RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『神々自身』アイザック・アシモフ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

西暦2070年、タングステンと交換に〈平行宇宙〉からプルトニウム186がもたらされることが判明した。われわれの宇宙に存在しないこの物質は、無公害で低コスト、しかも無尽蔵のエネルギー源として歓迎され、両宇宙をエレクトロン・ポンプでつないでのエネルギー交換が実施された。だがこの魅力的な取引には、恐るべき陥穽が隠されていた……SF界の巨匠が満を持して放ち、ヒューゴー、ネビュラ両賞受賞に輝いた最高傑作


第二次世界大戦争、化学と戦争の結びつき、サイエンス・フィクションの世界が現実となった脅威、また戦禍により広がる荒廃と被害の恐怖、全体主義ファシズムに対する厭悪、これらが刺激となって戦後のSF作品が狭いエンターテイメントジャンルから、一つの文学的分類へと広まっていきました。それまで非現実を描いた異世界としての認識であったものが、リアリスティックな科学の世界へと変化した認識は、作家が主義、思想、諷刺、揶揄などを強く込めた作品を多く生み出していきます。このような戦後から1960年ごろまで続くサイエンス・フィクション隆盛の時代に、作風は戦前から大きく変わっていき、破壊や滅亡を多く描く社会諷刺の作品が見られました。ジョージ・オーウェル『一九八四年』、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』などが挙げられます。


多くの作家、そして作品がサイエンス・フィクションというジャンルのなかで生まれた慌ただしい時代ですが、この中でも特筆すべき「ビッグ3」と呼ばれる作家がいます。豊富な化学的知識を用いてリアリスティックな世界を描いたアーサー・チャールズ・クラーク、サイエンス・フィクションというジャンルを文学的に向上させようと試みたロバート・アンスン・ハインライン、著作は500冊を超えて科学に縛られず歴史や言語学なども手掛けていたアイザック・アシモフ(1920-1992)。この三人の活躍によって訪れた「真のSF黄金時代」は、それまでの常識や風潮を刷新し、新たな定義をもたらすほどの改革的な変化を遂げます。特に、アシモフによる短篇『われはロボット』で提示された三原則はあまりにも有名です。


しかし、作風が変化したサイエンス・フィクションの作品群は、過激さだけが膨らみ始め、読書に倦怠的な印象を与え始めます。この流れからの脱却をジェイムズ・グレアム・バラードを皮切りに、1960年ごろからイギリスを中心とした「ニュー・ウェーブ」というSFの運動が始まります。視点を外宇宙ではなく内宇宙(インナースペース)へと移して描き出す作風は、他の文学ジャンルから影響を受け、サイエンス・フィクションは融合して文芸性を帯びたものへと変化していきました。また、その動きはアメリカにも派生して、サイエンス・フィクション誌『ギャラクシィ』が中心となって、SFニュー・ウェーブを隆盛させていきます。フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?』などは、この時代のものと言えます。


このようなSFニュー・ウェーブ、外宇宙から内宇宙への視点変更に対して、ビッグ3の一人であるアシモフは、新たな波を描くことができるのか、といった挑発的な声を受けて執筆に取り掛かります。そしてちょうどこの頃に、友人のSF作家ロバート・シルヴァーバーグが討論の場で口にした存在しない物質「プルトニウム186」をアイデアの種に置いて、作品を創造していきました。それが本作『神々自身』です。


『神々自身』は、フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『オルレアンの少女』から引用された、三部作で構成されています。二十一世紀の後半、人類はパラ宇宙(パラレル・ユニバース)とエネルギーを交換するという技術を身に付けました。地球で手に入りやすいタングステン186と、脅威的なエネルギーを得ることができるプルトニウム186の交換は、人類の希望ともなり、活動に必要なエネルギーを全て補うことができるという夢のような資源でした。この交換を成す「エレクトロン・ポンプ」という設備を作り上げたフレデリック・ハラムは、物理学者の頂点に立ち、全ての権威を自在に操っていました。しかし、優秀なピーター・ラモントという青年が、パラ宇宙とエレクトロン・ポンプの研究を進めていくと、真に優れた技術を持っている者はパラ人(パラレル・宇宙人)であり、地球の存在はパラ宇宙にとって資源供給の傀儡に過ぎないことを突き止めます。そして、このエネルギー交換には地球側の宇宙を滅亡させる危機があることを推測しました。その行為にハラムは激しく憤り、ラモントを物理学界において行き場が無いように追い詰めます。それでも研究を続けるラモントは言語学者と協力して、パラ人とのメッセージ交換を果たします。そこには、ラモントの望みを打ち砕くものが書かれていました。ここまでが第一部です。


第二部は、パラ宇宙側の世界を描きます。性別が三種ある軟属と、交配を一切行わない硬属が存在する世界で、地球側の宇宙に比べるとはるかに規模が小さなものとなっています。ヒダリ配偶子である理性子オディーン、ミギ配偶子である親性子トリット、そして感性子デュアによる軟属三者のパートナー的な関係性は、一組の夫婦(三者ですが)をイメージさせられます。彼らの「融交」という繁殖行為に該当する行いは、それぞれが気化(のような原子の分散)して交わり合うというもので、強烈な快楽を伴い、子を授かる可能性を持っています。理性、本能、感情と、三者それぞれの特徴的な性格によって、この「融交」の捉え方もさまざまです。パラ宇宙における家族の概念は、理性子、親性子、感性子を子供として儲けると、親の三者は「終熄」しなければなりません。これを避けたいと願うデュアと、全ての子をもうけることが望みのトリットは、「融交」を巡って諍いを起こします。その問題と並行して、硬属が別の宇宙(地球側の宇宙)とエネルギー交換を成功させて、そのエネルギーに依存した生活を過ごしていました。しかし、この交換には別の宇宙の消滅が予測されていながらも、パラ宇宙側には危険が少ないことから継続して使用されていました。この問題に心を痛めたデュアは、別の宇宙へ危険を伝えようとメッセージを送ります。そして、この問題と硬属の「無融交」の謎が絡み合い、一挙に謎が明かされて第二部を終えます。


第三部では再び地球側の宇宙へと戻ります。ハラムがプルトニウム186(にタングステン186がいつの間にか変化していたこと)を発見したとき、優位な立場にありながらこの事実で業界から追いやられたベンジャミン・アラン・デニソンが中心人物として登場します。彼はエレクトロン・ポンプによって支配されている地球上から逃れるため、半世紀以上も経過している切り拓かれた月の世界へと訪れました。魅力的なルナ人(月の住人)セルニ・リンドストロムと出会い、月のエネルギー源となっている「プロトン・シンクロトン」について調べ始めます。この月のエネルギー処理に関する技術を活かして、デニソンは画期的なシステムの構造を思い描きます。これは現在置かれている地球側の宇宙の危機を、コズミック・エッグという別の宇宙(反パラ宇宙)を利用して切り抜けるというものでした。地球側の宇宙とパラ宇宙によって生まれている「負の作用エネルギー」を、反パラ宇宙へと逃がすようなイメージです。そしてこの構想を実現させるためにはラモントの協力とセルニの協力が必要です。そして物語は痛快な展開を見せて見事に収束します。


本作で特に強い印象を持っているのが、第二部のパラ人による融交描写です。それまで性的な描写は殆ど取り入れなかったアシモフにとって大きな取り組みであり、当時においては衝撃的なことでした。詳細に綴られる性行為での感情や、事細かな動きの描写は、非常にエロティックでありながら、融交自体が人間の行為とかけ離れているため、卑猥さが全く感じられません。しかし、エクスタシーの感情や度合いが見事な筆致で伝わり、「それほどまでの快感であろう」という他種の性行為としての冷静な受け取り方ができるという点で、三者がどれほどその行為から逃れられないのか、ということを伝えてきます。また、その融交の果てが「融合」となるという仕掛けも、見事としか言いようがありません。


三部作という複合的な構造は、空間的視野と時間的視野とを自然に融合、連結させて、整合性の取れた世界を構築しています。また、地球側の宇宙、パラ宇宙の描き方が不自然な橋渡しを必要とせず、独立させているからこその自然さを演出しています。実際に、第二部は独立して雑誌に連載されていたという背景もあり、敢えて世界観を断裂させているとも言えます。

本作の結末は「反終幕」と言えます。掲げられた問題や危機を如何に乗り越えるか、如何に打ち砕くか、といった目線ではなく、危機を如何に解消するかの一点に絞り、問題解決を放棄するという当時において新たな手法で描き切っています。このあたりにSFニュー・ウェーブの香りが漂い、反滅亡、反過剰、反破壊、反虚無、反達観と言った要素を上手く取り入れていると言えます。

 

こりゃ阿呆、貴樣に負けて己は滅びるのか!
阿呆を相手にしては、神々にさへ勝目はない。
智慧の神パラス・アテネは、大神の頭から
光り輝いて生れ出て、この世界の結構を
築き上げ、星の針路を定めた賢い女神だといふが、
迷信といふ狂ひ馬の尻尾に結へられ、
ひいひいと吠えながら、血迷ひ者の道連になって、
みすみす崖の下に轉げ落ちなければならぬなら、
いったい何の役に立つのだ!
偉大なもの、尊󠄁貴なものに命を捧げて、
賢い心でぬかりのない計をめぐらす者は
詛はれろ!この世は
阿呆の王の持物だ。──

フリードリヒ・シルレル『オルレアンの少女』


章題に現れるフリードリヒ・フォン・シラー『オルレアンの少女』の引用も、非常に効果的に用いられています。

百年戦争後半、獲得したはずのランスを失った後、パリまでも失ったという報せを受けたイギリスの総大将タルボットが、忌々しさと絶望から発した台詞です。真に理知的な彼は、「ジャンヌ・ダルクの奇跡」という迷信を間に受けて兵達が戦場から逃走するという事実に、呑み込まれるように戦況を覆され、自らも破滅へと導かれることを激しく嘆いています。フランスに侵攻し、連戦連勝でオルレアンへと辿り着きましたが、ジャンヌの出現から負け戦が度重なり、そして今この場で自らの死を迎えているという状況を受け入れることなど到底できず、呪いの言葉が止みません。「利権」に固執し、ジャンヌが演出した「奇跡」を悉く受け入れ、またその事象を真に受けた人々の逃避と迎合によって、イギリスの勝利が次々とフランスのものとなった戦いは、真実に目を背けた愚者たちによって被られ、真実を見据え続けたタルボットは破滅するという、不条理的な感情が強く伝わる場面です。この、利権を守って真実を見ない愚者(ハラムおよび物理学界)と反対する人物たち(デニソン、ラモントなど)の戦いを重ね合わせ、作品の題名や章題に引用されています。


1972 年に出版された本作は、同年のネビュラ賞を受賞し、翌年のヒューゴー賞を受賞しました。アシモフは自身の力量を充分見せつけると同時に、素晴らしい栄冠をも手にしました。その発端となった「プルトニウム186」という小さなアイデアの種をここまでの大作に成し得たのは、彼の持つ膨大な知識量と執筆の技量、そして挑発に対抗する強いエネルギーであったことを考えると、面白くも素晴らしく感じます。サイエンス・フィクションではありますが、人間同士の感情の動きが多く描かれており、非常に読み進めやすい作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

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『プラテーロとわたし』フアン・ラモン・ヒメネス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

真っ青な空と真っ白な家が目にいたいほど明るい、太陽の町モゲール。首都マドリードで健康を害したヒメーネスは、アンダルシアの故郷の町の田園生活の中で、読書と瞑想と詩作に没頭した。月のように銀いろの、やわらかい毛並みの驢馬プラテーロに優しく語りかけながら過ごした日々を、138編の散文詩に描き出す。


スペインの最も西側、アンダルシア州ウエルバにある小さな自治都市モゲル、村と呼ぶ方が似つかわしいほど、自然が美しい牧歌的な土地です。そこでワイナリーを営むカスティーリャ人の父と、アンダルシア人の母のあいだに生まれたのがフアン・ラモン・ヒメネス(1881-1958)です。大変裕福な環境で育てられた彼は、ウエルバの南東にあるカディスのイエズス系教育機関で充分な教育を与えられ、ブルジョワジーたちの子供と共に進学していきます。同アンダルシア州にある名門セビリア大学へ進むと、家業であるワイナリーを継ぐために法学を学びます。しかし、彼は大学内での絵画の授業に触れるうち、彼の詩性は開化し始め、芸術に強い関心を持つことになりました。これに父親は寛容な理解を示し、絵画などの美術に傾倒し、その後に古典文学に耽溺することを優しく見守ってくれました。恵まれた環境と、持ち前の詩性によって、芸術への理解を深め、彼は「詩」という芸術表現に辿り着きます。その頃隆盛していたスペインの叙情詩人たちに、自分から積極的に触れ、詩作を重ねて出版社へ投稿し、徐々に文壇と世間に認められ始めます。


