、復讐が現代の家族だけでなく、一族の先祖代々より行われてきたことが示唆されています。家族を見下ろす幾つもの肖像画は連鎖する怨嗟を表し、過去に紡がれた愛憎劇を想像させます。その裏付けの一つとして祖父母の怨恨が挿入されますが、ここでも愛欲の醜さが強く押し出され、現在(劇中)の愛憎劇の人間的な根源を見せつけられているように感じます。遺伝的な人間性といった受け取り方もできますが、第三部の「憑かれたる者」という題名を鑑みると、その負の連鎖は死霊が与えた怨嗟の魂によるものであり、愛憎劇を繰り広げるラヴィニアやオリンは、それらの魂に乗り移られて両コンプレックスに狂わされているのだと考えることができます。終幕近くでラヴィニアが「アダム」と叫ぶ場面では、この考えを強く肯定するものであり、憑依された末裔の感を見せています。

 

現在の僕の境遇はお父さんの境遇だ。姉さんはお母さんの境遇だ!これこそ僕が豫言出來なかった過去から生れて來た惡の宿命なんだ!僕は姉さんを鎖で縛っているマノンなんだ!これだけ言えばもうはっきり──

第三部「憑かれたる者」 第二幕


神々から運命へと悲劇の性質を変えた本作は、新たなリアリズム演劇として当時のニューヨークを沸かせました。これは頽廃演劇(退廃演劇)が頭角を表した時期を彷彿とさせるものです。1931年という戦間期ならではの空気と不安定な世間の感情が、本作や新リアリズム演劇を受け入れる土壌を作り上げていたのだと言えます。また、当時のパリで隆盛していたロストジェネレーションを生み出した空気が、ニューヨークのユージン・オニールにも及んでいたのかもしれません。日本でも第二次世界大戦争後、復興の最中に生まれた「アングラ演劇」では思想が色濃く表れていました。それらの新たな潮流として帯びた強い熱量を、オニールは『喪服の似合うエレクトラ』で存分に発揮していると感じられました。そして本作発表の数年後に、「悲劇の独創的な概念を具現化する、彼の戯曲の力強さ、誠実的さ、深い感情に対して」ノーベル文学賞を受賞しています。本作が「オフ・ブロードウェイ」で演劇界に与えた影響が関係していることは言うまでもありません。


ト書きが多く、細やかに登場人物の動きが把握できて、目の前で具体的に演じられている臨場感を味わうことができます。非常に重い主題ではありますが、観る者(読者)を強く惹きつける作品です。ユージン・オニール『喪服の似合うエレクトラ』、ギリシア悲劇を読まずとも十分に興味深く読み進むことができる作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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