RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『カラマーゾフの兄弟』フョードル・ドストエフスキー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

父親フョードル・カラマーゾフは、圧倒的に粗野で精力的、好色きわまりない男だ。ミーチャ、イワン、アリョーシャの3人兄弟が家に戻り、その父親とともに妖艶な美人をめぐって繰り広げる葛藤。アリョーシャは、慈愛あふれるゾシマ長老に救いを求めるが……。

1830年ごろに隆盛した「ロシア詩黄金期」は、アレクサンドル・プーシキンミハイル・レールモントフを中心に素晴らしい詩を数多く残しました。ここに同時代の偉大な散文作家たちを加えて「ロシア文学黄金時代」と現代では括られています。含まれる散文作家の代表者と言えば、ニコライ・ゴーゴリレフ・トルストイイワン・ツルゲーネフなどが挙げられ、今回のフョードル・ドストエフスキー(1821-1881)もその一人です。詩に端を発するセンチメンタリズムは、散文によってロマン主義へと変化し、リアリズムへと変遷していきます。ドストエフスキーは心理描写に長けており、フリードリヒ・ニーチェに「学ぶことができた唯一の心理学者」と云わしめるほどでした。思想家としても強い影響を与え、ロシアの根幹を揺るがす考えに、遂には思想犯として逮捕され死刑判決まで受けることになります。執行間際に特赦により解放されますが、これは皇帝ニコライ一世の画策した仕打ちでした。これによりドストエフスキーの強い社会主義思想は大きな変化を見せ、ロシア正教人道主義へと大きく方向を変えてのめり込んで行きます。そして生まれた『罪と罰』がロシア国内で大きく受け入れられ、世界最高峰の散文作家として作品を生み出していきます。生み出された作品群は数多くの作家に影響を与えます。ヴァージニア・ウルフフランツ・カフカアーネスト・ヘミングウェイなど、枚挙に暇がありません。


本作『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキー最晩年に執筆された長篇小説です。物語は、父と三人の子を中心に繰り広げられます。

父のフョードル・カラマーゾフは淫蕩に耽り、金銭に強欲、気を衒った行動で注目を集める道化のような生き方を良しとする者でした。信心浅く、都合の良いときにだけ神に祈るような、裏切りや反故に無関心な、しかし金銭を増やす能力の一点にだけは長けている、そのような人間が三人の子をもうけます。

初めの妻との子である長男ドミートリー・カラマーゾフ(ミーチャ)は繊細さと傲慢さが同居した精神の持ち主で、感情の起伏が激しく、そしてその感情を抑制できずに周囲へ粗暴な態度を取り、のちに持ち前の繊細な心を自らで傷つけるような人物です。

後妻の子である次男イワン・カラマーゾフ(ワーニャ)は徹底的に思考を深く深く沈め、凶暴とも言える哲学の極端化を図り、理性的な抗神論者として自身の哲学を固めていきます。弟に語る『大審問官』という劇詩は、神の在否を読者に問いかけます。

もう一人の後妻の子の三男アレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)は、とても敬虔なロシア正教の修道者で、心優しく相手の気持ちを汲み取り、純粋で透明な心を持っています。そして、父にも二人の兄たちにもそれぞれに愛され、彼らの救いのような存在で描写されています。

この四人を取り巻く幾人かの登場人物がいます。アリョーシャが仕えていたロシア聖教の体現者のようなゾシマ長老、ドミートリーの元婚約者であるカテリーナ、フョードルの私生児と目されている下男のスメルジャコフなど、この家族に起こる事件を複雑に織り成していきます。


発端はフョードルとミーチャの確執

事件の発端は、父フョードルと長男ミーチャの仲違いでした。金銭的困窮にあったミーチャは、後妻の遺産をあてにしていましたが、フョードルは一切合切を自身の懐に納めてしまいます。しかし、それ以前にフョードルはミーチャと相続に関して先に取り決めており、事前に権利放棄書と引き換えに六千ルーブルを受け取っていたのでした。ここに輪を掛けたのが、グルーシェニカというミーチャの想い人です。潤沢な財産に目が眩んだのか、彼女は父であるフョードルを誑かして口頭ではあるものの婚姻関係までも仄めかし、父と子の三角関係を作り上げたのでした。この遺産と恋の問題を解決するためにカラマーゾフ家は集まり、話し合いの場を設けたのでした。


