RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

すべてを破壊した〝九年戦争〟の終結後、暴力を排除し、共生・個性・安定をスローガンとする清潔で文明的な世界が形成された。人間は受精卵の段階から選別され、5つの階級に分けられて徹底的に管理・区別されていた。あらゆる問題は消え、幸福が実現されたこの美しい世界で、孤独をかこっていた青年バーナードは、休暇で出かけた保護区で野人ジョンに出会う。すべてのディストピア小説の源流にして不朽の名作、新訳版!

 


オルダス・ハクスリー(1894-1963)は、生物学者、人類学者、動物学者などを輩出したイギリスの著名なハクスリー家に生まれました。親に倣って幼い頃から勉学に励み、医師の道を目指します。イートン・カレッジへと進みましたが、点状角膜炎を患い、殆ど目が見えない状態になります。医学への道を諦めざるを得なくなった彼は、治療に専念すると、拡大鏡を用いてある程度見えるまで視力が回復しました。ベリオール・カレッジへ移ると、彼は英文学と言語学を学びます。彼の文学に対する理解は凄まじく、文芸誌「オックスフォード・ポエトリー」(Oxford Poetry)の編集に携わり、英文学学士号を取得しました。彼自身も早くから執筆し、社会諷刺を込めた作品を生み出していきます。

第一次世界大戦争の期間、ハクスリーは視力の問題から兵役を逃れ、農場労働者として働く傍ら、オックスフォード近郊のガーシントン村にあるオットリン・モレル夫人のカントリー・ハウス(貴族やジェントリの住居とする大邸宅)でも働いていました。そこでは大学時代からの友人D・H・ロレンスをはじめ、T・S・エリオット、E・M・フォースターなどとも時間を共にして親交を深めていきます。この時に感じたガーシントンの生活習慣を諷刺した作品『クローム・イエロー』が世間に大きく受け入れられて、作家としての立場を確立させました。


本作『すばらしい新世界』は1932年に発表されました。第一次世界大戦争による特需を全て国内に還元しようとしたアメリカの失策により、ウォール街株式取引所で起こった株価大暴落を原因として全世界に広まった大恐慌は、資本主義社会を崩壊に至らせ、強大なファシズムを世界に生み出し、第二次世界大戦争へと導いていきます。その波紋が収まらない情勢のなかで描かれた未来の社会は、戦争が無く、人々の苦労の少ない、全人類の幸福を目指した階級社会でした。


2049年に起こった未曾有の最終戦争「九年戦争」を経た未来は「幸福」を第一とした世界の構築を目指しました。フォード・モーター・カンパニーの創始者ヘンリー・フォードを神的存在として崇め、利益重視の合理性、大量生産による効率性、画一性、管理性をもって社会の構造さえも改革した「フォーディズム」に則って世界を構築します。その世界は人間の根源から管理することが徹底され、全ての人間は「孵化調整センター」の人工授精によって生を受け、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、イプシロンの階級に分けられ、瓶詰めの状態から科学的負荷(電磁波、物理的揺さ振りなど)を与えて、階級ごとに能力を調整して「出瓶」されます。親や家族と言った概念が無いため、そのまま国が保育や教育を行い、それぞれの階級に適した人間として育て上げられ、社会へ出されます。保育中に睡眠学習(洗脳)を与え、それぞれの階級こそが最も幸福であるという考えが刷り込まれ、何の疑いも持たずに与えられた階級の職務、及び生活を全うします。アルファは各方面の指導者として、デルタやイプシロンはアルファに使役されるため、明確な階級社会を支えています。彼らはみな、どの階級であっても「幸福感」に溢れています。定められた勤労時間を、自らに適した労働のみに充てられ、私的な時間は用意された数多の「幸福」に費やします。誰もが好む障害物ゴルフ、超現実を体感できる感応映画「フィーリー」、そして家族や愛といった繋がりのない社会であるからこその「快楽としての避妊性行為」などを楽しみます。これらの楽しみは政府より強く推奨され、熱中すればするほど良心的な人間であると世間は評価します。それでも不満や不安といった感情を抱いたときは、政府が莫大な費用をもって発明した快楽促進剤「ソーマ」という合法麻薬を用いて幸福を取り戻します。


アルファ階級にありながら、他者とのコミュニケーションを不得手とするバーナードという青年は、常に劣等感を抱いています。「ソーマ」も好んでおらず、他のアルファたちと比べても、幸福感に満たされていません。「作られた幸福な社会」に違和感を感じる彼は、快楽的な性行為も、自身の劣等感から望みの女性へ積極的にアプローチできずにいます。それとは反対に、彼の友人ヘルムホルツは感応映画「フィーリー」の脚本家として活躍し、政府のプロパガンダを担う傍ら、感情工科大学創作学部の講師を務める優秀な人物です。自ら「詩」を手掛けるほどの才を持ち、浅薄な感応映画に満足できない感情を抱いています。彼らを繋ぐ「社会との疎外感」は、共に出瓶を管理されながらも芽生えてしまった自我同一性に起因して、政府が望まない感受性を育んでしまいました。


世界には彼ら以外にも、彼ら以上に自我同一性を保った人々が存在しています。それは九年戦争後、新たに創られた世界から区分けされた人々、統制社会の外に居る人々です。野人保護区や居留地といった表現で区別され、電磁柵を張り巡らされた地域の中で住んでいます。文化の表現からアメリカの原住民居留地のような印象の人々で、当然のように「家族」を持ち、「出産」によって繁栄しています。新しい世界によるプロパガンダも及んでおらず、「宗教」は存在し、過去の遺物として芸術も僅かに残存しています。そして、元々新世界に居た母から生まれた青年ジョンは、バーナードによって新世界へと導かれます。


