こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

第一次世界大戦争によって日本が不況に見舞われるようになったころ、大正の文壇では思潮に変化が見られるようになりました。それまでは、武者小路実篤や志賀直哉らといった白樺派が主流となって活躍していましたが、彼らの理想主義的または人道主義的な作風とは、対照的な思潮が生まれます。この思潮は、同人誌「新思潮」に参加していた、芥川龍之介(1892-1927)、菊池寛、久米正雄などが代表作家として挙げられ、「新現実主義文学」と呼ばれます。それまでの白樺派が観念的な理想像を描いているのに対して、新現実主義は理知的に現実を描写しているということが特徴と言え、それまで以上に分析的な観察眼をもって世相を眺め、理性的な文章で作品を描きました。同人「新思潮」は東京帝国大学内で刊行されており、芥川龍之介は、この第四次で掲載した『鼻』で夏目漱石の大きな評価を得ました。また、先輩にあたる谷崎潤一郎をはじめ、和辻哲郎、松岡穣、山本有三、豊島与志雄などの作家たちとも関わりを持つことになりました。そのなかで最も親しく意見を交わした人物は、恒藤恭でした。寧ろ、彼以外とは親近感を持って心の内を語り合うという行為は行わず、同人内では閉塞的な印象で活動をしていました。
芥川は実に多くの作品を残しましたが、時代、舞台、人物は様々にあり、それらは幅広い世界を描いたものとして知られています。そして、自分の生活を吐露するような作品は殆ど見られず、過去の人物を中心においた作品や、古典を元にした作品などを多く執筆しています。時代は、古代、王朝、平安、江戸など、人物では滝沢馬琴、鼠小僧、トルストイ、仙人、隠れ切支丹、河童など、数え上げればきりが無いほど多岐にわたっています。このような点から、前述の同時代作家たちは「芥川龍之介」という作家を、それぞれが持つ文芸思潮に則った、そして好みに合わせたかたちで各々の評価を持っていました。宇野浩二や室生犀星は『玄鶴山房』を、佐藤春夫や川端康成は『歯車』を、正宗白鳥や志賀直哉は『一塊の土』を、瀧井孝作や久保田万太郎は『蜃気楼』を、日夏耿之介は『羅生門』を、といった具合にそれぞれが様々に認めています。しかし、このような作風でありながら、芥川の作品には一貫した独自性が感じられます。彼は、国内外問わずの伝統的な作品の物語から一度「思想」という組骨を外し、細かになった題材を彼の感覚と当時の世情を織り交ぜて物語を繋ぎ直すような創作を行いました。この理知的な手法は、一見すると現実主義に対して相反するようにも感じられますが、ここに芥川自身の思想や体験が踏まえられていることで、彼の優れた分析と着想が如実に表れていると言えます。
もつと己れの生活を書け、もつと大胆に告白しろ、とは屡々諸君の勧める言葉である。僕も告白をせぬ訳ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは、僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面もなしに書けと、云ふのである。おまけに巻末の一覧表には主人公たる僕は勿論、作中の人物の本名仮名をずらりと並べろと云ふのである。それだけは御免を蒙らざるを得ない。
芥川龍之介『澄江堂雑記』
芥川が恒藤恭に何度となく吐露していた「悩みや不安」は、その書簡でも明らかにされています。そこには、「相関的な善悪の存在」というものが何度となく繰り返されています。母の精神異常とその後の死、母の実兄の養子となった元士族家庭での芸術と文化における価値観、育ての伯母に与えられた教育観など、憶測は幾つも並べられますが、芥川は「死生観と実相の生」に思い悩んでいた節があります。踏み込んで言うならば、「実相の生における魂との不協和音」が、芥川の心を占め続けていたのだと考えられます。そして、この不協和音は、彼の文芸作品に一貫して存在しています。『鼻』の禅智内供、『河童』の精神病患者、『戯作三昧』の滝沢馬琴など、性格や描写は変われども、心情の一本の骨子がどれも同じ色調で描かれています。そして、悩まされ続けた不協和音を執筆という形で抗い、解き明かそうとし、芸術的な追求を試みますが、遂には自殺というかたちで、芥川は短い人生を終えることになります。
実相の生に対して、魂が生き苦しいと感じていた心情は、学生時代に書き上げた初期の作品『羅生門』にて、強く色濃く描かれています。作中終盤に見られる「黒洞々たる夜」という表現は、まさに、魂を不明瞭に覆う不協和音の描写です。文脈では老婆の見る景色のように描かれていますが、本作では冒頭より「作者」が登場していることから、これを含む一文は芥川の「心より見た景色」とも受け取ることができます。下人の展望でもなく、様子でもなく、このような実相を眺めた芥川の心情ではないか、と考えられます。そう捉えると、本作にして既に芥川の全文学は形成されており、後の多くの作品を予見しているのだと言えます。