1900年にヒメネスは、スペインの詩人や劇作家として活躍したフランシスコ・ビジャエスペサ・マルティンに誘われて、首都マドリードへと向かいます。そこでは、ラテンアメリカニカラグアから訪れていた詩人ルベン・ダリオが精力的に活動していました。「美」を鮮烈な印象と音楽的な韻律で見つめ、カスティーリャ叙情詩の革新をめざすというモデルニスモ運動(Modernismo、モダニズム)の一貫で、アルゼンチンの作家レオポルド・ルゴネス、キューバの作家ホセ・マルティなどが支持した運動です。発足当初は、叙情詩の革新を異端的な行為と見て、批判的な評価を受けていましたが、ルベンの著書『青』(『AZUL…』)の発表により、詩の定められた形式からの脱却が理解されて、多くの支持を受けて運動が隆盛しました。西欧への運動拡大のために訪れていたルベンに、マドリードヒメネスたちは出会います。内なる情熱、視点、旋律、韻が、新たな目線で捉えられ、ヒメネスの詩性はさらに開花していきました。


モデルニスモの影響を受けたヒメネスは激しく机に向かいますが、突然の不幸が襲います。最愛の良き理解者である父親が急死しました。「死」という恐怖がヒメネスを襲い、精神が激しく衰弱して、執筆だけでなく生活もままならなくなります。彼は、南フランスのサナトリウムで療養することになりました。心を休めるための療養でしたが、詩に対する熱意は消えず、その地で生まれた南フランスの詩に触れはじめました。そして、そこには、強烈な詩性が込められていました。シャルル=ピエール・ボードレールが、フランス韻文詩が与えていた雁字搦めの道徳観を破壊し、本質的な「美」を表現した新たな詩でした。悪と美を主軸に表現された新たな詩は、ヒメネスに強い衝撃を与えます。


宗教によって束縛されていたカスティーリャ叙情詩を解放したモデルニスモ、道徳の啓蒙によって束縛されていたフランス韻文詩を解放した散文詩、これらはヒメネスにとっての「詩の在り方」を根源的に揺さぶりました。そして彼は、彼が辿り着いた「純粋な詩性」という概念の表現を目指すことになります。こうして芽生えた新たな概念を、サナトリウムでの療養期間に筆に込め、書き上げたものが『プラテーロとわたし』です。


本作で語られる出来事は、一年の季節に合わせて綴られています。春に起こり、冬に最高潮に達するという流れは、138の詩篇を繋げるものではなく、「わたし」の意識の流れと一致するものであり、「プラテーロ」の短い生命との一致でもあります。全ての短い詩篇は、アンダルシアにおける田園生活の自然に人生を照らし合わせ、陽の光とともに人間の明暗を細かな描写で映し出しています。その喜びや悲しみを、親近感を持ち合ったプラテーロとわたしの愛情によって会話が生まれ、出来事を客観的に捉えています。そこには鋭い観察眼が見えますが、見えたものを突き詰めるのではなく、そうした痛みや苦しみを分かち合おうとする二人の優しさが、全篇にわたって込められています。そして季節の終わりにプラテーロを失った喪失感と悲しみを、「わたし」はどう受け止めて、どう歩んでいくのかが、物悲しさ溢れる幸福で綴られます。


星の美しさ、花の美しさ、果実の美しさ、幾つも「美」が視界に広がるような筆致は、そのものが大変美しく輝きさえも帯びています。反して、カナリアの死、犬の死、馬の死、少女の死など、「死」は現実であるという、ヒメネスサナトリウムで最も苦しんだ概念も、目を逸らさずに見据えられています。また、象徴主義の影響が「霊魂」を表す「蝶」となって、幾たびも詩篇に登場します。こうした「美」と「死」の共存は、人間の本質的な感情に結び付き、それを純粋な詩性へと昇華し、そして、明暗や寒暖、剛柔などを巧みに綴り、自然や現象を美しく表現して、詩篇を隈なく彩っています。

 

この花はね、プラテーロよ、ほんの数日しか生きないだろう。けれどもその思い出は、いつまでも消えうせることはあるまい。この花のいのちの長さは、きみの一生のなかの春の一日か、わたしの一生のなかの春の一つにひとしいものだろう……もしかりに、この聖い花と交換できるならば、プラテーロよ、わたしは秋の季節にたいして、何をあたえてもかまわないのだが!なぜってこの花にはね、わたしたちの日ごろの生き方の、素朴な、永遠の手本になってもらいたいからさ。

「道ばたの花」


幾多の事物がプラテーロとわたしに関わろうとも、決して直接的に彼等のあいだには入り込みません。あくまでも彼等の外側に存在し、観察される側の立場から変わることはありません。彼等が交わす会話は、堅固な世界の中で構成され、一層に親近感を高めています。ヒメネスは本作を、子供時代に過ごした田園の世界と、彼が生まれた土地そのものに戻ることを想定して描いています。彼は詩的な散文を使い、元々抱いていた懐古的な思い出の風景を、「美」を特化して映し出し、純粋な詩性を表現しています。それを助長させる存在が「プラテーロ」であり、彼等の友情や愛情が溢れるばかりに織り込まれています。

 

プラテーロは存在するのかと多くの人に尋ねられました。もちろん、彼は存在しました。アンダルシアの農場主は馬、雌馬、騾馬に加えて、驢馬を飼っています。驢馬は、馬や騾馬とは違った役目を与えられており、世話はあまり必要ありません。徒歩の遠出をする時に軽い荷物を運んだり、疲れた子供を乗せたり、移動中に病気や怪我をした人を乗せたりします。「プラテーロ」は銀色の驢馬の一般名(しろがね号のような意味合い)で、「モヒノ」は黒い驢馬、「カノ」は白い驢馬です。実際に存在した私のプラテーロは一頭の驢馬ではなく、複数の銀の驢馬の思い出を合成したものです。私は、少年時代や青年時代に何頭か飼っていました。彼らはどれも、銀細工のようでした。彼らとのすべての思い出が一頭の「プラテーロ」となり、作品の中で姿を現してくれました。

ゼノビア・フアン・ラモン・ヒメネス博物館 インタビュー


本作には、「アンダルシアのエレジー──一九〇七-一九一六年」という副題が付けられています。哀歌や挽歌といった意味合いを持つ「エレジー」ですが、詩においては「悲しみを歌ったもの」という意味が強くなります。本作で描かれる暖かさやおかしみは、「プラテーロ」の最期を迎えて懐古的に描いたものであると受け止めると、非常に胸の詰まる悲しみが襲ってきます。そして季節が秋から冬へと変化して終わりが近付くと、蝶(霊魂)が舞う表現が目につき始めます。ゆっくりと想起させる「プラテーロの最期」が遂に訪れると、「死」の恐怖が強く覆い被さってきます。しかし、プラテーロのいなくなった厩に舞う美しい蝶は、儚くも幸福を帯びた感情を思い起こさせ、愛されて過ごした記憶がより美しいものへと昇華されます。


スペイン内戦によってプエルトリコへと亡命し、その地で亡くなったヒメネスとその妻は、彼の出生の地へと帰り、ともに眠っています。「プラテーロ」となった幾頭かのしろがね号も同じ地に眠り、何匹かの蝶が美しく待っている景色を想像してしまいます。児童書としても用いられ、教科書などでも使用されているほど読みやすい本作『プラテーロとわたし』。未読の方は、ぜひ読んでみてください。

では。

 

 

『バッハの生涯と芸術』ヨハン・ニコラウス・フォルケル 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

楽家フォルケルの手に成る本書(1802)は、バッハの生涯を略述した上で、作品、作曲の方法、演奏の仕方、弟子の養成等について語り、ドイツの国民的財産としてのバッハを顕彰した最初の本格的評伝。諸処に挿入された訳注によって、19-20世紀のバッハ研究の変遷を辿ることができ、恰好の入門書ともなっている。


音楽学創始者として名を知られるヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749-1818)は、靴屋の息子として生まれました。ドイツのバイエルン州メーダーで過ごした彼は早くから音楽に関心を持ち、また良きオルガニストの元で学びました。彼の才覚はすぐに現れ、十八歳にしてシュヴェリーン大聖堂の聖歌隊の合唱団長となり、そこでオルガン演奏を身に付けました。その後、ゲッティンゲン大学にて音楽史を学び、大学教会のオルガニストとして活躍します。また、在学中から教授と変わらぬ知識と感覚を見せて講義を行うなど、当時の音楽界でも一目を置かれる優秀さを披露していました。1779年に大学の音楽監督になり、コンサートの指揮やオルガンの演奏など、生涯を終えるまでゲッティンゲンで才能を発揮し続けました。


彼が研究を続けていたものは、結果的に未完に終わった『一般音楽史』についてです。フォルケルはヨハン・ゼバスティアン・バッハの熱烈な信奉者でした。音楽史におけるバッハの重要性を世に説くため、熱狂的にバッハを論じ、音楽界にその偉大さを伝えようと声を枯らしました。

 

天性と教育によって足ることを知り、生活のために多くを必要とせず、自分たちの芸術によって与えられる内心の楽しみがあるために、当時著名な芸術家に特別な名誉の印として貴紳から与えられた黄金の鎖を欲しいとは思わず、それなしには幸福になれないような他の人々がそれをつけているのを、少しも羨むことなしに眺めることができたのである。


当時のバッハの評価は作曲家としてではなく、「偉大なオルガニスト」としてのものでした。即興演奏や即興作曲、或いは即興編曲が素晴らしかったことはもちろん知られていましたが、どちらかと言えば特殊技能のような扱いで、音楽家としての作曲の評価ではありませんでした。このような評価を覆そうと、バッハの生活とプロテスタントとしての生涯を、バッハが生んだ曲の数々と照らし合わせて研究し、著作としたものが本作『バッハの生涯と芸術』です。本書では、いかにバッハの作曲が素晴らしかったか、といった内容が様々な角度から語られ、裏付けるように曲ごとに分析されています。

 

一つの芸術への抗いがたい衝動をもった最大の天才とは、その本来の性質から言って、素質すなわち一種の肥沃な土壌以上のものではない。しかしこの土壌には、芸術家が飽くことなく入念に耕すのでなければ、芸術はまともに育つことができない。元来すべての芸術と学問の元となる勤勉こそ、そのための第一の、もっとも不可欠な条件のひとつである。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)は、十八歳のとき、アルンシュタットの新教会に製作されたオルガンの鑑定を任されました。鑑定者としてだけでなく、その試奏の素晴らしさから奏者としても教会に認められ、新教会のオルガニストに選ばれました。比較的に自分の時間を持つことができた職務であったため、家族との時間を持ちながら先人たちの音楽を吸収していきました。しかし、まだ若きバッハには自身の感情を抑えることが困難で、指導していた聖歌隊隊員たちとの意見の食い違いや、聖職議会とも方向性の違いで軋轢を生んでいきました。四週間の休暇を取ったバッハは、聖母マリア教会のディートリヒ・ブクステフーデのオルガン演奏を聴きに行きます。半音階や不協和音の使用、大掛かりな転調など、その演奏はバッハを大いに魅了します。しかし、のめり込むあまり、結果的に十六週間も帰ってこなかったことが問題となり、バッハはアルンシュタットを退かなくてはならなくなりました。その頃、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストが後任を探していると知り、そちらへ移ります。カンタータ「キリストは死の絆につきたまえり」(BWV4)、葬送カンタータ「神の時は最上の時なり」(BWV106)、「結婚式クォドリベット」(BWV524)、大規模なカンタータ「神はわが王」(BWV71)など、多くの楽曲をこの地で生み出しました。その後、バッハはザクセン=ワイマール宮廷楽団への移籍を願い出ました。宮廷オルガニストの後任を探していること、城内教会が改修されたこと、俸給が倍近くあったことなどが理由とされています。