野人ジョンは残存していたシェイクスピアの一巻本全集を宝物のようにしており、誦じて台詞を読み上げられるほど理解して、それらの言葉を引用して自らの思いを伝えています。ジョンはバーナードが想いを寄せているレーニナに恋してしまいました。レーニナもまた、ジョンに惹かれていますが、互いの「性の価値観」が全く違うため、当たり前のように身を曝け出す彼女に対して、ジョンは猥雑な印象を持ち、怒りさえも覚えるほど嫌悪してしまいます。原因がわからないレーニナも、彼女なりに混乱して怒るジョンに恐怖を抱きます。母親が何度も褒め称えていた「新しい世界」は、ジョンには猥雑と嫌悪と疑問しかありませんでした。


十人の世界統制官の一人、ムスタファ・モンドも、自我を保つ人間の一人です。強い権限を持ちながらも等しく人々の声に耳を傾ける姿には、絶望的な統制社会の支配者とは思えないほどの寛大さを感じます。彼もやはり新世界の構築においては不適切な思考の持ち主で、研究に熱心で優秀な科学者でした。しかし、彼の研究は新しい世界の統制には不必要であり、危険であったため、研究をやめて支配者を目指すか、異端児たちが飛ばされる島へ流されるかの選択を迫られました。そして彼は「世界の真実」を捨て、「全人類の幸福」を選択して統制官を目指し、現在の地位を得ました。


障害物ゴルフ(sports)、乱交パーティ(sex)、感応映画(screen)、さらには合法ドラッグ(ソーマ)によって満たされた「作られた虚しい幸福感」を、人間の種としての害悪と感じた野人ジョンは、この新世界の人間を目覚めさせようと、仕事の報酬であるソーマの配給を妨害して大騒動を起こします。

「自由になりたくないのか?人間らしくなりたくないのか?人間であること、自由であること、きみたちはそれさえも理解できないのか?」
「僕が教えてやる。望もうと望むまいと、僕がきみたちを自由にする」

そこに駆けつけたヘルムホルツとバーナードと共に、ジョンは統制官ムスタファ・モンドの元へ連行されました。


野人ジョンは人類の自我同一性と自由を取り上げていると主張するのに対し、統制官モンドはそれらよりも社会の安定と幸福が重要であると主張します。そして新世界において、社会安定のために「思想や哲学を表現する芸術」、「真実を追究する科学」、「フォーディズムを脅かす宗教」の犠牲が必要だったと穏やかに説明します。ジョンは、これらの排除されたものが無くては人間の人生に生きる価値を見出せないと抗議しました。

モンドは新世界において優先すべきは社会の安定であり、全てが破壊された九年戦争後の復興時には、ある側面では当然の優先事項でもあるように思われます。恐ろしい戦争を二度と起こさないために「原因となる人間の自我」をどのように統制するのか、それを追究した結果の芸術、科学、宗教の排除でした。そして生きる人間たちに「作られた幸福感」を与え続け、人生に充足感を与えようと多くの快楽を提供しています。しかしながら人間たちは、この理想を目指した新世界では、ジョンの主張する「人間」として本来持つべきであり、持ち得ていたはずのものである「尊厳」「道徳」「愛情」「使命」「崇拝」などが全て排斥され、住まう人間たちは「生かされた社会の歯車」でしかなく、効率的に資本を生み出す国家の道具として生かされています。

知識は最高の善であり、真実には至高の価値がある、他のすべては、それに従属する二次的なものにすぎない、と。たしかに、その当時でさえ、すでに思想が変化しはじめていた。真実と美から、なぐさめとしあわせへ。わが主フォードその人も、この移行に多大な貢献を果たされた。大量生産がこの移行を求めた。社会という車輪を安定的にまわしつづけるのは、万人の幸福だ。真実や美に、その力はない。そしてもちろん、大衆が権力を握ったとき、問題になるのは真実と美ではなく、幸福だった。


ハクスリーは、1931年のイギリスでの大恐慌によって広がる社会の危機に対して、人間が「根本的に社会を安定させる」ことを望んでいるように見えました。大量生産、均質性、単純性、効率性、そういったものを基盤としたフォーディズムこそが、その望みに該当し、その社会を受け入れる人々を思い描きます。そしてフォーディズム社会が生む、利己主義の優先、真実の放棄、さらには快楽による退廃を危惧し、人間の自我同一性に強く影響を与える「尊厳」「道徳」「愛情」「使命」「崇拝」などに関心を抱かなくなることに恐怖していたと考えられます。

 

ああ、不思議な事が!こんなに大勢、綺麗なお人形のよう!これ程美しいとは思わなかった、人間というものが!ああ、素晴らしい、新しい世界が目の前に、こういうひとたちが棲んでいるのね、そこには!

シェイクスピア『あらし』第五幕第一場

本作の作品名にも用いられている『テンペスト』で、シェイクスピアは、個人の尊重、文化の尊重、違いの理解などを、自身の思想を込めて描きました。ハクスリーは、このような芸術における思想や哲学そのものが、国家によって排斥されるわけではなく、sports、sex、screenなどに溺れ、人々自らが関心を無くしていくことに危険性を感じていました。だからこそ、脳を冒されていない野人ジョンにシェイクスピア全集を持たせ、読者に本作をもって警鐘を鳴らそうと試みたのだと言えます。


本作『すばらしい新世界』は、読者の自我同一性と芸術性に対して、直接的に強く訴えてきます。自身が、sports、sex、screenなどに溺れ、審美眼を衰えさせ、芸術や思想、哲学に関心を持たなくなっていないか、資本唯一の思考になっていないか、個人を見失っていないか、そのようなことを波状的に何度も問い掛けてきます。自身を見つめ直す良い切っ掛けとなる本作、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

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『風立ちぬ』堀辰雄 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