ミーチャに対するスメルジャコフの軽蔑

各自が胸に秘めたそれぞれの思いは、会話を重ねるごとに吐露されていき、やはり衝突してしまいます。フョードルとミーチャは決定的な亀裂を作り、問題の解決には程遠い結果となりました。アリョーシャが純朴な心で困惑を露わにする中、フョードルの下男スメルジャコフはミーチャに対する軽蔑の思いを強めていきます。素行が悪く、思慮に欠け、金銭に困窮している有様を見て、世間一般の下男以下でありながら、周囲から敬意を受けていることに不満を持っています。当時の階級では軍人は高い地位にあり、最低限の敬意を周囲から集めていたことは事実でした。しかしスメルジャコフは、自身が羞恥的に感じている出生の謂れや、現在の下男としての立場に強い変化を求めており、フランスへ離れて新しい人生を送りたいという希望さえ持っていました。この苦しい環境と、それによって作り上げられた鬱屈した性格は、イワンの抗神論的哲学へと傾倒していき、危険な思想の体現者として暗い心を成長させていきます。


スメルジャコフとアリョーシャの対比

スメルジャコフがイワンとの接触のみに集中して心を反応させていくのに対して、アリョーシャは殆どの主要な登場人物と対話を行い、どの人物も心を通わせて様々な胸の内を明かしていきます。相談や懺悔の告白など、真に信用して救いを求めます。語り手が主人公であると定義していることもあり、物語の進行そのものも彼の視点が多くなっています。しかしながら、スメルジャコフに対してのみ、そのような描写を見ることができません。神への信仰心が強いアリョーシャは、イワンの抗神思想に染まったスメルジャコフにとっては反対の立ち位置にあり、必然的に心の距離を取っていたからと言えます。アリョーシャが避けたというより、スメルジャコフが神の救いを求めていなかった、或いは求める必要がなかったと考えられます。イワンがスメルジャコフに語った「すべては許されている!」という思想は、彼の狂気的な考えを正当化してしまいます。


アリョーシャの神とイワンの悪魔

イワンはスメルジャコフに抗神主義を語りながらも、自身の中では戸惑いながら「この考えは正しいのか」を模索し続けます。突き詰め続けた考えは一つの幻覚を生み出します。悪魔と名付けたその幻覚は、イワンの悪の思考の具現者であり、対話の中でイワンの中に燻る信仰的不安を否定します。

この抗神主義の根源的な思考を、イワンはアリョーシャに詩劇として語りかけます。世界中で行われている幼児虐待の例をいくつか挙げ、このような犠牲が世の調和に必要なのであれば、自分はそのような未来は必要ないと断言します。高い犠牲の数々を払った調和の上の未来は、良いものと言えるはずもなく、また、その犠牲を欲する神になど傾倒するわけにはいかないと主張します。

この予定調和説は哲学者ゴットフリート・ライプニッツが唱えたもので、現実の世界で起こることは神が最善の選択を行った結果だとするものですが、これを全面的に否定する内容となっています。1755年に起こったリスボンの大地震における災害について哲学者ヴォルテールは『リスボンの災厄に関する詩』という詩篇を書いています。

されど、愛する子らに惜しみなく善を与え
かつまたその子らに悪をあまた降り注ぎ給うた
善意そのものの神なる存在を
どうして想像できようか

いつの日かすべては善となる
それこそわれらが希望
今すべてが善であるとは
幻想にすぎぬ

植田祐次訳『カンディード』解説より

これを受けて、アリョーシャはその中でも許される存在こそがキリストであり、受難者たちの救いになると諭します。そこでイワンは詩劇『大審問官』を語り始めます。


十六世紀の宗教裁判が盛んに行われていたセヴィリアを舞台に話は進みます。日ごと異教徒とされる者たちが聖職にある者により断罪され、火炙りによって命を落としている時代です。その地に舞い降りたキリストらしき人物(キリストとは断言していない)は、セヴィリアの民衆に接すると小さな奇跡から始まり、やがて命を蘇らせる大きな奇跡をも披露します。これに民衆はキリストであると確信して、その人物に付き従っていきます。この一部始終を見ていた聖職に関わる者が、衛兵たちに「この者をとらえよ」と捕縛を命じ、独房へと閉じ込めます。そこに聖職の権威である大審問官が現れ、キリストらしき人物に語り掛けます。「おまえがイエスか」と問いながらも返事を求めず、キリストであるかどうかは問題ではなく、キリストが語ったことなど全て理解していると突っ撥ねます。そして大審問官は、キリストの存在は現在のキリスト教において不要であり、民衆はキリスト教という宗教組織に救いを求めているのだと主張します。そして、宗教組織の権力を持つものにこそ世を導く力があり、崇拝される対象であるべきだと豪語します。実際に起こす奇跡ではなく、聖書に書かれた奇跡の描写こそが必要であり、その謂れを神的に崇めることこそが民衆の救いとなる、そしてその救いを与え続ける我々宗教組織の人間こそが必要とされていると断じます。この不信心の極みとも言える言説をキリストらしき人物は一語も反論せず、その大審問官に跪き、足元に口づけをします。この沈黙こそが読者に衝撃を与え、そしてアリョーシャへもイワンの考えを十全に伝える言葉となりました。