バッハの主君であるヴィルヘルム・エルンスト公は、宗教政策の推進と宗教音楽の保護に力を入れていました。ワイマールは、宮廷楽団十五名、軍歌隊七名だけでなく、市内にも町楽師が溢れ、多くの職業音楽家の住む城下町でした。職務もエルンスト公はよくバッハの意見を聞き入れ、楽師となっても良い待遇は変わらず、また、家庭生活も順風満帆で、子どもに囲まれながら幸福に過ごすことができました。後に大成する二人の息子、ヴィルヘルム・フリーデマン、カール・フィリップ・エマヌエルも、この時に生まれます。作曲活動においては、エルンスト公の助言もあり、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲様式を取り入れた作品などを手掛けるなど、さらに楽曲を幅広いものとしています。「トッカータアダージョとフーガ ハ長調」(BWV564)などはその例です。また、ワイマール宮廷オルガニストとしての職務を果たし、「カンツォーナ」(BWV588)、「ドリア調のトッカータとフーガ」(BWV538)、コラール前奏曲「オルゲルビュヒライン」(BWV599-644)など、現代に残されるオルガン曲の殆どを、このワイマール時代に作り上げました。

その後、ハレの聖母教会が専属オルガニストの後任を探しているということでバッハの心は揺らぎましたが、結果的にエルンスト公が俸給昇格と楽師長への昇進を提示してワイマールに踏み留まりました。この昇進によって教会音楽を任され、毎月一曲のカンタータ作曲と上演が義務付けられました。「天の王よ、よくぞ来ませり」(BWV182)、「泣き、嘆き、憂い、畏れよ」(BWV12)、「歌声よひびけ」(BWV172)、「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」(BWV61)など、次々と作曲し、演奏しました。その後も滞りなく義務を果たしていたバッハでしたが、領主エルンスト公と、その甥エルンスト・アウグスト公との対立に巻き込まれ、環境に居心地の悪さを感じ始めます。状況に悩んでいる最中、アウグスト公の妃の兄であるアンハルト=ケーテン侯レオポルトが助け舟となり、ケーテン宮廷楽長に招聘されました。しかし、これを良しとしないエルンスト公はバッハを投獄してしまいます。約一ヶ月の禁固処分から釈放されると、ようやくケーテンへと向かうことができました。


ケーテンでは宗教改革の影響に悩まされます。ルター派カルヴァン派が領主の実権を握るごとに、その作曲も左右されていました。レオポルト侯はカルヴァン派であり、バッハはその思想に基づいて職務を果たすことになりました。侯は音楽を愛し、音楽に理解を示していました。バッハが宮廷楽団に必要だという進言は悉く受け入れます。もちろん俸給も前任者の倍以上を与えられるなど、破格の厚遇でした。またレオポルト侯も自身で演奏を振るうなど、バッハは宮廷楽師長として存分に力を発揮する環境を与えられます。この頃に作られた楽曲は、「ヴァイオリン協奏曲」(BWV1041-1043)、「ブランデンブルク協奏曲」(BWV1046-1051)などが挙げられます。また、本来の職務における作曲は、「高められし肉と血よ」(BWV173)、「イエスの復活を知る心は」(BWV134)、「いまぞ去れ、悲しみの影よ」(BWV202)などがあります。レオポルト侯とバッハは有効な関係を継続して、貴族たちの保養地カールスバートへ連れ立つなど公私共に行動していました。ところが二度目の保養地訪問から帰宅すると、バッハの妻が病により急死してしまいました。家庭の急変に合わせて、この頃を境にレオポルト侯の音楽熱は下がり始め、バッハは公私共に苦しい環境に立たされてしまいます。その頃、ハンブルクの聖ヤコビ教会のオルガニストが亡くなり、その後任を探しているということで、応募します。コラール「バビロンの川のほとりにて」の即興演奏は、オルガニストの大家ラインケンが見守るなか、見事な熱狂の渦を生み、聴衆の大きな喝采を受けました。それはラインケンの言葉からも伝わってきます。

「私は、この芸術は死に絶えたと思っておりましたが、今それがあなたの中に生きているのを目のあたりにしました」

バッハの採用は間違いなく、また本人にも伝えられましたが、結果的にバッハはこの申し出を断ることになりました。後にこの地位に収まった人物が多額の寄付を行ったという事実がわかったことから、バッハが官職売買の慣習を否定したことが原因であると見られています。この頃、自筆楽譜で書かれたものは、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001-1006)、「無伴奏チェロ組曲」(BWV1007-1012)、「無伴奏フルートのためのパルティータ」(BWV1013)などであると言われています。

翌年にバッハは再婚しました。共にケーテン宮廷楽団で励まし合いながら、公私を共に支え合います。妻のアンナ・マグダレーナはソプラノ歌手で、バッハの半分の俸給を貰うなど、経済的にも大きく安定し、バッハも創作に力を込めることができる環境でした。また、妻にも音楽の教育として「音楽帳」を贈り、それを用いて作曲などを行っていました。この頃よりバッハの家庭に向けた音楽熱が高まり、「御身がともにあるならば」(BWV508)などからその感情が見られ、長男フリーデマンのために書いた「クラヴィーア小曲集」などが出来上がり、これらの教育用曲集をまとめ上げた「平均律クラヴィーア曲集第一巻」が完成します。しかしケーテン宮廷楽団での職務熱は反比例して下がっていきました。レオポルト侯が「音楽嫌い」の従姉妹アンハルト=ベルンブルク公女フリーデリカと結婚したことにより、著しく音楽熱が冷え切ったためでした。


ライプツィヒのトマス・カントル(プロテスタント教会での音楽的行事一切を任される者)であるクラヴィーア曲「聖書ソナタ」の作曲家ヨハン・クーナウが亡くなったことで、後任の選定が始まりました。先方にとっては、「最良の人」ではない妥協的な選定でしたが、結果的にバッハが正式に契約を結びました。三時間以上の礼拝式の間、延々とオルガンの前に座り、前奏曲やコラールを続けざまに演奏しました。そのような忙しさのなかで、バッハは三百曲以上の教会カンタータを作曲しました(現存するものは二百曲程度)。「イエスよ、わが喜び」(BWV227)、「マニフィカト 変ホ長調」(BWV243a)、「ヨハネ受難曲」(BWV245)などが演じられました。また着任翌年の復活祭には、「復活祭オラトリオ」(BWV249)が聖ニコライ教会で上演されました。こうした熱心な新曲作成によって、向こう数十回分の礼拝用の曲を蓄えたことで、少し精神に余裕を持つことができました。そして遂に生み出されるバッハ声楽曲の代表的存在「マタイ受難曲」(BWV244)が世に現れました。こうした名作の数々を生む創作活動の隆盛に反して、職務における方々の対立は激しいものがありました。聖パウロ教会が取り入れていた「新礼拝」の監督権争いや、礼拝におけるコラールの選定権限など、音楽の外で繰り広げられる争いに、バッハは疲弊してしまいます。半ば職務放棄の状態を続けてしまい、減法処分をうけ、創作熱も冷めてしまいます。住みにくいライプツィヒに居ながら、旧友や他の音楽に惹かれ、彷徨うように心は留まりませんでした。そのような中でも、機会あるごとに貴族への訪問は欠かさず、またそのような時にはすばらしい曲を生み出しています。ロシア公使ヘルマン・フォン・カイザーリンク伯爵の不眠改善のために書かれた「アリアと種々の変奏」(ゴルドベルク変奏曲)(BWV988)、「平均律クラヴィーア曲集第二巻」、そして、声楽曲の代表的な作品「ミサ曲ロ短調」(BWV232)などを生み出します。


カイザーリンク伯爵は音楽界におけるバッハの擁護者となり、フリードリヒ大王との仲介に尽力しました。貴重なジルバーマン製のフォルテピアノと共に出迎えた大王は、早速バッハにフーガの即興演奏を依頼します。期待に応えた素晴らしい演奏は、大王から大いに称され、その後も聖霊教会でのオルガン演奏も依頼されました。ライプツィヒに戻ると、バッハは即興演奏を基に大王を主題とした厳格なフーガを仕上げます。同じ頃に、以前より薦められていた「音楽学術協会」へ、「BACH」を表す14番目の会員(B=2、A=1、C=3、H=8、合わせて14)として入会します。こうした晩年と言われる頃に、大作「フーガの技法」(BWV1080)は仕上げられました。しかし、ライプツィヒにおける誹謗中傷や争いによる精神疲弊によって脳卒中を起こして倒れます。一度は回復しますが、以前から患っていた内障眼が酷くなり、二度の手術失敗で体力は尽き、帰らぬ人となりました。

 

一七五〇年にこの世を去るまで、バッハには、懐疑や内面的誘惑に陥ることもなくひたすら創作に専念し得るという幸福が与えられました。啓蒙主義がその世俗的な考えをしだいにあからさまに押し出してきた時代であったにもかかわらず、バッハは泰然自若として彼のプロテスタント正統派の立場を守りつづけます。私たちが今から教会暦にもとづく祝祭日にのぞんで数々のコラール前奏曲、つまりバッハが言葉──「主の御言葉こそ進みにすすめ」という意味での言葉──に忠実に奉仕しながら作曲した復活祭、聖霊降臨祭、クリスマスなどの聖書章句を聴いてみれば、バッハに見られるこのような信仰が人生にもたらす確固不動とした態度を再認識するでありましょう。多声的音楽がより和声的に基礎づけられた音楽に席をゆずり、すでにソナタという新しい形式が胎動し始めていた時代であったにもかかわらず、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは『フーガの技法』によって彼の作品と古き時代とをみごとに完結したのであります。

エーミール・シュタイガー『音楽と文学』


バッハはバロック音楽の時代の最後の人と言われています。その後に開かれた時代を、フリーデマンやエマヌエルといった息子たちが牽引しました。バロック音楽からロマン派へという、革命とも言えるこの変化はハイドンモーツァルトベートーヴェンへと連なり、現代まで続くクラシック音楽の基盤となっています。バッハは「マタイ受難曲」、「平均律クラヴィーア曲集」、「フーガの技法」などを作り上げ、そのバロック音楽自体を完成させました。

 

バッハにおいては、音楽的な出来事は実に精緻そのもののように経過します。しかし主題は独立した生命を持ちうるほど分離して展開されていません。作品と作曲者との間の臍帯はまだたち切られていず、音楽はまだその創造主とぴったりと直接に結びついています。それゆえ彼の場合、ベートーヴェンの音楽が生命としている主題と主題の対立、「創造的な対位」というところまでは行っていなかったのです。しかしこの二人においては、──あらゆる差異があるにもかかわらず、──偉大であることの源泉は、客観的な創造への意志と巨大な主観性との両極端性を持っているという一致した点にあると思われます。
これこそロマン派がバッハにおいて共感し、バッハに魅せられた所以でありました。メンデルスゾーンは、彼の生涯にわたって、彼自身の作曲や、彼自身作曲したオラトリオの中でバッハの感動から免れることはできませんでした。このメンデルスゾーンによるバッハの再発見以来、ロマン派はバッハの音楽の中に理想の典型を見つけた、と信じました。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー『音と言葉』


フォルケルの、多くのバッハの資料による知識と、バッハの息子たちによる情報提供によって進められた研究は、やがて本書の完成によって形となります。1802年のこの発表より、徐々に当時の音楽界ではバッハ芸術の見直しが行われました。そして1829年の、若きメンデルスゾーンによる百年ぶりの「マタイ受難曲」再演は聴衆へ凄まじい衝撃を与えて、バッハの天才性を再考するに至りました。ここから、バッハの声楽曲が見直され、改めて光が当てられました。時代の変化によって埋もれかけていた「名オルガニストとして知られた真の音楽家」を掘り起こし、世に再考させる機会を設けます。フォルケルのかき集めた資料や楽譜は、現存する貴重なバッハの遺物として残され、現代においても研究材料とされています。

 

ライプツィヒ定期演奏会第十三回から第十六回について)
最も深い印象を与えたのは、クルツィフィクスス(Crucifixus)だったろう。これは、バッハのほかの曲以外には匹敵するもののない傑作で、あらゆる時代のあらゆる大家たちがすべて頭を下げるにちがいない。
第二部はヘンデルの作品だったが、こういって失礼でなければ、バッハの前にききたかった。バッハの後では、あまり深い感銘を与えない。

ロベルト・シューマン『音楽と音楽家


クラシック音楽の父」と言われる評価の根源は本書にあります。フォルケルの狂信的なバッハへの熱意が、新たな時代の流れを畝らせ、結果的にロマン派隆盛の足掛かりとなったと言えます。前述した多くの作品の殆どが、地方の名オルガニストという評価だけで、過去に埋もれてしまっていたままだったらと考えると、現存するクラシック音楽がどれほど欠けていたか想像もつきません。偉大な作曲家を生んだ根源的な作家であるバッハ。未読の方はぜひ読んで、また、聴いて楽しんでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