風のように去ってゆく時の流れの裡に、人間の実体を捉えた『風立ちぬ」は、生きることよりは死ぬことの意味を問い、同時に死を越えて生きることの意味をも問うている。バッハの遁走曲に思いついたという『美しい村』は、軽井沢でひとり暮しをしながら物語を構想中の若い小説家の見聞と、彼が出会った少女の面影を、音楽的に構成した傑作。ともに、堀辰雄の中期を代表する作品である。


昭和初期、日本の文芸思潮の主流であった自然主義私小説へと移行し、反自然主義の流れが大きく変化していきます。夏目漱石をはじめとする「余裕派」、森鴎外らの「高踏派」が台頭すると、永井荷風らの「耽美派」や、志賀直哉らの「白樺派」が前に出て作風が多岐に渡り、文壇を賑やかにさせていきます。その頃にマルクス主義の思想を帯びた「プロレタリア文学」が社会に対して訴えるように作品を次々と生み出していきます。このように私小説や思想啓蒙のような作品が溢れるなかで、『誰だ?花園を荒らすものは!』を発表した中村武羅夫を筆頭に、当時の文学思潮に真っ向から対立する文学の芸術性を主張する「芸術派」が生まれます。技術の躍進によって変化する社会を描いた「新感覚派」(川端康成横光利一ら)、プロレタリア文学に思想ごと反発した「新興芸術派」(井伏鱒二梶井基次郎ら)、西洋の文学作品に影響を受けて人間の内面を現実へと昇華させた「新心理主義」(伊藤整ら)が多くの作品で対抗しました。本作『風立ちぬ』の作者である堀辰雄(1904-1953)も、この「新心理主義」に含まれます。後述のように主にフランス文学に傾倒していたことで、風景の捉え方、心理の描写、緩やかに落ち着いた文体などで、強い影響を受けていたことを表しています。また、そこに描かれる作品には、小説という創作美が込められ、現実を美しく捉えた描写が散りばめられています。


堀辰雄は東京の麹町で生まれます。父親が元々広島の士族であり、維新後に上京して裁判所にて勤めていました。病弱な妻こうを広島に残してきた父親は、東京の町家の娘である志気との間に子(堀)ができ、これを嫡男として受け入れます。志気も同様に堀家邸内にて暮らしましたが、正妻こうが上京することになったため、堀を連れて家を出ます。彼が四歳になる頃、養父となる男の元へ志気は嫁ぎ、睦まじい家庭で堀は大切に育てられます。その頃、父親が脳を患って亡くなると、後を追うように正妻こうも病状が悪化して亡くなります。こうして父親の恩給は堀へと与えられ、学費に苦しむことなく進学することができました。


学生時代に同期であった神西清小林秀雄らによって文学の世界に引き込まれていくと、堀自らでも執筆を始めていきます。二十歳のとき、萩原朔太郎の詩集『青猫』に感銘を受けると、詩の世界に惹かれて、彼が持つ詩性を磨くように読み耽りました。また、学校長に伴われて田端の室生犀星を訪ねるなど、彼の文士としての才能を刺激する機会にも恵まれます。堀の高まった詩才は、詩『仏蘭西人形』として発表され、一つの姿を形成しました。その頃、室生犀星に連れられ、初めて運命的な土地となる軽井沢へ訪れます。


1923年9月、関東大震災が起こり、母志気が亡くなります。また、堀も身体の調子を悪くして転地を予定していましたが、大震災による母の死、そして被災地で過ごす肉体的な疲労によって肋膜炎を患い、学校を休学することになりました。この療養中、室生犀星が東京から金沢へ引き上げる時分、芥川龍之介を紹介され、堀の文士人生を大きく動かしていきます。この頃、スタンダールプロスペル・メリメアレクサンドル・プーシキンアナトール・フランスアンリ・ド・レニエアンドレ・ジイドなどの作品を読み耽り、後の小説作品における美文を生み出す糧となります。

卒業して萩原朔太郎を訪れると、犀星の元で作家たちとの交流が深まっていきました。そこで通じた中野重治窪川鶴次郎らとともに文芸同人誌『驢馬』を創刊し、プロレタリア文学を意識した活動に参加します。各文士たちと切磋琢磨しながら執筆に取り組んでいましたが、その翌年、芥川龍之介が自殺しました。堀は親しく、尊敬の念を抱いていた人物の死というものから強い精神的な衝撃を受けると、自身の体調も悪化して、肋膜炎が再発しました。そのようななかでも、敬愛する芥川龍之介の全集編纂を引き受けます。度々訪れた軽井沢で悪化した身体を療養しながら、自己のなかで芥川龍之介の死を受け止めようと、悩み苦しみます。そしてそれは一つの作品『聖家族』として生み出されました。彼の精神に納得と苦悩と安堵が一度に訪れ、その反動で書き上げた直後に激しく喀血して、闘病生活へと身を委ねていきます。


三十一歳のとき、療養先の軽井沢で知り合った矢野綾子という村の女性と婚約をします。二人の様子は、『美しい村』で自伝的に描かれ、堀にとっての幾つもの死や別れの傷が癒されていく心理が見えてきます。彼の精神が立ち戻りかけた翌年、綾子は肺病により体調が悪化します。共にサナトリウムに入る闘病生活が始まりましたが、快方に向かう堀に反して、綾子の病状は激しく悪化し、その生活から半年後に彼女は死亡してしまいました。この悲しい経験を、やはり精神的に昇華するために机に向かった堀は、翌年から二年をかけて『風立ちぬ』を発表します。


