RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『金沢』吉田健一 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

金沢の町の路次にさりげなく家を構えて、心赴くまま名酒に酔い、九谷焼を見、程よい会話の興趣に、精神自由自在となる〝至福の時間〟の体験を深まりゆく独特の文体で描出した名篇『金沢』。灘の利き酒の名人に誘われて出た酒宴の人々の姿が、四十石、七十石入り大酒タンクに変わる自由奔放なる想像力溢れる傑作『酒宴』を併録。


戦後の混乱を整え、日本の復興と再建を牽引した内閣総理大臣吉田茂を父に持つ吉田健一(1912-1977)は、その父が外交官であった頃、宮内省官舎で生まれました。父母の国内不在によって六歳まで祖父のもとで生活していましたが、それから青島、パリ、ロンドン、天津へと世界各地を移り住みます。一時、日本へと帰国しましたが、すぐにケンブリッジ大学キングズ・カレッジへ入学し、渡英します。そこでは、政治学ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソンや古典学者フランク・ローレンス・ルーカスらに師事し、世界情勢から世界文学まで広く探究します。この頃にウィリアム・シェイクスピアシャルル・ボードレールジュール・ラフォルグポール・ヴァレリーなどを耽読し、吉田の文才を刺激して育んでいきました。日本で文士になるという志を持つと、英国での文学研究に必要性を見出せなくなり、その意向をディキンソンが受諾して帰国します。そして国内で親族の見舞いに行った際、そこで出会った河上徹太郎を識り、以降は彼に師事しました。吉田は英国で耽読、或いは研究していた作家の訳業を中心に筆を進め、評論なども併せて文芸誌に発表して、文壇に立ち始めます。それから程なくして1945年に海軍へ招集されましたが、そのまま敗戦復員となり、改めて文学の道へと歩んでいきます。


1948年に、中村光夫、吉川逸治と共に文学以外の専門家を招いて対話をする集い「鉢の木会」を始めましたが、神西清をはじめ、福田恒存大岡昇平三島由紀夫が次々と加わって文壇から一目置かれる存在へと変化していきます。また、石川淳小林秀雄白洲正子などとも見識を持ち、文学界での交友は幅広いものとなっていきました。1960年2月に河上徹太郎と連れ立って向かった金沢では、その地の老舗の酒造である福光屋の朱壁に感銘を受け、以来、吉田は「金沢」という土地の魅力に惹き込まれていきます。本作『金沢』は、まさにその地に対する彼の印象を独特の手法で描ききったものであると言えます。


東京に拠点を置く内山は、金沢という土地に惹きつけられ、崖近くに佇む古めかしく豪奢な屋敷を手に入れて、別荘として愛し、暇を作っては訪れて「金沢」を堪能します。屋敷に出入りする骨董屋は、内山の好みを理解し、望みを汲み取り、心を満たす施しを次々と用意していきます。この骨董屋に促されて向かう先々の人々は、どれも内山の心を擽り、感動や閃き、堪能や満足を、それぞれの形で与えてくれます。各章が一場面となり、六章で紡がれるこの作品は、どれも酒の席であり、内山の心情描写は幻惑的で酩酊状態の目線や思考を思わせます。見事な九谷焼、それに盛られた料理、そして盛られた料理と器の一体感による美、細かな審美描写と対話者の印象の変化、会話の流れと思考の飛躍、これらが渾然一体としてありのままの様子として描かれていきます。酒を呑む効果は心地良くなるばかりであり、延々と呑んでいたい気分が伝わり、それを相手も理解していることが伝わる和やかな酒宴の席は、柔らかい幸福感で包まれていきます。加賀百万石の時代から、どのようにして焼き物職人が生まれ、どのようにして酒造が栄え、どのようにして料理屋が栄えたのか、事実と浪漫を掛け合わせた朧げな思考回路は、読み手を「金沢」の魅力へと導いていきます。特に、料理の描写、酒の描写、器の描写は圧巻で、目の前に酒と肴が次から次に運ばれる様子が明確に見えて、読み手がそれらを口に出来ないもどかしさで包んでしまいます。酒や肴を用意して読むのが良いかと思います。

 

内山は今は時間に堪えるのでなくてその刻々が惜まれた。それで音楽を聞いている状態というのが別な意味を持ってそれがその一瞬に止ることを望めば音楽はなくなり、その一瞬から次のに移って行くことで続く音楽に魅せられるのはそれが終りに向っているのを知ってである他ない。


この実質的な「金沢」の案内者である骨董屋の存在が、不可思議で曖昧に描かれていますが、内山はその点に拘ることもなく、ただ信を置いている人間としてのみ認識していました。しかし、章を追うごとに、どのような場所でも当たり前のように良い機会に登場し、内山を家へと送り届ける姿が徐々に幻想的に感じられ始めます。そして最終章には、それまでの章で出会った素晴らしい人々、或いは価値観が共有できる人々が集まり、心を通わす豊かな酒宴が始まり、骨董屋もそこに参加します。少し不思議な組み合わせも、内山の酩酊状態にある目線にとってはごく自然なことであり、ただひたすらに興に入るのみという空気を、やはり読み手も微笑ましく感じてしまいます。


この酩酊の靄に包まれた作品は、ひとつの理想郷を作り上げています。美術、酒、肴、自然、これらが一体となる世界には争いや喧騒などはなく、ただ延々に酒宴を続けたくなる心地良さという一点に絞られ、人間の欲望さえも和らげてくれる温かみが見えています。酩酊による感情の鈍化は、時間の概念を衰えさせ、周囲の空間を別時空へ導く効果さえも持っており、「酔う」という行為そのものを全面的に肯定しています。そこから生まれる想像は、幸福的なものに結びつき、酒宴を囲んでいる空間こそが絶対的なものであるという説得性を帯びています。その印象は、吉田が福光屋の朱壁を見た瞬間から染み付いたものであり、彼の目線で見た「金沢」の抽象表現であるとも言えます。

 

戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語つてゐる感じがするのである。

『長崎』

これはエッセイの中の一文ですが、彼は町の声を聞くという手法で、自身の持つその土地の印象を押し出しています。しかし、そこには大小関わらずの一つの「真の姿」が潜んでいます。彼の文章は決して外連味で溢れているわけではなく、実際に間違いなく彼自身が感じた印象を描いています。印象を具体的な言葉に起こすために、良い意味で輪郭をぼやかせる表現として、酩酊状態の目線を用いているのではないかと受け取ると、その地において彼が伝えたかった「真の姿」が見えてきます。


1973年という、吉田にとっては晩年に出された作品ですが、河上徹太郎とともに訪れた時から考えると、随分と長い間に蓄積した「金沢」の印象が凝縮していることが窺えます。偏愛とも言える局地的な愛し方ではありますが、金沢の土地を、そしてその持つ印象を、酩酊によって理想郷に導いた彼の手法は見事であると言えます。句点が少なく、少し読みにくい場面もありますが、そこは谷崎潤一郎への敬愛の念として受け止めて、その酩酊の世界に浸ってみることをお勧めします。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

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