 

『ユモレスク』久生十蘭 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

現役の作家のなかにも熱狂的なファンの少なくない、鬼才、久生十蘭の精粋を、おもに戦後に発表された短篇から厳選。世界短篇小説コンクールで第一席を獲得した「母子像」、幻想性豊かな「黄泉から」、戦争の記憶が鮮明な「蝶の絵」「復活祭」など、巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す全15篇。


異端作家として名を残す久生十蘭(1902-1957)は北海道の函館で生まれました。母は船問屋(商船取引の積荷管理や船主との契約取次など)を営む家の次女で、父はその番頭頭でしたが、幼少期の殆どを母方の祖父の元で養育されました。荒くれた素行の悪さが目立つ学生で、函館中学校を中退し、上京して聖学院中学校に入るも中退するといった状況でした。帰郷すると函館中学の先輩にあたる長谷川海太郎林不忘牧逸馬、谷譲治の筆名で活躍した作家)の父が経営する函館新聞社で厄介になります。芥川龍之介をはじめ、文学への興味が強かったこともあり、職務はジャーナリストから文芸欄編集へと移行していきました。演劇に関心を持つと、戯曲を書き上げるなど、自らも執筆を進めながら編集業に携わります。そして自身の作品を文芸欄へ掲載し始めると、やがて岸田國士に師事し、「悲劇喜劇」の編集にも携わるようになりました。

十蘭は1929年、フランスへと渡ります。パリ物理学校でレンズ光学を学びました。突然の方向転換ですが、二年後にパリ市立技芸学校で演劇を学んでいることから、内輪である種の取り決めがあり、口実として勉学のために渡って、その後に本来の目的の演劇を研究したと勘繰ることができます。その後、モンマルトルのアトリエ座主催者シャルル・デュランとの縁を繋ぎ、演劇を深く理解することになりました。帰国後、研究の成果を活かして新築地劇団で力を発揮しようとしますが、意見が合わずに間もなく脱退しました。


その当時、函館中学校の後輩である水谷隼総合雑誌新青年」の編集長を務めていました。江戸川乱歩横溝正史などが連載した人気雑誌で、前述の牧逸馬小栗虫太郎夢野久作などを輩出しました。十蘭はフランス文学の翻訳を中心に投稿していましたが、やがて掲載が続き、初小説『黄金遁走曲』を発表します。好調に執筆を続ける最中、師の岸田國士より声が掛かり、文学座へ参加して演劇にも力を振るいます。執筆、演劇と忙しいなかで文壇の地位を固いものとすると、大作『魔都』を書き上げて、久生十蘭の名を世に知らしめました。しかし第二次世界大戦争における国内の戦禍が広がると、十蘭は海軍に招聘され報道班として台湾、フィリピン、インドネシアニューギニアへと派遣されます。過酷な環境下での生活に苦しみ、消息不明の危機にまで侵されますが、翌年には帰国して終戦まで疎開しました。その後も作品を書き続けましたが、1957年に食道癌で亡くなりました。


十蘭は、フランスに渡った実地での経験や、飽くこと無き探究心によって蓄えた膨大な知識、調べに調べた各国の情勢、そして自身の戦争体験と、多面体のようにそれぞれが個性の礎となり、また共鳴し合って生み出される独特の文体を帯びさせて、亡くなるまで幾つもの作品を世に出しました。

他国の言語を自在に操り、他国へ行き来、或いは住み、感覚も日本人離れした登場人物たちが、それぞれに長けた深い知識を披露する、洗練された人物像から滲み出てくる人間味。このような非日常を思わせる演出は、久生十蘭の意識的であり無意識的である意図を持って描かれています。彼の作品は、主に第二次世界大戦争後に書かれています。当時の情景は、比喩的にも現実的にも、見渡す限りの荒廃と虚無に覆われ、飢餓と貧困に背中を突かれるような様相で、町の人々はその互いの苦しい状況下で起こる小さなおかしみ、小さな笑いに、無くは無い希望の種を見出して暮らしていました。そのような、戦後のささやかな微笑ましさを文学に乗せる文壇風潮を全否定して、彼は独自の作風で作品を生み出します。そして込められる非日常感には、荒廃と虚無からの脱却が通底する願望として存在しており、登場人物たちの性格に反映していると言えます。

 

これまでの日本の読書界で喜ばれてきたような、人間的な苦悩の露呈、いかに生くべきかという指針、愛と死の葛藤がもたらす教訓等々の、なにがしか人生論的なものが小説なのではない、その蔭には実は嫌味なうなずき合いが取引されているのだと、エンタテインメントに本能的なうしろめたさを感じる読書傾向こそおかしいのだ

中井英夫久生十蘭論』


文体に独自性が感じられる一つの要因として、改校に改校を重ねて隙の無い作品を作り上げるという手法が挙げられます。本書に収録されている『母子像』はその典型的な作品と言えます。第二十六回直木賞で『鈴木主水』を強く推した大佛次郎の助言もあり、「作家の新聞」と呼ばれるニューヨーク・ヘラルド・トリビューン主催の世界短篇小説コンクールへ参加しました。訳業は吉田健一が請け負い、見事に第一席を獲得しました。作品を書き上げた当初は百枚以上にわたる長篇作品でしたが、校正を重ね、削りに削ってその鋭さを読者に突きつけるという手法に拘り、作品を二十枚に圧縮しました。補足や説明を付け加えていくならば何百枚でも書くことができますが、十蘭は余計なものを排斥し、撓みを無くし、文体を絞り上げました。このようにして、十蘭の矜持によって作り上げられた数々の作品は、冷酷とも言える沈着な視線が感じられ、作家と作品に距離を置いた冷静さが内容をより一層に、突きつける感覚を鋭敏に尖らせています。


不動の作風を貫いた十蘭は、文壇においても特異な立場を維持していました。変格探偵小説作家として、小栗忠太郎や夢野久作と並び称されることもありますが、彼らは文体そのものが特異であった言えます。戦前は、大衆文学作家でさえも独自の文体や構成を持っていたものでしたが、戦後となると、そのような風潮は蔑ろにされ、似たような身の上話や同情話が量産されていきました。当然、戦後を生きる、生き延びるための希望や指針が示された作品は、なるほど当時においては多くの読者の心を救ったかもしれません。しかし、文学の核とも言える作風というものを、前に並べた作家たちは重要視し、突き詰めて追究し続けました。使い捨てのように読まれては薄らいでいった作品群とは明確に区切りを付け、今なお読者に鮮烈な印象を与え続けています。


本作『ユモレスク』は雑誌掲載時の作品名で、単行本化以降は『野萩』と改題されています。しかし、前述の通り、十蘭は改校を繰り返すことで、物語の内容さえ変えてしまいます。本稿では『ユモレスク』について記述していきます。この物語は、生粋の江戸っ子感情がフランスの幻想文学世界に入り込んだような、独特の世界を作り上げています。遊学中の伊作を追って、一人パリへと向かった母やす。豪気さの奥に見える不安も、出会う親切な女性に助けられて、安堵の気持ちを得て調子を取り戻すと、やすの姪にあたる滋子に迎えられ、伊作との再会に臨みます。ふらふらと漂うように過ごす伊作は、なんだかんだと他事に出て、遥々やってきたやすはなかなか会うことができません。伊作から電話が掛かり、先に杜松子(ねずこ)という女性が向かうから自分が行くまで相手をしていてくれ、という旨を話し、彼女がやって来ます。互いの素性を伝え合うように会話をしていると、衝撃の知らせがやってきます。そして全てを予め理解していたかのように一筋の涙を流すやすは、穏やかにある決意をさり気なく吐露します。


幻想的な出会いと、現実的な機縁が入り混じり、一陣の風のように切なさが吹き抜けていくような筆致は、作家と作品の距離を明確に保ち、それ故に読者にも物語としての無念を直截的に伝えてきます。やすの強い再会の望みは、やすが既に心得ていたであろう悲劇的な終幕の予感を考えると、ただただやり切れなく、儚さがとめどなく襲ってきます。

 

十蘭は死ぬまで、ある一筋のことをかたくなに守り通したその態度は、一種壮烈な趣きがあって、文壇的には当然孤立した地位にいたが、その生前から一群の、非常に特殊な読者層を作り出している。それは、ホームズの信徒のシャーロキアンに倣っていえば、ジュラニアンとでもいうべき人たちで、この人々の誇りと訝しみは、こんなにも豊醇な美酒が、ただ自分らだけのために用意されていいものだろうかという点にあった。

中井英夫久生十蘭論』


ジュラニアンは少数派と言われますが、現在にも及ぶこのような文壇風潮を考えると、それは至極当然なことであり、その価値を真に受け止めることができる人間は限られてくると思われます。そして、「ある一筋」について、中井英夫はこのように述べています。

人間の熾烈な願望が激しければ激しいほど却って救いのない荒涼とした地獄へ追い落とされてゆくという、生涯を通じて描き続けたパターン

中井英夫『戦争と久生十蘭

『鈴木主水』の「主水」しかり、『黄泉から』の「おけい」しかり、『母子像』の「和泉太郎」しかり、そして『ユモレスク』の「やす」しかり。物語の中心に据えられる人物は、みな激情とも言える熱意で一点の幸福、一点の使命、一点の欲望を抱きます。他を寄せ付けない一途な感情が、それらを叶えんと熱く静かに動き出します。しかし、思いは遂げられず、多くが生命燃え尽きます。そして、彼らの抱いた種々の愛を昇華させるように生命を落とす様は、憐憫が漂うと同時に、一切を消し去ってしまう虚無感を残します。人間が求めれば求めるほど、期待は高まり、やがて目の前の現実として現れた途端、幻のように霧散してしまい、荒れ果てた一切の破滅へと突き落とされるという事実が、読者に提示されます。そして、読後に吹き抜ける寂謬は、幸福の欠片を纏った哀惜として心を締め付け続けます。

 

人気の確立したひとでありながら、その人気を平気で振払って、いつも新らしい顔を見せている。読者に目移りさせて了って、完成を感じさせないのだ。その実久生君の過去のどの作品を取上げても直木賞に値していたのである。

大佛次郎 第26回直木賞選評

作品を読むたびに新鮮な驚きと変わらない見事な文体を見せて独自の世界を見せる久生十蘭。未読の方はぜひ、体感してみてください。

では。

 

『情事の終り』グレアム・グリーン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

私たちの愛が尽きたとき、残ったのはあなただけでした。彼にも私にも、そうでした──。中年の作家ベンドリクスと高級官吏の妻サラァの激しい恋が、始めと終りのある〝情事〟へと変貌したとき、〝あなた〟は出現した。〝あなた〟はいったい何者なのか。そして、二人の運命は……。絶妙の手法と構成を駆使して、不可思議な愛のパラドクスを描き、カトリック信仰の本質に迫る著者の代表作。


ドイツのポーランド侵攻より始まった第二次世界大戦争の只中、1940年5月に英国では反ファシズムの期待からウィンストン・チャーチルが首相として選ばれました。保守党、労働党が並ぶ挙国一致の内閣(第一次チャーチル内閣)を発足し、英国を勝利へ導くと演説し、労働党からの支持を高めます。ドイツの止まらない侵攻に備えることが最重要項目であったため、英国の体制を整えようとしましたが、その発足日にドイツは中立を宣言していたオランダ、そして併せてベルギーに布告なく侵攻します。英国は、オランダ女王ウィルヘルミナ女王を国内へ保護し、オランダを軍総司令官に委任しました。その後も進軍が止まらないドイツ軍にフランス北端ダンケルクまで追い詰められていた英仏連合軍から、チャーチルは英国軍を撤退させて自国の守護を指示します。当然ながら残されたフランスはドイツの猛攻を受け、フランスの北半分を制圧されます。これがドイツの傀儡政権ヴィシー・フランス成立の足掛かりとなりました。ここを拠点としてドイツは英仏を隔てるドーヴァー海峡を越えて空からの侵攻を始めます。次々と落とされるドイツ空軍による爆弾や機銃掃射はロンドンの街を襲い、多くの民間人に恐怖と被害を与えました。英国本土侵攻の前哨戦としての色が強かったこの英国の制空権争いは、英国空軍の活躍と英国民間人による協力体制、まだ中立を保っていたアメリカからの経済的な支援などによってドイツ空軍を疲弊させ、英国本土への上陸を諦めさせました。「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる激しい航空戦を制した英国は、これらを指揮したチャーチルを強く支持し、第二次世界大戦争が終息するまで体制を維持しました。