天災が招いた関東大震災による母の死、心理不安による自殺が招いた芥川龍之介の死、急激に蝕む病が招いた婚約者の死、堀の精神を何度も襲う「死」という事実が、その度に彼の病を悪化させ、「自らの死」を強制的に意識させます。逃れられない絶対的な死、引き摺り込まれる死、這い寄られて追い込まれる死、見つめ続ける「死の観念」とやがて対話をするように生きる彼は、「闘争」という形で死に向かい、生きるという活力を奮い立たせます。死を恐れ、不死を望むのではなく、限りある生を隅々まで見つめ、その可能性を存分に生かすことで、生きようとする意志を育みました。死を見つめ、乗り越え、理解して、生きることを選んだ彼の生み出した作品は、生きることに対する逡巡から生まれたとも言え、そこには前向きな美しさを兼ね備えています。

また、彼自身にとっても死を直視する姿勢は、迫り来る死に対して立ち向かう活力となって我が身を支えます。療養中に沸き起こる不安や葛藤から自分の魂を鎮める力となり、冷静な清浄さをもって現実の生を見つめます。そして彼は「死ぬまでは生きねばならない」という、「生きる積極性」を理解して、死と向かい合う無垢な生を追求していきました。


本作『風立ちぬ』は、前述のように綾子の闘病と死の経験を礎にしています。序曲には綾子の死を物語に起こす決意を見せる、詩の引用が掲げられています。

Le vent se lève !… Il faut tenter de vivre !

風立ちぬ、いざ生きめやも

ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』

床に臥して病に向かう二人の描写は、何気ない日々の会話や仕草で綴られています。そしてそこには、労りや優しさが溢れ、美しさを醸し出しています。しかし、死に至る病との闘争は生優しいものではなく、まして現実は堀自身も病の症状が激しかったことを考えると、苦しみに溢れた生活であったことは想像できます。そのような経験を優しさと美しさで包んで描いたことは、彼の目線が非常に「清澄」であったからであると言えます。文士としての初期に神西清の雑誌『蒼穹』に発表した『清く寂しく』の頃から変わらぬ心をもって、彼女を労り、現実を包み込んでいました。彼女の死は大きな悲しみを与えました。自分でも事実をうまく昇華できずにいました。そして、それを救ったのはライナー・マリア・リルケの『鎮魂歌』でした。本作を最後まで書き上げられなかった堀は、この詩に出会って、最終章「死のかげの谷」を描き切りました。

私達の日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。私の身辺にあるこの微温い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、──そう云ったものを若し取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、──我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していられた。


堀は、数多くの死に直面し、誰よりも死に迫られ、それでも生きる逡巡の末に前を向いて生き抜きました。どれほどの悲しみを受けても、「清澄な心」が精神を守り続け、現実に失望せず、美しさを見出します。このような死の淵の達観とも言える生き方は、その精神こそを美しく感じさせます。

ポール・ヴァレリーが『海辺の墓地』で引用したピンダロスの詩は、まさに堀が至った「生きる積極性」に通じます。

Μή, φίλα ψυχά, βίον ἀθάνατον
σπεῦδε, τὰν δ᾽ ἔμπρακτον ἄντλει μαχανάν.

魂よ、不滅の命を熱望するのではなく、見える可能性をすべて果たせ

ピンダロス『ピューティア第三祝勝歌』


幾多の死を目の当たりにして、それでもなお力強く生きた堀辰雄には、「清澄な心」が生きる手助けをしてくれました。本作『風立ちぬ』では、その心を強く感じることができます。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『濁った頭』志賀直哉 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

明治37年の『菜の花と小娘』から大正3年の『児を盗む話』まで、著者の作家的自我確立の営みの跡をたどる短編集第一集。瓢箪が好きでたまらない少年と、それをにがにがしく思う父や師との対立を描く初期短編の代表作『清兵衛と瓢箪』、自分の努力で正義を支えた人間が、そのために味わわなければならなかった物足りない感じを表現した『正義派』など全18編を収録する。


志賀直哉(1883-1971)は、現在の宮城県石巻市で誕生しました。父親は、第一銀行石巻支店に勤務しながら、鉄道会社、薬品会社、保険会社などの専務や取締役も兼ねた大実業家でした。志賀が二歳のとき、父は銀行を退職してまもなく東京に移ります。志賀には兄がいましたが僅か三歳で早逝、その原因を母の銀にあると見た祖父母は、家督を絶やしてはならないと、自らで養育するために一家を東京へ越させました。この祖父は華族である相馬家の家令を務め、古河市兵衛と共に足尾銅山の開発に携わりました。志賀はあらゆるものから守られるように大切に育てられ、豊かな環境で育ちます。そして彼が初等科を卒業した十二歳の夏に、心労も合わさって母親が亡くなります。すると間も無く、その秋に父は後妻を迎えます。彼は母の死を「初めて起こつた取りかへしのつかぬ事」と受け止め、後日、『母の死と新しい母』で書き綴っています。こうして一層、志賀は祖父母に育てられました。ちょうどその頃に学習院の中等科へ入学すると、画家の有島生馬とともに「倹遊会」を結成して会誌を発行し始めます。和歌を中心とした作品で、文士としての初めての活動でした。十八歳になると、彼は志賀家の書生に勧められて思想家の内村鑑三の講習会に出席します。真実さの籠った熱弁にいたく感銘を受けた志賀は、そこから七年間、内村に師事し、キリスト教の思想を学びました。この頃より文士への意志が目覚め始め、夏目漱石をはじめ、尾崎紅葉徳冨蘆花、その他に海外文学にも多く触れて執筆の土台を構築していきます。東京帝国大学に入ると、武者小路実篤や木下利玄とともに読み合わせ会「十四日会」を開き、他の「望野」、「麦」、「桃園」などと合流して「白樺」を結成しました。