『羅生門』は、『今昔物語集』の「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を基盤として、「太刀帯陣売魚嫗語第三十一」の内容で肉付けをしています。平安京建都にあたり、その間口として建てられた「羅城門(らせいもん)」。これは、現在の九条通と当時の都を南北に走っていた朱雀大路が交わる最南端に、「京との境目」にあたる内外を隔てた門として存在していました。この門は非常に大きく、幅は35メートルを超え、入母屋構造で上部には小さな楼上があり、毘沙門天像が据えられていました。しかし、この立派な建造物も、構造自体に問題があったようで、天延四年の大地震や暴風雨によって倒壊し、以後、再建されることはありませんでした。その後、撤去もなされることなく荒れるがままとなり、いつしか妖怪まで棲まうという盗賊の住処と成り果てました。
天延四年と言えば、平安時代の中期にあたります。つまり、平安時代末期に見られる平清盛による武家政権などまだまだ現れず、貴族政治が盛んであった時代です。本文中の描写では「洛中のさびれ方は一通りではない」とあるため、平安京自体が衰微している平安時代末期と誤解してしまいそうになりますが、これは地震や天災、そしてそれに伴う火災や飢饉に見舞われている様子を表しています。このことから「暇を出された下人」は、貴族政治の衰退による影響の産物ではなく、純粋に能力が足らないとして職を解かれた人物、と見ることが自然です。「衰微の小さな余波」は、雇っていた主人が解雇のよい機会として、この火災被害や飢饉を理由にしたのだと理解できます。
「羅生門」は、確かに都と外界を分かつ門として存在しています。しかし、下人がこの羅生門の下で佇んでいる理由は、善と悪の狭間にあるといったものではなく、行き場の無いことによる「ちょうど良い雨凌ぎ」であったに過ぎません。また、場面が夕刻であるのも、朝からその時間まで職探しに明け暮れていたと考えれば、至極自然な時間の流れとして受け止められます。この「赤く膿を持った面皰」を備えた顔の下人は、何も考えず、何もできず、行き場もなく、ただぼんやりと、雨凌ぎのできる羅生門へとやってきたのだと考えると、下人には特に意志があるようには思えません。一方で「面皰」から若さを連想させ、下人には「不明瞭な将来」と「その不安」を読み取ることができ、途方に暮れている彼の心情に説得性を持たせています。
そして下人は、「雨風の患のない、人目にかかる惧のない、一晩楽にねられそうな所」を求めて楼上へと上がっていきます。楼上には、行き場の無い、打ち捨てられた死体が幾つも転がっており、地獄絵図のような腐臭漂う死塚のなか、骸を漁る老婆がありました。一本、一本と、死骸の髪の毛を引き抜く老婆を見た下人は、その姿に慄きながらも、「六分の恐怖と四分の好奇心」から何をしているのかと問い掛けます。突然に話し掛けられた老婆は狼狽して逃げ出そうとしますが、下人は腰に備えた刀を抜いて、湧き上がってきた「あらゆる悪に対する反感」を持って、刃を突きつけて問い詰めます。この状況から、下人のなかに湧き起こった二つの心情が見えてきます。一点は「老婆の生死を握った状況による偽善」です。丸腰の老婆に対して、気付かれずに忍び寄り、さらには帯刀している下人が自覚している優越性から、目にした悪行に対して瞬間的に生まれた表面上の善の心です。もう一点は「他者を裁きたいという欲求的な偽善」です。雇用主に解雇を申し渡された下人が、立場を変え、自身が主導となって悪業を理由に他者を裁くことができるという状況から生まれた突発的な善の心です。この二つの偽善の心は、下人を自己陶酔の域にまで持ち上げ、言葉に上るほどに「検非違使」的な感情を持つまでに至ります。
偽善の鍍金は、いとも容易く剥がれ落ちます。下人が老婆の目的を聞くと、その目的が「平凡」であることに失望します。直前までは、自身が「検非違使」然として勇んで劇的な正義の人で居ることができましたが、大した悪業でないことが明かされ、そのような丸腰の小悪党に刃まで突き付けている職を失った虚しい下人という自覚が、彼の意識を現実へと立ち戻らせます。そして、沸き上がる不快な感情の全てを、下人は目の前の老婆へと向けます。「では、己が引剥をしようと恨むまいな」と、老婆の着物を剥ぎ取って羅生門の外へと駆け降りて行きました。悪業に対する勇気が芽生え、餓死から脱れる生き方を見出した、かのように思われる締め括りです。しかし、死骸の髪の毛を集めて鬘にしようとしている老婆の着ている着物が、如何ほどになるのかと考えると、しかも、その丸腰の老婆に対して帯刀しているという圧倒的な優位性を持っていながらも「六分の恐怖と四分の好奇心」しか心を保てない下人が、とても盗人として生きていくことができるとは思えません。つまり、下人の将来は「破滅」しか見えず、当然ながら、行方は知れぬことになります。