グレアム・グリーン(1904-1991)はオックスフォード大学を中退するとジャーナリストの道へと進みます。地方誌ノッティンガム・ジャーナルの副編集者となった彼は、カトリックである女性に惹かれて文通を始めます。彼女との関係は順調に近付いていきましたが、カトリックの教義という面で大きな壁を生んでいました。結婚を意識し始めたグリーンは、彼女を底から理解するためにも自身の改宗は不可欠であると理解し、そのように実行したうえで彼女と婚姻を結びました。その後、職場をタイムズ紙へと移すと、並行するように小説作品の執筆に励みます。これは大衆小説であり、エンターテイメント性が読者に受け入れられ、作家として進んでいく基盤を構築することができました。その中で、彼がカトリックへ改宗したことによる心境の変化、環境の変化、規制の変化、自身の目線の変化、感受性の変化、などが影響して、単純なエンターテイメント小説ではないものを書きたいという欲が生まれます。彼自身、エンターテイメントと小説、という分け方を意識して執筆していたことも後年に明かしています。こうして生まれた「小説」側の作品は、カトリックを中心とした宗教問題を携えており、世間では彼をカトリック小説作家、カトリック教徒の作家、などと呼ぶようになりました。グリーン自身はこの呼び名を望んではいませんでしたが、作品に描かれる主題は宗教問題を背負っているだけでなく、現代世界の矛盾する道徳的な問題、或いは政治的な問題を探求しており、名実ともにカトリック小説の素晴らしい作家であることには変わりありません。本作『情事の終り』は、彼の生み出したカトリック小説で代表的なものであり、それらの問題の核とも言える存在論が繰り広げられている作品です。


小説の舞台は戦時中のロンドン。語り部のモーリス・ベンドリクスは辛辣で皮肉な大衆小説作家で、次作の創作活動の一環として高級官吏の取材を求めていました。徒歩数分に住まうヘンリ・マイルズを対象者として見据えた彼は、その夫人サラァ・マイルズに近付きます。しかし、二人の関係はインタビュアーとしてではなく男女の関係となり、愛を育み始め、濃厚な関係へと変化しました。何度も繰り返される逢瀬によって、ベンドリクスは独占欲が高まっていき、サラァに対して嫉妬心を募らせていきます。彼女の淫蕩は、いずれ対象を変えるのではないか、自身は飽きられて捨てられるのではないか、そのような不安が憎悪へと変化していきます。そのような感情変化でありながらも愛は変わらず育まれ、逢瀬を繰り返していた最中、ドイツの新兵器V 1爆弾が付近に着弾し、ベンドリクスは扉越しに吹き飛ばされました。サラァが近寄って彼の死を確信すると、彼女は崇めたことのない神へ、彼との関係解消を捧げて、彼の生命の復活を祈ります。その祈りを終えた直後に意識を取り戻したベンドリクスが近付きました。彼女は捧げた誓いを守るため、救ったベンドリクスの生命を守るため、関係を解消して彼の前から姿を消そうと努めます。彼女の神への思いは、自身がベンドリクスに会えず苦しめられている気持ちが膨らみ、やがて神に対して憎悪を抱き始めます。しかし、その憎悪はやがて神への愛との対話へと変わり、抱くことのなかったカトリシズムに目覚め、彼女自身がカトリックへの改宗を望むことになりました。それはカトリックの教義によって離婚が成立できないということであり、永遠にベンドリクスと結ばれることはなくなることを意味していました。苦悩が絶えず心を掴んでいた彼女は、やがて病苦に苛まれ床に臥してしまいます。


これらのサラァの感情変化を日記から教えられたベンドリクスは、全てを受け止め、自身の抱いたサラァへの憎悪を恥じ、新たな二人の関係を構築するために奔走しますが、彼女の病苦の方が重く、叶うことなくサラァを見送ることになりました。全てを知ってしまったヘンリもまた、自身が女性を幸せにできなかった後悔と恥の念を抱きながら、打ちひしがれていました。全てを明かされたベンドリクスは、ヘンリに対して徹底的に紳士であり、同情の念さえも表し、そこに憤怒を超えた絆を見たヘンリは、友情を強いものとします。そして、ベンドリクスはサラァを奪い去った「神」に対して強い憎悪を抱きながら、二人で歩んで行きました。


ベンドリクス、ヘンリ、サラァは、世間の様相とは一線を画した世界で生きています。食糧配給の行列を脇目に情事に耽る男女、英国の勝利のために協力しようと尽力する民間人に関心を示さず、爆撃による死は致し方ないものと受け止める投げやりな思考放棄、グリーンの描く三人の世界は「堕落的」であると言えます。しかし、当人たちにしてみれば、それらの重大な事物よりも「愛憎」が優先されており、また、その思考を衰退とは受け止められない回路で動いています。愛憎の燃え上がり、頽廃的な肉体の快楽、信仰を犯す道徳的な罪、精神に入り乱れるこれらは絡み合い、共に堕ちていきます。戦争における肉体と精神は、ある種の腐敗を生み出します。そこには神が介在し、頽廃的な愛を憎悪へと変換させる力を持っています。カトリック信仰という三位一体は、自由主義的、人本主義的な離婚観に対して、神が導き手となった一つの解答を定めています。それは快楽や罪を全て浄化させるとともに、在命時の幸福も併せて消し去ってしまいます。


サラァがヘンリと離婚に至らなかった理由は、現実的な一つの解釈を考え出すことができます。サラァの母が希望を持って最初の夫と離婚をしたが、次の結婚によって更なる不幸を招いたという経緯により受けた印象が、サラァにとって離婚が事態の解決になるという考えが持てなくさせていた、と推測できます。しかし、結果的に離婚を求めないカトリックの意向に沿う行動を取ったことは、サラァの記憶に残らないほどの幼い頃にカトリックの洗礼を受けたという事実が浮かび上がることによって、超常的な力の作用が働いているという考えを呼び起こします。この超常的な力は、探偵の息子の病の快癒、無神論者の赤痣の快癒、と立て続けに発揮され、ベンドリクスとともに読者の心情も「神の存在」を認めざるを得なくなってきます。そしてベンドリクスは「神」へ悲痛な祈りを捧げます。

 

ほくはあなたの狡猾なことを知っている。われわれを高いところへ連れて行って全世界をやろうと言ったのがあなただ。あなたも悪魔です、神よ。跳躍せよと誘っている悪魔です。だがぼくはあなたの平和もほしくないし、あなたの愛もほしくない。ぼくは単純な、たやすいことを欲しただけです。一生涯のあいだだけサラァをほしいと思ったのに、あなたは彼女を連れて行ってしまった。あなたの雄大な計画によって、あなたは麦刈が野鼠の巣を壊すようにわれわれの幸福を破滅させるのだ。ぼくはあなたを憎みますぞ、神よ、あなたが存在するかのごとくにあなたをぼくは憎みますぞ。


救いを得るために、神の存在を認めさせようとするカトリックに対して、神を認めたうえで救いを放棄することを願うという痛切な皮肉は、読者の心に強烈な強さで楔を打ち込みます。本作はグリーン自身の実体験も含まれています。カトリックに改宗して結婚した後、別の女性を愛して約二十年間も情事を繰り返していました。カトリックに基づき離婚ができないという苦悩の心理描写は、彼自身が経験したものと重なるものがあると思います。人間にとっての「神」、人間にとっての「幸福」、これらを思い返す良い機会となる作品でした。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『自省録』マルクス・アウレリウス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

アウレーリウスはローマ皇帝で哲人。蕃族の侵入や叛乱の平定のために東奔西走したが、わずかにえた孤独の時間に自らを省み、日々の行動を点検し、ストアの教えによって新たなる力を得た。本書は静かな瞑想のもとに記されたものであるが、著者の激しい人間性への追求がみられる。古来、もっとも多く読まれ、数知れぬ人々を鞭うち励ました書。


ローマ帝国の全盛期と言われる一世紀末から二世紀末、皇位争いも無くなり、政治も安定し、他国の侵略も目立たなくなってきた時代、この期間を収めていた皇帝を五賢帝と呼びます。ネルウァトラヤヌスハドリアヌスアントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス(121-180)、帝国領土を最大としていながら、かつてない安定を見せたローマ帝国は、五賢帝による哲学的な統治が効果を見せました。人々はストア哲学を基盤とした徳と理性に重きを置き、神や自然と人間という考えを基に、安定した生活を望むことによって穏やかな帝国を維持します。それまで、特に政治の中枢にいる人間による血生臭い地位の落とし合いが絶えませんでしたが、五賢帝の統治手腕だけでない皇帝としての生き方が、ストア哲学の裏付けとなって浸透しました。そして、このストア哲学を最も理解し、最も自らの人生に取り込んだ賢人が全盛期最後の皇帝マルクス・アウレリウスです。


彼は早くからストア哲学に傾倒し、神学校で宗教を学び、法務や思想も取り込んでいきました。彼は学び追究することに喜びを覚え、机にじっくりと向かい合う哲学者を目指しました。この思想を全霊で受け入れ、生涯貫き通した彼の心身の隅々は、いつしかストア哲学の体現者としての存在を目指し始めます。このストア哲学は、紀元前300年にゼノンが創始し、ギリシャの地で発祥しました。それが、四百年経った当時に、五賢人によってローマ帝国に幅広く普及することになります。絶対的な立場の皇帝が正と定めるこの哲学は、半ば強制的でありながらも、国民は賢人たちへの敬いの念から素直に受け入れ、自然とローマ帝国全土で広がることになります。不遇な善の人セネカ、ストア主義中核の人エピクトテスなどを生み出した後期ストア哲学は、彼に強い感銘を与え、自らも哲学者たらんとする意思を育て、追究に拍車を掛けます。そしてアントニウス・ピウスより継がれた皇位を、マルクス・アウレリウスストア哲学をもって果たそうと奔走しました。哲人皇帝呼ばれる所以はここにあります。


ストア哲学は「物理学」「論理学」「倫理学」の三部分に分かれています。物理は、自然(宇宙)と我々人間の位置を理解するためのもので、広大な宇宙の、僅かな地球の、僅かなローマ帝国の、僅かな生活に身を置くものであり、そしてその僅かなものに神は生きる術と意味を与えた、という考えです。次に論理は、自然(宇宙)に従った生き方として、人間として生まれ、人間として生きるため、何を目的としているか、或いは何を目的とすべきか、を考えます。そして倫理は、宇宙は一つ、神は一つ、物質も一つ、それらが制約と変化をもって時を経るなか、どのような精神を保ち、どのような思想をもって暮らすべきであるか、を説きます。

これらを繋ぐ考えとして、自分の中に宇宙の一部(もしくは神の一部)が存在して、その宇宙は人間の行動による因果によって変化し、徳が善悪に傾きます。これらを善に導こうとする意志こそが必要であり、そのためには人間がどのようにして成り立っているかを考える必要があります。ストア哲学においては、人間は肉体、霊魂、指導理性(叡智)から成る、と考えられており、自身の心によって左右できるものが指導理性であるとしています。この指導理性こそは、宇宙の一部、神の分身である「ダイモーン」と定義されています。これは、人間が人間であるためのものであり、内に住まう神の存在と言えます。


これらの信条(ドグマ)より、神を敬う自身、社会における自身、自己を律する自身を明かし、どのように生きねばならないかという義務が現れます。それぞれの目線(立場)の自身の根源はダイモーンの存在であり、無視することはできません。不死の絶対的な神を確信し、人類を生かす世界を構築する一部となり、そのなかで人間が神の一部であるダイモーンを指導理性をもって、神の意向に沿う生き方を目指さなければなりません。つまり、生命を与えられた時から生命の義務は与えられており、神に創られた目的を果たすことこそが根本的な生きる目的であると言えます。人間は、自然(宇宙)を受け入れ、肉体的衝動や名誉欲などに振り回されてはならず、人間として果たすべき目的を見失わないようにしなければなりません。そして、やがて来る死は生を終えるものであり、恐怖を抱くものではなく、受け入れて自己を恐怖から解放しなければなりません。生への執着は自身の驕りであり、神の与えた目的に反しているとします。