祖父母の溺愛によって強く育った志賀の自我は、父と幾多の口論を起こし、不和な関係が続いていました。実業家として名を馳せていた父は、やはり志賀を実業家として育てたい思いがあったためでもあります。この十八歳のときに、足尾銅山鉱毒問題が世間に広まりました。志賀は、銅山の視察を計画しましたが、祖父は元より父親自身の世間体から強く反対され、不和は決定的となりました。その後、二十四歳のときに、志賀は家の女中と深い仲となって、彼女との結婚を望みましたが、当然のように父親に反対され、修復困難な不和となります。募った父親に対する憤怒と憎悪は、志賀自身の心身を蝕み、強い自我を刺激して、父親に対する恐ろしい想像をはじめます。誰かが父親を殺さないだろうか、居なくならないだろうか、自分が殺さねばならないだろうか、殺せるだろうか、といった考えを延々と巡らせていました。この自我の暴走を抑えるため、志賀は筆に向かいます。恐ろしい空想は、事実と創作が入り乱れた恐ろしい作品群を生み出します。そのなかの一つが本作『濁った頭』です。当時の彼の異常な精神状態が垣間見える犯罪小説です。


本作は、夢から着想し、彼自身の神経衰弱の経験をもって書き上げたもので、作中にも多くの乱れた精神状態が見られます。筆者が津田という青年の語りを聞き及んで、作中で書き連ねていくという形式をとっています。癲狂院から出てきた津田は、キリスト教の「姦淫する勿れ」(婚前の性的交わりを禁ず)という教義に従うも、溢れ出る性欲に苦しみ、心的圧迫を感じていました。そんな状態のある日、母方の親族であるお夏という女性が一つ屋根に住まうことになります。津田はお夏の誘惑を受け、姦淫に及んでしまいました。毎日のように繰り返される行為は、二人の関係を滲ませ、家族に暗黙の了解として認識が広まります。環境に苦痛を感じ始めた津田はそこから逃げ出そうと考えますが、お夏は賛同して、結果的に駆け落ちすることになりました。家を飛び出した二人はさまざまな観光地へ向かい、旅の宿にて性行為に耽ります。頽廃的な生活を繰り返すことで、津田の自我は徐々に不安と不満が溜まり、その原因はお夏にあるように感じ始めます。その芽生えた負の感情は、やがて大きな憎悪へと変貌します。しかし自我に反して性欲は溢れ、淫蕩生活は続けられていきます。お夏から離れたい憎悪と、お夏から離れたくない性欲という、自我における矛盾が精神を蝕んで、この生活から逃れるにはお夏の死が必要であると思い至ります。すると、津田は畳屋が使う錐を用いて、冷静沈着にお夏の首を貫きました。しかしながら、この描写は端的であり、現実か空想か区別がつきません。津田自身も理解が出来ていない様子でした。そして津田は癲狂院に入れられたと語ります。


津田の「濁っていく頭」の描写は秀逸で、まさに実体験が無ければ描けないようなものです。志賀自身が感じた神経衰弱のなかの「濁った思考」がまざまざと描かれています。また、作中における津田が錯乱に至った根元は「汝、姦淫するなかれ」という教えであり、宗教の教えをアイロニックに描いているところにも、自己矛盾の根源を探し至った経験を感じさせられます。本作では、津田が癲狂院に入れられていたことが語られていますが、どのようにして癲狂院から出たのか、どのようにして語り手の宿へ辿り着いたのか、なぜその宿へ訪れたのか、といったことは語られていません。読後の妙に釈然としない感情は、津田、或いは志賀が感じた「頭の濁り」を伝えているようで、さまざまな想像を読者に求めます。

総ての力を尽し、力尽きて遂になると云うのが本統に絶対的な絶望でしょうが、私にはそれだけに力を尽す気力も第一にありません。寧ろ、それを以って申し訳とする絶望です。問題の解決とする絶望です。誇張です。宗教もない、道徳もない、社会もない、家庭もない。──今から思えば実に無意味な事です。その当時でも一方にはそんな気分を笑うような心持も、どうかすると出ては来ますが、私はそれを無理におさえて、緊張した、多少人工的な苛々した気分で、生活していました。然しそういう気分も止む時なしに続ける事は到底出来ません。ややもすると錦魚の為に蚯蚓を探してやる時の気分にもなるのです。


自我を強く高めるように溺愛のなかで育てられた志賀は、極端に我儘な感性を持っていたと言えます。言い換えれば、絶対的な自己肯定と言え、自身の感情、その元となる感受性の尊重は志賀文学の一つの大きな要素となっています。そして、流麗で緊密な文体には、直截的に感情を伝え、美しい文芸性を感じさせています。

自然と人間、そのあらゆる接触関係において、「快」と「不快」のいずれかを嗅ぎわけて生きている、この異常な潔癖で、エゴイスティックな感受性、それを信頼することが生きることのすべてであるかのような生きかた、──志賀直哉の文学が、それと切りはなすことのできないものである。

臼井吉見志賀直哉集』「人と文学」


志賀にとって文学とは、衝動的感情を吐き出すものでした。彼の高まった負の感情により沸き上がる「憎悪」「倦怠」「憤怒」「頽廃」を現実に発散できないが故に、執筆をもって発散していました。ここには、彼の実生活における経験が遠隔的な要素となって溶け込み、受けた負の感情に対して「どのように取りかへしをつけるか」ということが焦点となって、作品が構築されています。与えられる負の要素は至るところで生まれます。遊郭で、友人との談論で、芝居で、美術鑑賞で、どのような場面でも、志賀は「快」「不快」を受け取ります。しかし、そこで得られる感情は単純な正負の差し引きとはならず、「不快」が負の感情として蓄積していきます。その負を潜り抜けた精神は衰弱し、「頭を濁らせて」いきます。このように陥らせた絶対的な自我の強さを、志賀は自己の肯定をもって芸術という形へ昇華しました。彼は生涯、自分の感情や、それに振り回される自分の精神と、執筆という形で戦い続けました。