読者は、作中に「作者」が登場したことで、下人にも、老婆にも、死体の女性にも同調することはなく、この「楼上の出来事」を物語の外側から眺めることを強制されます。そして、「このような出来事を繰り広げる人間という生き物、或いは社会は、なんと醜く、黒洞々としているのであろう」という、芥川の厭世的な目線が表現されているのだと受け止めることができます。
周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまま生きる事を強ひられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は悪むべき嘲弄だ。
僕はイゴイズムをはなれた愛の存生を疑ふ。(僕自身にも)。僕は時々やりきれないと思ふ事がある。何故、こんなにして迄も生存をつづける必要があるのだらうと思ふ事がある。僕はどうすればいいのだかわからない。
芥川龍之介「大正四年三月九日 恒藤恭への書信」
この醜い実相の生において、魂が「なぜ」生き苦しいと感じるのかを突き詰めると、やはり芥川が「真善美」を重んじていたからであったのだと考えられます。そして「真善美」を兼ね備えるものは「芸術」であり、それを自身で体現しようとして芥川が取り組んだものが「文芸」でした。再掲すると、母の精神異常とその後の死、母の実兄の養子となった元士族家庭での芸術と文化における価値観、伯母の教育観などは、彼の「真善美」における価値観を高める要素であり、同時に実相の生に見られる醜さを露見させるものでもありました。思い通りにならない世を恨むのではなく、醜い世そのものに苦悩を感じるという心の形成は、多くの素晴らしい文芸作品を生み出すと同時に、芥川自身の生きる気力を削ぎ落としていきました。
人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を晒ふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない
芥川龍之介『芋粥』
自死を決意した芥川は、『河童』のなかで諷刺とともに自らの価値観の告白を行っています。作中では河童の地下世界という舞台で描かれ、死生観、真善美、思想、文化、自分の死後さえも予測的に描き、芥川は多くの問題に対して批判を与えています。遂に私小説として自分自身を吐露しなかった芥川に対して、文壇の一部では批判が飛び交いました。しかし、芥川の姿勢を慎重に受け入れるならば、そのような風潮こそ、真善美を欠いているのではないかと感じます。
痛ましいまでの自己分析にもかかわらず、最後の最後まで、そのものに最適の形式と文体をつくり出すことを忘れなかった。このことを、芥川はついに本音を吐かず、自分をはだかにしなかったと非難するものがすくなくなかった。いまもある。それが作家としての致命的な弱点のように評するむきがあった。いまもある。本音とは何か。表現者としての作家にとって、自分をはだかにするとは何か。痛いとき、痛いと絶叫し、苦しいとき、苦しいと訴えることであろうか。それが昂進すれば、さして痛くもないのに絶叫し、苦しくもないのに訴える習性まで生れてこないものでもない。もしそうならば、天下の凡俗は、朝に夕に、本音を吐いている。
臼井吉見『芥川龍之介全集』「人と文学」
芥川の作品を過去から辿るように読むと、彼の抱いた苦悩の一貫性とその膨らみが感じられ、最後に至る境地への同調さえ見えてきます。また、創作にあたっての苦痛は『戯作三昧』の滝沢馬琴が見せる心情から汲み取ることができ、「何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れて」いたことが理解できます。芥川自身は「ぼんやりとした不安」と表現していましたが、「実相の生における魂との不協和音」が彼を生涯に渡り圧迫し、心を疲弊させたことは明白であると言え、自死という選択をした行為にも、単調な同情以上の複雑な思いが湧き起こってきます。
本作『羅生門』は未読の方が少ないかもしれませんが、芥川の苦悩とその作家人生を踏まえて読み直すと、今までと違った解釈を得られると思います。ぜひ、読んでみてください。
では。