また生きるうえで、自身のなかの悪徳を制御し、外部(他人、社会、自然)はどうにもならないこととして理解し、疾病、貧困、不名誉などを欲に結びつけないことを求められます。病苦も神が与えたもの、貧苦も神が与えたもの、名誉などは死すれば何の意味も持たないもの、そのような達観とも言える徹底さをもって人間としての生を全うすることを求めます。常に、欲を抱いても忍び、決して求めないことが必要で、生きている現在を、どれだけ徳に溢れた過ごし方ができるか、ということを意識しなければなりません。自身の心によって外部からの影響をどうにでも解釈できることとして受け止め、ダイモーンを(神の意向である)指導理性によって導き、神に与えられた目的を果たそうとする使命を抱いて、穏やかな心の平穏を保つことが重要です。そして、これこそが人間の幸福であり、身に付けた徳により精神の平穏が与えられるという考え方です。


このように宇宙の自然を受け入れ、平穏な心を守り抜くことで、自身を不動の心(アタラクシア)への到達を目指すことが到達使命であり人間の幸福な姿であるとしています。しかしながら、現実においては当然、外部から超えがたい障害が襲い掛かってきます。それらをどのように外部(どうにもならないこと)として理解し、湧き起こる悪徳による欲望を排除し、神が与えた自然として受け入れ、死を恐れず、不動心を保ち続けることができるか、またそれを信念として抱くことができるか、そのように自身を律し、幸福を目指さなければなりません。


マルクス・アウレリウスはこれを徹底追究し、遂行して人生を歩みました。ローマ帝国激動の時代に皇帝として据えられ、哲学者として生きたいという心を押し込め、幾戦もの戦いのなかで自身を律し、最後までストア哲学を守って生き抜きました。そのように生きた彼の著作『自省録』は、場所もさまざま、状況もさまざまな環境で、瞑想し、自身を律するために綴り続けた手記です。断片的に綴られる幾つもの言葉は、彼の思考運動を読み取ることができ、そのなかから滲む苦悩や憤怒は、読む者へ痛切に響きます。異人による侵略、川の氾濫による洪水、各地での疫病の蔓延など、在位中に次々と起こる問題に対して誠実に向き合う彼には、腰を据えて机に向かう時間は限られていました。ただ人間として生きるだけでなく、皇帝としての荷を抱え、それらを自身の哲学に則って多くの悩みと対峙しました。どれほど身体が疲れ、心が疲れても、その哲学は曲げず、人間の幸福と人間たちの幸福を求め続けました。そして彼は心の内にこそ善の泉があり、それは求めるだけ溢れ出るという真理に辿り着きます。

 

身体、霊魂、叡智、身体には感覚、霊魂には衝動、叡智には信念。感覚を通して印象を受けることは家畜どもにも見られる。衝動の糸にあやつられることは野獣や女のような男やパラリス(ファラリス)やネーロー(ネロ)でもやる。また義務と思われることに向って叡智を導き手となすことは、神々を否定する者や、祖国を見棄てる人間や、戸を閉めてから万事を行う連中でもやることだ。
さてもしすべて他のことは以上のものに共通だとすると、善い人間に特有なものとして残るのは、種々の出来事や、自分のために運命の手が織りなしてくれるものをことごとく愛し歓迎することである。また自分の胸の中に座を占めるダイモーンをけがしたり、多くの想念でこれを混乱させたりせずに、これを清澄にたもち、秩序正しく神にしたがい、一言たりとも真理にもとることを口にせず、正義に反する行動をとらぬことである。そして自分が誠実に、謙遜に、善意をもって生活をしているのをたとえ誰も信じてくれなくとも、誰にも腹を立てず、人生の終局目的に導く道を踏みはずしもしない。その目的に向って純潔に、平静に、何の執着もなく、強いられもせずに自ら自己の運命に適合して歩んで行かなくてはならないのである。


「生きることを読む」という体験は、非常に貴重な時間です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『海の沈黙』ヴェルコール 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

ナチ占領下のフランス国民は、人間の尊厳と自由を守るためにレジスタンス運動を起こした。ヴェルコールはこの抵抗運動の中から生まれた作家である。ナチとペタン政府の非人間性を暴露したこの2篇は、強いられた深い沈黙の中であらがい続け、解放に生命を賭けたフランス国民を記念する抵抗文学の白眉である。


1940年、第二次世界大戦争の初め、攻勢の著しいドイツはフランスへと侵略し、パリを占拠して降伏させました。フランス北部にヴィシー・フランスというドイツの傀儡政権を樹立し、第一次世界大戦争時の英雄フィリップ・ペタンを据えて国民への理解を示そうとします。しかしドイツの支配は勢いを増し、フランス国民に対する締め付けを強化していきました。1942年、ヴィシー政府はドイツの軍需支援を目的とした労働者を募る強制旅行局STO(Service du travail obligatoire)を設置します。フランス人捕虜の代わりにドイツへの労働を目的とした派遣募集でしたが、拒否した者には食糧配給を停止するなど、強制的なものであったため免れることはできませんでした。この義務協力労働から逃れようとした人々は、山岳地帯へと籠って反ヴィシー政府を掲げたレジスタンス(マキ)として組織していきます。その一つの山岳地帯がヴェルコール山塊という場所でした。1943年、シャルル・ド・ゴール将軍などのドイツ支配を拒否した亡命者を受け入れた英国は、レジスタンス側への援助として特殊作戦執行部(SOE)を送り込み、ドイツ軍へと抵抗をより強めていきました。衝突が激しくなり、レジスタンスの勢いが増していくとナチス側も見過ごすことができなくなっていきます。そして1944年7月、全面的なレジスタンスの掃討に乗り出すと、ドイツ軍は上空からの爆撃や機銃掃射などを行い、このヴェルコールの地は民間人の被害を多く出しながら制圧されてしまいました。


一方で、義務協力労働によって若く活力のある人材がドイツへと向かったため、フランス国内では成人に満たない者や歳を重ねた者だけで暮らす家庭が増加しました。これはフランスの戦力を削ぐという意味合いもありました。フランスのパリをはじめ、駐留するドイツ軍人たちは、それらの住む家屋へ住まい、生活を始めます。暴力を振るわれる者、給仕のように扱われる者、性的な被害を受ける者、何もされない者、そこに住まうドイツ軍人の性格によって、様々な扱いを受けました。


作家志望の挿絵画家であったジャン・ブリュレール(1902-1991)は、ドイツ占領下における文学の在り方に憤りを感じていました。ドイツの出版管理によって親独に背く作品は全て禁書として烙印を押され、一切の出版を禁じられました。それに迎合する作家たちが、ドイツ賛歌の作品を生み出すことに対しても疑問を抱き続けます。過去にフランスが生んだ偉大な作家、素晴らしい作品に対する冒涜であると考え、また、それらをも支配しようとするドイツに対抗意識を燃やします。そして彼は「ペンを用いたレジスタンス」を目指します。確固たる意志を築いた彼は、ドイツとヴィシーに対して真っ向から挑む形で、地下出版という手法で出版社を立ち上げます。文学の国を潰えさせないためにも、フランスの誇りを潰えさせないためにも、彼は絶対的な信念を持って戦います。そして立ち上がった出版社が「深夜叢書」(Les Éditions de Minuit)です。同時に刊行した第一作は彼自身が書き上げた『海の沈黙』でした。ヴェルコールという、レジスタンスたちの聖戦の地、或いはそれらの志を掲げた筆名で出版した本作は、真に命懸けであり、ドイツとヴィシーに対する反抗の姿でした。本作は、ドイツ軍の襲撃を受けて命を落とした詩人サン=ポル=ルーに捧げられています。


本作『海の沈黙』では、正義の心を持った元音楽家のドイツ軍将校エブレナクが、老人とその姪が暮らす家に住み込みます。エブレナクは片足が不自由でした。二人が主に過ごす居間に近付くとき、不規則な足音で彼の訪問がわかります。彼の態度はいつでも紳士的です。彼はフランスを敬い、フランス人を敬い、真に心を通わせようと試み、また彼らに対しても自分の思いを伝えようと弁舌を振います。とても穏やかで、そして熱意を持って、自分の考えを説き、フランスとドイツの親交を信じています。彼らは恐れを徐々に無くし、彼に関心を持ち始めますが、一切、その弁舌に対して返答を見せません。只管に沈黙を守ります。ある時、彼は古くからの友人の元へ会いに行くことを伝えます。期待と楽しみが入り混じった感情を見せながら、軽快に発っていきました。

二週間ほど経って、また不規則な足音が近づいてきました。そして戸口に現れた彼は別人のように打ちひしがれ、不幸を一身に背負った表情でした。彼はドイツがフランスと親交を結ぼうとしているのではなく、懐柔して屈服させようとしていることに気付かされました。彼が抱いていたフランスとの友好的な融合は夢と消え、持っていた希望は一縷も無いことを思い知らされて帰ってきました。

あの人達は焔をすっかり消してしまう。
ヨーロッパはこの光で照らされなくなってしまう。

憤りと諦めと絶望を抱えて、彼は軍に前線への異動を志願しました。「地獄だ。」という言葉は、コンラッド『闇の奥』を思わせる苦悩に満ちており、エブレナクが姿を消したことによる安堵はなく、残された者にも心を抉るような虚無感が残されます。

 

三年以上の間フランスの象徴は沈黙であった。群衆のなかでの沈黙、家庭のなかでの沈黙。真昼間ドイツの衛兵がシャンゼリゼを往来するが故の沈黙、ドイツの士官が隣の部屋に宿泊するが故の沈黙、ゲシュタポがホテルの寝台の下に録音器をかくすが故の沈黙、子供たちが空腹を訴えることができず、毎晩倒れる人質の体のために、翌朝いつも、一日が国民の喪ではじまるが故の沈黙。そしてまたわれわれの思想の沈黙、みずからを表現する力を奪われた作家たちに強制されている沈黙、世界の前での沈黙。

加藤周一 訳『海の沈黙』アメリカ版 序 M・D


ブリュレールは、本作を何よりも同国の作家へ届けようと奔走しました。自覚的、無自覚的に関わらず、ドイツへの協力(コラボラシオン)を助長させる作品を生み出している作家たちに、「文学でも対抗できる」という意思とその姿を見せ、共に同じ方向を向く希望があることを伝えようとしました。占領下の規制の中で生み出すことが「できる」作品は、フランスの文化そのものを崩壊させ、誇りとともに無に期してしまう。それを食い止めようとする強い意志が、本作のなかに何度も感じられます。作中で見られる「沈黙」という戦いは、文化を劣化させる作品を「出版しない」ということに通じ、ブリュレールがそのことに命を懸けたことは尊敬に値します。彼が発した抵抗文学は国境を越え、ロンドンのド・ゴール将軍にまで届き、さらに普及できるように支援を行いました。本作には「文学の誇り」と「人間の尊厳」が共存しています。静かな物語でありながら、読み進めるほどに高まる熱量は、ブリュレールの思いが我々に届いているように感じられました。未読の方はぜひ、読んで体感してみてください。

では。

 

『金沢』吉田健一 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

金沢の町の路次にさりげなく家を構えて、心赴くまま名酒に酔い、九谷焼を見、程よい会話の興趣に、精神自由自在となる〝至福の時間〟の体験を深まりゆく独特の文体で描出した名篇『金沢』。灘の利き酒の名人に誘われて出た酒宴の人々の姿が、四十石、七十石入り大酒タンクに変わる自由奔放なる想像力溢れる傑作『酒宴』を併録。


戦後の混乱を整え、日本の復興と再建を牽引した内閣総理大臣吉田茂を父に持つ吉田健一(1912-1977)は、その父が外交官であった頃、宮内省官舎で生まれました。父母の国内不在によって六歳まで祖父のもとで生活していましたが、それから青島、パリ、ロンドン、天津へと世界各地を移り住みます。一時、日本へと帰国しましたが、すぐにケンブリッジ大学キングズ・カレッジへ入学し、渡英します。そこでは、政治学ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソンや古典学者フランク・ローレンス・ルーカスらに師事し、世界情勢から世界文学まで広く探究します。この頃にウィリアム・シェイクスピアシャルル・ボードレールジュール・ラフォルグポール・ヴァレリーなどを耽読し、吉田の文才を刺激して育んでいきました。日本で文士になるという志を持つと、英国での文学研究に必要性を見出せなくなり、その意向をディキンソンが受諾して帰国します。そして国内で親族の見舞いに行った際、そこで出会った河上徹太郎を識り、以降は彼に師事しました。吉田は英国で耽読、或いは研究していた作家の訳業を中心に筆を進め、評論なども併せて文芸誌に発表して、文壇に立ち始めます。それから程なくして1945年に海軍へ招集されましたが、そのまま敗戦復員となり、改めて文学の道へと歩んでいきます。