彼が「小説の神様」と呼ばれる根源には、強すぎる自我と、頽廃に苦しむ精神が存在していました。生み出された作品からは、自己の肯定、自己の探究、自己の救済、自己の自覚、などが感ぜられますが、何よりも根源にあるものは「衝動的感情の抑圧」であったと考えられます。この苦悩の連鎖は、長年不和であった父親との和解を契機に解消されていきます。彼が自身を護るために生み出した自己の肯定は、何よりも強い存在の父親に肯定されることによって、全てが浮かばれました。また、生死を彷徨った経験から得た「死」に対する目線は、より一層に現実を見つめる態度を高め、彼は晩年、随筆を綴ることが多くなりました。

白樺派」の代表的な作家であり、誰よりもその「自己肯定」を目指した志賀直哉。そのなかでも精神混濁の苦しむ最中に描いた本作『濁った頭』。未読の方はぜひ読んで、その感情を受け取ってください。

では。

 

『女ひと』室生犀星 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

「夏になると女の人の声にひびきがはいり、張りを帯びてうつくしくなる」。声、二の腕、あくび、死顔、そして蛇、齢六十を超えた作家が抱き続ける「女ひと」への尽きぬ思い、美男というにはほど遠い自分が女性の麗しさから離れられぬ哀しみとおかしみを軽やかに綴る。晩年の犀星ブームを導いた豊潤なエッセイ集。

 


廃藩置県まで加賀藩足軽頭であった父親は、女中を妊らせて一人の子が生まれました。世間の目から非難を逃れるため、真言宗雨方院の住職である室生真乗へ相談して、その内縁の妻に引き取らせることになりました。この子供が室生犀星(1889-1962)です。この義母は、他にも私生児を引き取り、男児は働き手として自分を養わせるため、女児は娼婦として売り払うため、そして幼い時分は憂さ晴らしに理不尽な折檻を与えて小間使にするという、非道の悪女でした。目の前で繰り広げられる不条理と怠惰は、犀星に絶えず不快感を与え続けました。そのような意図で育てられていたため、満足な教育を与えられることもなく、義母の醜悪さと淫蕩を見せつけられる日々を送ります。そして犀星は、義母の意向で高等小学校(現中学校)を中途退学させられ、地方裁判所の給仕として奉公に出されます。自分の意思に反した生活はただ苦しく、不快と苦悩を募らせていきます。このように高まった義母への感情は、恐怖と痛苦が混在する憎悪として一つの核を心に形成します。しかしこの裁判所に、河越風骨、赤倉錦風といった俳人があり、幸いにして犀星は俳句の手解きを受け、文士への道を照らし始めます。新聞や雑誌への投句、句会への参加などを続けると、やがて犀星の才が文壇に認められ始め、詩や小説などをも手掛けていきます。この影響で詩人の表悼影と友人になり、互いに違った性格を持って精神を高め合い、腕を磨き合いました。しかし、表悼影は弱冠十七歳にして肺病で亡くなり、犀星に不幸が襲います。価値を理解して認め合っていた存在を失い、悲嘆に暮れる日々のなか、犀星は自身が表の影を追っていたことを自覚して、自分の道を歩むため、精神的な独り立ちをしようと決意します。そして彼は、義母へ反旗を翻し、裁判所を退職して自らの手で文士として歩み始めます。


赤倉錦風を頼りに上京するも、貧しく辛い文士生活の日々でした。苦しい義母の囲いの生活から救ってくれた文学は、現実生活の厳しさという試練を与えます。結果的に、東京と金沢を何度も往復するという貧乏詩人となった彼は、徐々に一つの世界を心に抱き始めました。それは、現実とは異なる輝かしい未知の世界でした。学歴、教養の無さ、更には自身の容貌に強い劣等感を抱いていた彼は、現実から逃避するように美しい世界を心に見て精神を保ちます。そして、この心的世界で最も輝いていたのが、見たこともない生母の存在でした。犀星のなかで、二度と会うことのできない生母は憧れと理想が融合し、想いを重ねるほどに美しく昇華されていきます。このような現実からの逃避は、彼の精神を穏やかにさせると共に、作品への空想力を担うものとなり、独特の世界を作り出していきました。作品を次々と生み出すうちに、犀星は良い作品を生み出すには目標が必要であることに気付きます。表悼影の美しい詩に感化され、それを超えたいと願って溢れた創作力と熱量のように、明確な目標を掲げようと試みます。そして、義母への復讐を目的とした「文士としての成功」を目標としました。現実逃避から復讐という目標の変化は、「生母への憧憬」と「義母への憎悪」の二つの柱を明確に打ち立てることになります。犀星は、過去と現実と理想から、女性の本質を見抜く目を養い、凄まじい観察眼で作品に「女性」を描いていきました。

 

そして今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であつた。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧が、好ましかつた。東京の第一夜をこんなところに送つたのも相応わしければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。

『洋灯はくらいかあかるいか』


明治を終えて大正元年(1912年)を迎えると、日本の近代詩は黄金時代を迎えます。人気詩人の北原白秋をはじめ、抒情詩が全盛期となり、白秋主催の詩集『朱欒(ざんぼあ)』にて後押され、萩原朔太郎大手拓次らとともに、室生犀星は詩壇に堂々と名を見せることになりました。

犀星の『抒情小曲集』(1918年)は、近代抒情詩の頂点と言われ、手に取った読者だけではなく、同業詩人の数多くに絶賛の声を寄せられるなど、詩界に強烈な衝撃を与えました。その作風は文語体で書かれており、感情が鮮烈で、直截的な詩的表現を見せています。詩壇に見られる多くの抒情詩が短歌的発想であるのに対し、彼の根源は俳句であることから、その発想が独自性を帯びています。このような大胆で率直な感情表現は今までの詩壇では見られず、過去の詩が瞬時に色褪せて見えるほどの型破りな作風でした。犀星の義母によって与えられた苦しさから芽生えた復讐心、憧れと理想によって美化された生母への愛、二つの相反する女性像から生まれる独自の感情は、既存の詩の型さえも破壊して鮮烈に迸りました。