イワンとゾシマ長老

「このような世界を創る神を認めない」というイワンの抗神思想は、アリョーシャだけでなく、ゾシマ長老の信心とも関わっていきます。この抗神は神の在否を問い、未だ沈黙を続ける神の姿勢は、沈黙こそが神の罪であると解釈されていきます。この問いにゾシマ長老も同じくして沈黙を守り、イワンに抗弁することなく考えを受け入れ続けます。しかしこの行為は、ただ受動的になされているわけではなく、ゾシマ長老の強い信心が、否定的な抗神思想さえも包み込み、イワンの心の全体をも愛で包み込んでいたのでした。

そして、フョードルとドミートリーの口論において、ゾシマ長老がドミートリーに平伏して口づけた行為は、ただ訪れる大きな不幸を憂いたわけではなく、その不幸さえも包み込もうとしたと考えられ、キリストらしきものが大審問官の足元に口づけたことも、同様の意図からによるものと考えられます。つまり、ゾシマ長老の死体から放たれた異臭は、夥しいほど他者から内包し続けた抗神心、不信心が解き放たれたと言え、描写の醜さとは真逆な聖性を帯びています。


ゾシマ長老と新たな救済者アリョーシャ

計り知れない深さの信仰心を持ったゾシマ長老の教えは、事件を通して考えを深められたアリョーシャの思考と共鳴します。エピローグにおいて、将来を担う少年たちに向けて演説を行います。教えを説く長老のように、救済者としてのキリストのように、心に留めておくべき大切なものは何かを伝えようとします。

十三という不思議な数を持った「エピローグ」で、「十二人くらい」の少年たちに囲まれて、アリョーシャが石のまわりで語る。石とは初代教会の指導者「ペテロ」と読めるから、アリョーシャの言葉は新しい使徒たちに語る新しいキリストの言葉として響くのだろう。私たちの言葉では、ここでキリストは無力な「同行者」としてばかりではなく、「救済者」として実行的な愛の力を発揮しているように思える。

井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』

アリョーシャは次のように語ります。

「何かよい思い出、とくに子ども時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、その後の一生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。きみたちは、きみたちの教育についていろんな話を聞かされているはずですけど、子どものときから大事にしたきたすばらしい神聖な思い出、もしかするとそれこそが、いちばんよい教育なのかもしれません。自分たちが生きていくなかで、そうした思い出をたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです。」


そしてアリョーシャのこの言葉は、ゾシマ長老が遺した言葉と重なります。

「親の家からわたしが持ちだせたものは、かけがえのない思い出だけだった。なぜなら人間にとって、父母の家ですごしたごく幼い時代の思い出にまさる尊いものはほかにないからで、愛と信頼がかろうじてあるだけの貧しい家族でも、ほとんどの場合がつねにそうなのである。たしかに、どんなにひどい家庭にも、かけがえのない思い出が保たれることがある。といっても当人の魂に、そうしたかけがえのないものを探し出す力があればの話だ。」

スメルジャコフの心に「大切な思い出」を探し出す力があったならば、凶行に至ることなく、夢を追い続けてフランスへと新しい人生を探しに向かうことができたのかもしれません。


神の在否、罪の所在、赦しの在り方、信心と抗神、登場人物たちの性格と境遇が異なる価値観を生み出し、衝突とすれ違いを繰り返します。幸福とは何か、幸福を求める行動に罪は無いのか、幸福は犠牲の上に在るのか、幸福のために生きることは罪なのか、幸福は神より与えられるのか、人間が根源的に抱く問い掛けを鮮やかに浮かび上がらせる本作は、ドストエフスキーの晩年の思想を凝縮した作品とも言えます。読後に彼が提示した解釈を受けて、我々も深く改めて考えさせられる作品となっています。ドストエフスキーの作品群の中ではサスペンス色が強く、物語として読みやすい作品となっていますので、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

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