1948年に、中村光夫、吉川逸治と共に文学以外の専門家を招いて対話をする集い「鉢の木会」を始めましたが、神西清をはじめ、福田恒存大岡昇平三島由紀夫が次々と加わって文壇から一目置かれる存在へと変化していきます。また、石川淳小林秀雄白洲正子などとも見識を持ち、文学界での交友は幅広いものとなっていきました。1960年2月に河上徹太郎と連れ立って向かった金沢では、その地の老舗の酒造である福光屋の朱壁に感銘を受け、以来、吉田は「金沢」という土地の魅力に惹き込まれていきます。本作『金沢』は、まさにその地に対する彼の印象を独特の手法で描ききったものであると言えます。


東京に拠点を置く内山は、金沢という土地に惹きつけられ、崖近くに佇む古めかしく豪奢な屋敷を手に入れて、別荘として愛し、暇を作っては訪れて「金沢」を堪能します。屋敷に出入りする骨董屋は、内山の好みを理解し、望みを汲み取り、心を満たす施しを次々と用意していきます。この骨董屋に促されて向かう先々の人々は、どれも内山の心を擽り、感動や閃き、堪能や満足を、それぞれの形で与えてくれます。各章が一場面となり、六章で紡がれるこの作品は、どれも酒の席であり、内山の心情描写は幻惑的で酩酊状態の目線や思考を思わせます。見事な九谷焼、それに盛られた料理、そして盛られた料理と器の一体感による美、細かな審美描写と対話者の印象の変化、会話の流れと思考の飛躍、これらが渾然一体としてありのままの様子として描かれていきます。酒を呑む効果は心地良くなるばかりであり、延々と呑んでいたい気分が伝わり、それを相手も理解していることが伝わる和やかな酒宴の席は、柔らかい幸福感で包まれていきます。加賀百万石の時代から、どのようにして焼き物職人が生まれ、どのようにして酒造が栄え、どのようにして料理屋が栄えたのか、事実と浪漫を掛け合わせた朧げな思考回路は、読み手を「金沢」の魅力へと導いていきます。特に、料理の描写、酒の描写、器の描写は圧巻で、目の前に酒と肴が次から次に運ばれる様子が明確に見えて、読み手がそれらを口に出来ないもどかしさで包んでしまいます。酒や肴を用意して読むのが良いかと思います。

 

内山は今は時間に堪えるのでなくてその刻々が惜まれた。それで音楽を聞いている状態というのが別な意味を持ってそれがその一瞬に止ることを望めば音楽はなくなり、その一瞬から次のに移って行くことで続く音楽に魅せられるのはそれが終りに向っているのを知ってである他ない。


この実質的な「金沢」の案内者である骨董屋の存在が、不可思議で曖昧に描かれていますが、内山はその点に拘ることもなく、ただ信を置いている人間としてのみ認識していました。しかし、章を追うごとに、どのような場所でも当たり前のように良い機会に登場し、内山を家へと送り届ける姿が徐々に幻想的に感じられ始めます。そして最終章には、それまでの章で出会った素晴らしい人々、或いは価値観が共有できる人々が集まり、心を通わす豊かな酒宴が始まり、骨董屋もそこに参加します。少し不思議な組み合わせも、内山の酩酊状態にある目線にとってはごく自然なことであり、ただひたすらに興に入るのみという空気を、やはり読み手も微笑ましく感じてしまいます。


この酩酊の靄に包まれた作品は、ひとつの理想郷を作り上げています。美術、酒、肴、自然、これらが一体となる世界には争いや喧騒などはなく、ただ延々に酒宴を続けたくなる心地良さという一点に絞られ、人間の欲望さえも和らげてくれる温かみが見えています。酩酊による感情の鈍化は、時間の概念を衰えさせ、周囲の空間を別時空へ導く効果さえも持っており、「酔う」という行為そのものを全面的に肯定しています。そこから生まれる想像は、幸福的なものに結びつき、酒宴を囲んでいる空間こそが絶対的なものであるという説得性を帯びています。その印象は、吉田が福光屋の朱壁を見た瞬間から染み付いたものであり、彼の目線で見た「金沢」の抽象表現であるとも言えます。

 

戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語つてゐる感じがするのである。

『長崎』

これはエッセイの中の一文ですが、彼は町の声を聞くという手法で、自身の持つその土地の印象を押し出しています。しかし、そこには大小関わらずの一つの「真の姿」が潜んでいます。彼の文章は決して外連味で溢れているわけではなく、実際に間違いなく彼自身が感じた印象を描いています。印象を具体的な言葉に起こすために、良い意味で輪郭をぼやかせる表現として、酩酊状態の目線を用いているのではないかと受け取ると、その地において彼が伝えたかった「真の姿」が見えてきます。


1973年という、吉田にとっては晩年に出された作品ですが、河上徹太郎とともに訪れた時から考えると、随分と長い間に蓄積した「金沢」の印象が凝縮していることが窺えます。偏愛とも言える局地的な愛し方ではありますが、金沢の土地を、そしてその持つ印象を、酩酊によって理想郷に導いた彼の手法は見事であると言えます。句点が少なく、少し読みにくい場面もありますが、そこは谷崎潤一郎への敬愛の念として受け止めて、その酩酊の世界に浸ってみることをお勧めします。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『ペドロ・パラモ』フアン・ルルフォ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

ペドロ・パラモという名の、顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく。しかしそこは、ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった……。生者と死者が混交し、現在と過去が交錯する前衛的な手法によって、紛れもないメキシコの現実を描出し、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作。


1846年にアメリカの領土侵略によって、アメリカ=メキシコ戦争が勃発しました。当時のメキシコの約半分の土地を奪ったアメリカは、その後、南北戦争を引き起こします。メキシコの州知事であったベニート=フアレスは、この領土割譲を批判すると、政府より知事の任を解かれ、アメリカへ追放されてしまいます。サンタ=アナ大統領の軍国主義的政権に対して、フアレスは真っ向から戦いを挑み、メキシコの真の独立を目指しました。サンタ=アナ政権が倒れると、彼はメキシコ初の民主主義的憲法の制定に尽力します。しかし、カトリック教派と地主権力者たちによる保守派が私欲のために、フアレスに対して激しい妨害を行い、それが内乱へと発展してレフォルマ内戦が起こります。そして追い打つように、フランスのナポレオン三世が介入し、保守派の勢いを後押ししました。それでも戦い抜いたフアレスらの改革派は勝利を収め、彼は正式にメキシコ大統領に任命されました。メスティーソであった彼の就任は、ラテンアメリカにおける真の独立という意味合いも持ち、メキシコの近代化、民主化を目指したことによって彼は「メキシコ建国の父」と呼ばれています。しかしその後、フアレスの長期的な政権を批判したポルフィリオ=ディアスが台頭し、フアレスの急死後、後続政権を軍力をもって倒し、強引に選挙を行って大統領に就任します。彼は権力を振るい、憲法を都合よく変えて任期を伸ばし、三十年以上ものあいだ君臨し続けました。ディアスは鉱工業に重きを置き、鉄道網の整備、市場の統一と活性化、他国との貿易など、メキシコ経済の発展に貢献しましたが、反面、フアレスが広めた民主主義を抑え込み、長期間の軍国独裁政治を継続しました。


ディアスの独裁に対し、フランシス=マデロは「公正な選挙と再選反対」を掲げて立候補します。誰もが政権交代を諦めていたなか、彼の蜂起は忽ち国民に支持されました。メキシコ全土を演説して周り、民衆への同意を求めます。しかし選挙の一ヶ月前になると、ディアスは政府転覆の嫌疑でマデロを投獄し、何事も無かったかのように不正選挙によって大統領の立場を守りました。選挙を終えて国外追放されたマデロは、メキシコ国民へ革命を呼び掛けます。これに応えたのが小作農出身のならずものエミリアーノ=サパタ、正義感の強い貧農出身の盗賊パンチョ=ビリャたちです。彼らは農民軍として組織し、不動の独裁政権に対して反抗の口火を切りました。1911年に政権を打倒してディアスを国外へ追放し、マデロは大統領へと就任しました。こうしてメキシコ革命は動き始めましたが、この革命政権は長続きしません。マデロは民主主義政治を目指していましたが、サパタやビリャは農民そのものの解放を目的としていたため、後援を地主権力者に置いていたマデロとは意見を違うこととなり、最終的にサパタは革命政府への反乱を起こします。元ディアス配下のヴィクトリアーノ・ウェルタ将軍と協力して、マデロを大統領府へ監禁し、最期には殺害してしまいます。こうして再び不安定な国政となったなか、農民解放を目指す急進派、立憲政治を目指そうとする穏健派、革命そのものを反対する地主権力者たちによる反動派、などが武力を用いた争いを続けます。


ウェルタ将軍が加わった急進派はその武力の振るい方が顕著で、1913年には大規模なクーデターを起こします。これに強く対抗したのが穏健派のベヌスティアーノ・カランサです。マデロに国防相に任命されていたカランサは、護憲を掲げて急進派と対峙します。この護憲軍の猛攻により、急進派に加担する軍を打ち破り、ウェルタ将軍をスペインに亡命させ、カランサは暫定大統領として就任します。その後、反乱を続けるサパタ、ビリャを打倒して、1915年にカランサは正式に大統領へと就任しました。カランサは政教分離を推し進めます。特に「国家が宗教に優先する」という内容は、当時のカトリックには大きな抑圧で、多数の教会や神学校が閉鎖されました。1924年にプルタルコ・エリアス・カジェスが大統領へ就任すると、無神論者である彼は教会を敵視し、カジェス法という厳しい取り締まりのうえ、教会財産を没収していきます。これに堪り兼ねた信者たちは、遂にグアダラハラ武装蜂起し、クリステロ戦争という内戦へと発展しました。カジェスの傀儡が暗殺され、多数の司祭が殺害されるなど、激しい内戦によって互いに被害を増やして、教会側は州に一人も司祭が存在しないといった状況を生み出すほどでした。カジェスは大統領の任期を終えても、自身の傀儡を次々と挿げ替え、影で大統領を操り、国政全般を支配し続けました。それは、1934年にラサロ・カルデナスが大統領に就任するまで続きました。メキシコでは、現在も政府による宗教団体が管理され、国に認められた行為しか活動はできない状況にあります。


フアン=ルルフォ(1917-1986)はメキシコの地主の家系でした。彼が生まれた世界は、革命の激しい時代であり、暴力と荒廃が埋め尽くしていました。地主側であった彼の父親は1923年に殺害され、それを追うように1927年に母親が亡くなると、ルルフォは祖母に引き取られ、州都グアダラハラのあるハリスコ州に移ります。さらに一族の不幸は続き、1928年に叔父二人が亡くなりました。そして彼は孤児院へと移り住みます。その後、グアダラハラ大学への進学もストライキに阻まれて叶いませんでした。メキシコ革命、クリステロの反乱が彼の周囲を奪っていきます。ルルフォにとって、家族や生活を奪う革命は、暴力的な側面しか見せなかったと言えます。彼は不条理の中を生きていました。取り巻く不幸を何度も思い返し、次第に会うことができなくなった家族を想ううち、漂う死者たちの魂との対話を思い描き始めます。


本作『ペドロ・パラモ』は、そういった霊魂の会話が主となって描かれています。文体に見られる乾いた響きと景色は、ルルフォが突きつけられた世界の渇きが現れており、情熱よりも諦めが勝るような表現が多く見られます。そして、霊魂の会話を用いることによって現実と超現実を融合させ、神話的な印象を持たせています。構成としても、幾つもの断章の時系列を不規則に配置したことによって、読み手を作中世界に没入させ、霊魂という不可思議な存在を真に受け入れさせています。また、結末と冒頭を円環的に繋ぐことで神話的な印象をも強めています。


メキシコ革命の混乱のなか、略奪によってコマラという町の権力者となったペドロ・パラモと、その3人の息子が主軸に描かれます。父を探索する者、フアン。父に突き放される者、アブンディオ。父に護られる者、ミゲル。時系列が前後に混在しながら進められ、それぞれの行動がゆっくりと紐解かれていきます。暴君の如き言動によって富や権力を捥ぎ取り、全ての女性を自由に扱ったペドロでしたが、唯一愛したスサナという女性からは愛を受け取ることができません。自分の手中に入れるため、スサナの愛する人、スサナの父親などを次々と手に掛け、自分の懐に収めます。当然の如くスサナは心を開かず精神を病んでいきます。自身の奮った暴力が愛するスサナの心を破壊することになるということが理解できず、ただ闇雲にペドロは愛を求めます。スサナが死を迎えると、ペドロは抜け殻のようになりました。そして護ろうとしたミゲルは護ることができず、突き放したアブンディオに生命を奪われるという結末を迎えます。略奪者は全てを失い、呼応するように町にも荒廃が広がっていきました。そして荒廃は全てを奪い去るように、このすべての物語が「とうに終わったこと」であること示して円環的に冒頭へと帰結します。