 

私はやはり内映を求めてゐた
涙そのもののやうに
深いやはらかい空気を求愛してゐた
へり下つて熱い端厳な言葉で
充ち溢るる感謝を用意して
まじめなこの世の
その万人の孤独から
しんみりと与へらるものを求めてゐた
遠いやうで心たかまる
永久の女性を求めてゐた
ある日は小鳥のやうに
ある日はうち沈んだ花のやうにしてゐた
その花の開ききるまで
匂ひ放つまで永いはるを吾等は待つてゐた

『万人の孤独』


実生活においても犀星は女性に対して、あらゆる方向へ情熱と観察を投げ掛けます。恋愛し、求愛するも、想い人と成就しなければ、犀星は娼婦の元へ足を運びます。すると、その貧しい身売りの女性に、真の美を見出そうとします。これは薄幸の境遇(犀星がそう捉える)にある女性像が、生母への思慕と繋がり、より一層の美しさを犀星に感じさせることにより生じています。無教養で野蛮とも言える野生を筆に漲らせる犀星は、熱情と復讐に駆られた作品で着々と義母への復讐を果たしていきます。そして彼は、自分の詩を愛した故郷の女性と結婚します。今まで得ることも感じることも無かった肉親女性の愛を知り、そして男女としての責任を知った犀星は、「愛」という人間性を受け止めて理解していきます。野生的に手を伸ばし続けた「美」に、倫理的な「愛」を得たことで、劣等感を単純な熱量に変換するだけでなく、感情の激しさを登場人物に取り入れて、物語にして描く手法を取り入れました。彼が生み出す小説は、シャルル・フィリップのように薄幸の美と、フョードル・ドストエフスキーのように激しい感情を描きます。そこに描かれる二つの核は「生母への憧憬」と「義母への憎悪」であり、名や姿を変えて何度も物語に登場します。女性を観察し、女性を描いてきた犀星にとって、作品を生み出す熱量の根源は、やはり女性であり、二つの核を通して精神に昇華されていきます。描く対象から願望へと変わった「女性」という存在は、やがて犀星にとって「世界」そのものとなりました。そして、描かれる「薄幸な女性への執着」は清廉な生母への愛着が見られます。

 

犀星にとって小説とは、女ひとを書くことであり、生きることにほかならなかった。それが犀星にとっての社会への復讐であり、人間への役立ちなのだ。その理想的女性像は、つねに静止することなく、永遠に満たされないものとして、未来に向いている。

奥野健男 室生犀星集「人と文学」


本作である晩年の随筆『女ひと』は、犀星の人生の全てを覆い、世界の全てを埋め尽くした「女ひと」を、成熟した観察眼と筆致で振り返りながら書き連ねた渾身の作です。そして磨き続けた聖性を纏う薄幸の美は、揺るがない強固な理想の柱として存在し、「あわれ」という姿勢を持って精神で包むように慈しみます。

 

我々の何時も失うてならないものは、女のひとへのあわれの情である。それはまた、女の人のすべてが、我々にあたえてくれなければならないのも、このあわれみ一すじなのだ、これが二人の人間のあいだに朝夕に編みこまれているあいだは、至極無事なのである。理解するとか何とかいうが、そんなものは百年経ってもだめだ、ただ相あわれむことである。


犀星の人生と心的世界を、生涯に渡って掻き乱し続けた「女性への愛と憎悪」は、端的な対比だけではなく、追究すべき対象として存在し続け、結果的に作家としての熱量を供給し続けました。そして辿り着いた「あわれ」という一つの姿勢は、憧憬も憎悪も冷静に見つめることを犀星に与えたのでした。彼の精神の核として存在した「女ひと」を書き連ねた集大成である本作。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『つゆのあとさき』永井荷風 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

銀座のカフェーの女給君江は、容貌は十人並だが物言う時、「瓢の種のような歯の間から、舌の先を動かすのが一際愛くるしい」女性である。この、淫蕩だが逞しい生活力のある主人公に、パトロンの通俗作家清岡をはじめ彼女を取巻く男性の浅薄な生き方を対比させて、荷風独特の文明批評をのぞかせている。


永井荷風(1873-1959)は、幼少期より文学に興味を持ち、江戸時代の戯作文学に多く触れて育ちました。早々に文士として目覚めると、小説家である広津柳浪に弟子入りをして、巌谷小波の催す句会を中心とした文学サロン「木曜会」に参加します。また、小説家の三宅青軒に紹介されて歌舞伎座の座付作者を務めるなど、幅広い文芸性を身につけてそれらを披露していきます。その頃、エミール・ゾラなどの自然主義文学に傾倒していた彼は夜学を通してフランス語の習得に勤しみます。しかし、留学経験豊富な官吏として成功を収めていた父の久一郎の意向で、実業家の道を学ぶために彼はアメリカへ留学することになりました。日本大使館横浜正金銀行などで働くことになりましたが、その傍らでフランス語の習得は怠らず、フランス文学の研究は継続します。そして、アメリカの風土や勤務環境に馴染めなかったことを理由に父へ願い出て、フランスへ渡る許可を得て念願を叶えることになりました。約八ヶ月をリヨンの横浜正金銀行で勤めましたが、その後退職してパリ遊学を謳歌します。ギ・ド・モーパッサンなどの作品を現地で触れて学んでいる折、詩人の上田敏との交流が始まるなど、この時期は荷風にとって、文士として豊かな経験を積む期間となりました。また、クラシック音楽やオペラに多く触れていたこともあり、帰国後にヨーロッパ音楽の現状を伝え、日本における音楽史研究に役立たせています。