作中の「生命の糸」という表現からも伝わるように、生命の関わり、生命の繋がり、生命の交錯が、死というもので変化し、それは荒廃へと向かっていくことを見せています。そこに霊魂との対話によって、何かが補われ、何かが明らかとなり、何かが変わるのではないか、というルルフォの願望とも言える想像が作中に働いています。彼にとって、身近な存在の死が多すぎたことが原因でもあり、彼が見ていた不条理による荒廃に溢れた景色が思い描かせたとも考えられます。

構成される七十の断章は、別の時、別の声、別の意思であり、それらを糸で繋げたような本作は、コマラに漂う幾つもの霊魂の声です。断章が始まるごとに前の断章の余韻と重なり、エコーのように脳内に入り込んできます。

 

さあね、何年も顔をあげなかったもんだから、空のことなぞ忘れちまったよ。ま、空を仰いだって、どうにもなりゃしなかっただろうよ。天はうんと高いし、目もずいぶん弱ってたから、わしにゃただ地面だけ見えてりゃ言うことはなかったからね。それに、天国へはもう決して行けない、遠くからだって見られやしないってレンテリア神父が言うもんだから、もうどうでもよくなっちまった……。わしの罪のせいさ。でもな、神父様はそんなことなぞ言わなくてもよかったのさ。生きるってことだけで、もういいかげん苦しいんだから、死んだら別の世界へ行けると思うからこそ、足を動かす力も湧いてくるってもんだろう。天国から門前払いを食わされちゃあ、あとは地獄の門をくぐるしかない。それじゃあ生まれてこなけりゃよかったってことになる……。なあ、フアン・プレシアド、わしにとっての天国はここさ。わしが今いるここだよ。


逃れたいほどの荒廃と無が広がる世界が天国であるならば、死者はどこに浮かばれるのか。死後に何を見出して現在の生を守ろうとするのか。地獄と天国の境はどこにあるのか。生による幸福は存在しないのか。ルルフォが生き抜いた不幸の連鎖の日々を天国と認めることは不条理としか言えません。しかし、彼はそれを「霊魂」と「幻の町」という手法で、渇きと荒廃の中にも幻想的な面影を作品に残しました。


ガブリエル・ガルシア=マルケスは本作を愛し、暗記するほど耽読し、文学表現に強い好感を持っています。『百年の孤独』で描かれるマコンドは、本作のコマラから連想して生み出されました。ラテンアメリカ文学を大きく発展させた本作『ペドロ・パラモ』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『日々の泡』ボリス・ヴィアン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

愛を語り、友情を交わし、人生の夢を追う、三組の恋人たち──純情無垢のコランと彼の繊細な恋人のクロエ。愛するシックを魅了し狂わせる思想家の殺害をもくろむ情熱の女アリーズ。料理のアーティストのニコラと彼のキュートな恋人のイジス。人生の不条理への怒りと自由奔放な幻想を結晶させた永遠の青春小説。「20世紀の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」と評される最高傑作。


1865年、アメリ南北戦争を終え、黒人奴隷が解放されました。アメリカの南部に位置するルイジアナ州の港町ニューオーリンズでは、政府公認の娼館のある歓楽街で、解放された元奴隷たちは生きていくために酒場やダンスホールへ勤め口を探します。そして彼らは、黒人たちが持つリズム感や音楽の感性を活かして、歌手や奏者として活躍します。戦争直後の市場では、軍楽器として用いられた打楽器や管楽器が格安で流通し、これらを手にして生活の糧を得ていました。しかし、譜面が読めるわけでもなく、曲を全て覚えているわけでもないため、彼らは即興の音で繋ぎながら演奏を披露し、他者の演奏を耳で覚えてそれを真似ながら舞台に立ちました。このような即興フレーズで溢れた演奏の繰り返しが、奏者たちの「自由な表現」を作り上げ、ジャズ(JAZZ)という音楽が根付いていきました。そして第一次世界大戦争へアメリカが参戦することになり、歓楽街が閉鎖されると、ジャズ奏者たちはニューオーリンズを離れてアメリカ全土へと渡り、ジャズ音楽は全国的に広まっていきました。そしてアメリカという国を離れ、全世界でもその音楽性は受け入れられていきます。


第二次世界大戦争下において激しいドイツの攻勢により、パリを占領されたフランスは、中部に位置するヴィシーにドイツの傀儡となる親仏政権を樹立しました。国土は半分以上が支配され、ドイツの政府要人や軍人がパリを闊歩し、レジスタンスが対抗するものの、多くのフランス国民は理不尽な扱いを受けていました。このような環境から国民はヴィシー・フランスに対して反発的な感情を強く持つようになります。その中でも、戦争や占領による苦しい生活環境下であるにも関わらず、道徳や政治に反する文化的趣向を抱いて「自由な精神」を芸術的に示したザズー(Zazou)と呼ばれる人々は、ヴィシー政府に対するカウンターカルチャーとしての運動を確立しました。この「ザズー」という言葉は、フランスで活躍したスイス人ジャズピアニストのジョニー・ヘスの楽曲「Je suis swing」の中の歌詞に由来し、ザズーの人々がジャズ愛好家であったことが起因しています。彼らの態度は投げやりな意味での「無関心主義」であり、政府や戦争に対して諦めを含めた嫌悪を示していました。そこにジャズという音楽の根源的に持つ「自由」という思想と、彼らの蟠りを抱いた思いが合致して、ファッションを用いた全ての人への主義表現へと至りました。丈が長く太いズートスーツに身を纏い、外出禁止令を無視してスノッブのように歩き回る姿は、彼らの強い意思を感じさせました。


ボリス・ヴィアン(1920-1959)はジャズを愛し、ザズーでもあり、フランスの作家でもあり音楽家でした。1932年に設立されたフランスでジャズを普及するという目的の組織ホット・クラブ・ド・フランス(Hot Club de France)に、彼は十代の頃より参加して、自らもトランペットを中心に奏で、ジャズ音楽を支持しました。元々厭世的な考え(ペシミスト)を持っていた彼は、「世界からの解放」「自由な表現」というものを求めており、ジャズの持つ自由性に憧れを持っていたと言えます。

製紙工場の相続人となった祖父の代より、ヴィアン家は使用人を何人も抱える裕福な家系でしたが、1929年の大恐慌によって凋落し、抱えていた庭師の厄介になることになります。父ポール・ヴィアンはこれまで働いていなかったながらも、蓄えた知識を活かして翻訳業に取り掛かります。しかし収入が足りなかったため、他の職を兼ねて働き回りますが、暮らしを大きく変えることはできませんでした。ボリス・ヴィアンは幼少期より度々重い病に悩まされ(リウマチ熱、腸チフスなど)、両親も過保護的に彼を扱います。彼は取り巻く環境などから息苦しさや不条理を感じ、徐々に思考が厭世的になっていきました。その解放と自由を体現していたジャズに出会い、彼の活動は表現者としての生き方へ変化していきます。


彼が生み出す文学作品は、他者に理解されまいとする非現実的な描写の連鎖で綴られます。本作『日々の泡』では、終始一貫した独特の世界描写で、出来事の理解を非常に困難にさせます。しかし、これを彼の感情を元にした比喩表現であると捉えると、その物語に見える感情の動きや訴えが、ぼやけた輪郭がゆっくりと定まるように、根源的な思いが見えてきます。ヴィアンは、文学におけるあらゆる思想や哲学からの解放を求めていました。不条理に敵対する意思さえも放棄して、全ての束縛からの解放を求めます。しかし、そのような比喩を徹底したことによって、新たな文学思想を構築してしまうというジレンマにも陥り、それを避けようと更なる超常的な比喩表現が生み出されます。裏を返せば、読み手はヴィアンを掴もうとすればするほど擦り抜けられる感覚を与えられます。


作中で描かれる3組6人の恋愛模様は、非現実的な描写でありながら感情は明確に描かれます。相手を愛し、相手を求め、相手を救います。そこに現実的な「結婚」が訪れると、美しかった世界の描写が、腐食するように多湿で陰鬱な描写へと変化していきます。富豪のコラン、その友人のシック、コランの雇い調理師のニコラ、それぞれの友情は固く結びついていますが、恋愛の行末に沿って、それぞれの運命が劇的に畝っていきます。シックは恋人アリーズとの婚姻を望んでいましたが、金銭の欠乏により果たすことができずにいました。富豪のコランは自身の資産1/4を与え、望みを叶えられるように取り計います。コランは恋人クロエと残りの財産を用いて結婚式や新婚旅行を楽しみます。しかし、旅行の終わりを迎えたころ、クロエの体調に異変が生じて、そこから闘病生活へと変化していきました。クロエの肺には睡蓮が咲き始めていました。睡蓮の成長を抑えるために水分摂取を極端に抑え、周囲に他の花々を敷き詰めて睡蓮を脅かせる必要があります。花々の購入や薬剤費などで出費が重なり、遂にコランは働くことを迫られました。勤労などは醜く、勝手もわからない未知な経験でしたが、クロエへの愛のため、コランは身を粉にして働き抜きます。一方のシックは根本的に浪費家であること、そしてジャン=ソオル・パルトルの著作に執心であることから、瞬く間にコランに与えられた資産を使い果たしてしまいます。もちろん、アリーズとは婚姻関係を結んでいません。シックはあらゆるパルトルに関連する品々を買い漁っていました。そこにパルトルが全集の出版に取り掛かっているという情報が入り、アリーズはこのままでは金を持たないシックが本屋を殺害してまでも手に入れようとしてしまうと考え、パルトルへ出版をしないように談判に向かいます。そしてアリーズとシックはこの後、それぞれの非業の死へと向かっていきます。また、クロエにも死が忍び寄り、コランの苦しみが増幅していきます。結果的に、肉欲的な関係のまま恋愛を続けていたニコラとイジスだけが、幸福のまま物語を終えることができました。


ヴィアンは刹那的な美を持つ「恋愛」を尊重します。胸の内に高まる感情が見る景色までも美しくさせるという、「刹那の美」を何よりも美しいと捉えています。永遠の現実を生きる結婚を選択したコランは醜い労働者となり、結婚を突きつけられて逃げたシックは醜い犯罪者として罰せられます。コランが掴んだものは「愛」です。クロエとの愛を大切に思い、苦しみの生活においても不幸は感じません。しかし、ただ逃げ続け、自身の欲望だけを貪ったシックには確実な破滅が襲いました。極端な物言いをするならば、浮かばれる悲劇と浮かばれない悲劇が両者に対比的に与えられています。


恋愛関係という、成就するにせよ破綻するにせよ、「永遠ではいられない関係」は、特別な期間の、特別な感情を抱きます。この有限の関係は儚さを持っており、儚さゆえの非日常として受け止めると美しさが見えてきます。作中における、住居が頽廃していく、生活の美が消えていくといった描写は、恋愛関係の時に輝いていた物事が、結婚生活へと変わったことで輝きが見えなくなった、と捉えることができます。ヴィアンが作中に通底させた思想は、常に美醜の問題であり、幸不幸の目線ではないことが強く訴えられています。

ただ二つのものだけがある。どんな流儀でもいいが恋愛というもの、かわいい少女たちとの恋愛、それとニューオーリンズの、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消え失せたっていい、醜いんだから。

『日々の泡』「まえがき」より


フランス民法では、同性異性を問わず成人二名による共同生活を結ぶ契約「PACS」(連帯市民協約)、いわゆるパートナーシップ制度が導入されています。この関係は、ヴィアンが提示した「永遠ではいられない関係」を、生涯続けることができるということであり、一つの「永遠の美」を叶えているとも言えます。

「解放」と「自由」を求めたヴィアンが生み出した本作『日々の泡』は、恋愛感情が見せる景色に散りばめられた、あらゆる「刹那的な美」を称揚し、泡のように瞬時に消えていく儚さを表現しているように受け取ることができます。読解が困難な場面も多々ありますが、美と愛と幸福が入り混じった物語は、読み手に幾つもの訴えを投げかけてきます。愛と幸福を考え直させられる本作、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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