帰国して『あめりか物語』『ふらんす物語』『歓楽』の三作を立て続けに文壇へ発表すると(後二作は風俗壊乱として発売禁止)、夏目漱石の声掛けにより新聞連載を取り付け、新進気鋭作家として認められるようになりました。また、その頃には森鴎外上田敏の計らいで慶應義塾大学の教授となり、人気を博しました。世間的には華やかな生活でしたが、芸妓通いを中心として親族間との関係が悪化していきます。父の意向で結婚した商家の娘とも、父の死後にすぐに離別します。そして懇意にしていた新橋の芸妓である八重次と、親族の反対を押し切って婚姻するも、翌年早々に別居し、以降は妻帯することはありませんでした。


1908年に神田の錦輝館で起こった社会主義弾圧事件「赤旗事件」を端緒として、国家は社会主義者への抑えつけを激しくしていきます。1910年に、明治天皇を暗殺するという計画を容疑として幾名もの社会主義者を処刑した「幸徳事件」はその代表的なもので、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガら無政府主義者を強引な大逆罪で検挙して、異例の速さで処刑しました。証人喚問は一人もさせず、裁判記録さえ弁護士の手に残ることはありませんでした。第二次世界大戦争後まで真相は闇の中にあり、曝された実態は殆どが冤罪という事実であり、国家の社会主義弾圧のパフォーマンスに使用されたと結論づけるものでした。この事件をはじめとする幾つもの大逆事件によって「冬の時代」と言われる社会主義運動が影を潜める時代に入ります。社会主義的な文学者たちは思想雑誌を発刊、他国への亡命などで、時代を凌がざるを得なくなりました。これを受けて、荷風は国家へ失望の色を見せ、一切の信用を置かなくなりました。

わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。

『花火』


荷風は「戯作者」として生きるしかないと漏らしながらも、日本の文壇においては一つの立ち位置を作り上げます。自然主義、或いは戦後に隆盛した私小説が当時の幅を利かせるなか、荷風は彼自身を描くのではなく作られた物語の中に主義や思想を取り入れるという手法を貫きました。これは荷風自身の外遊経験による目線、海外作品研究による目線、さらに言えば裕福な生活精神を持った者の社会への客観的な目線、などが絡まり、ギュスターヴ・フローベールのような客観性を見せていたと考えられます。そして彼が投げ掛ける作品群は、自然主義が人間の醜を直截的に描くのに対して、根底にある「美」を絶対のものとして描く作風であり、やがて「耽美派」(悪魔主義とも)と呼ばれる作風の波紋となって広がっていき、谷崎潤一郎などが続きました。

その姿勢は、謂わば「私小説の否定」であり、フランス文学の要素を取り入れた古典主義的な形式美を見せています。エミール・ゾラの文学理論、ギ・ド・モーパッサンの風俗性に乗せて、民衆の真の愚かさを描きながら根源的な「美」を映し出すという手法です。批判的レアリスムとして描かれる人間関係では、愛を否定し、愛情でなく嫌悪が前面に見せられますが、その奥に潜む「美」が抉り出すように見えてきます。また、荷風の客観的な目線には、明治社会の強権政治、急造の西洋文明の模倣の低級さを、鋭く冷ややかな目線で捉え、強烈な嫌悪を持って描きます。このような、ある種の孤独な観察眼は真の自然主義的な精神とも言えます。


本作『つゆのあとさき』で描かれる女性の対比には、自然主義の憐れみと戯作的なおかしみが混在しています。倫理的で古典的な渡仏する鶴子と、淫蕩で奔放な女給の君江は、大衆文学作家の清岡に対して正反対の態度で接するものの、互いに清岡から離れようとする作用は同じくして、真意を知らぬは彼のみといった進展を見せます。彼に与えられる歓喜と愁歎は、後に何も得られず、ただもどかしさと虚無感だけが残されます。そして読者には清岡をはじめとする男性の登場人物たちが愚かで滑稽に見え、当時の風俗性を明確に示します。彼らの放蕩とも言える生き方や精神は、戦争によって齎された「虚無」からの逃避が与えた生き方であり、生きる道標を個人の俗性に委ねるという側面が現れ、読後のおかしみに通底する切なさが辛く響きます。

 

生きていたくもなければ、死にたくもない。この思いが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没している雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明くもならず、唯しんみりと黄昏れて行く雪の日の空に似ている。日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩かれ早かれ来ねばならぬ。

『雪の日』


荷風は年を経るにつれ、人生の晩年にどのような心持ちであるのかが、人間の本質的に重要なことであると結論づけています。俗的であろうが、淫蕩であろうが、放蕩であろうが、ゆがて精神は丸くなり、辿った軌跡ではなく精神の到達点こそが人の価値であると訴えています。しかしそれは自己肯定を目的としており、その感情こそが虚無に包まれた社会で生き抜く必要な手段でもあった言えます。

 

不愉快な刺戟も、馴れてしまえば、僕らの生活を形づくるひとつの要素になる場合があるように、周囲の状況にいつも腹を立て、焦立っていることも、それが何十年とつづくうちに、荷風にとって生活の必要になると同時に、性格の一部を形成するようになったかも知れません。それは何といっても、周囲に対する自己の優越の確証です。荷風の生活はこの点から、一種のロマンチック・エクサイルと見ることができましょう。

中村光夫 永井荷風集「人と文学」


「虚無」を見つめざるを得なかった近代文学作家の中において、日露戦争中をアメリカとフランスで過ごしたことで、ある種の文学思潮から離れていた荷風の文学精神は、特異なものであったと言えます。西欧の思想や哲学を、さらには西欧文学そのものを強く吸収したことで、独自の外遊的な視野を持ったことが大きな特徴となり、彼の文学性が構築されました。彼の俯瞰とも言える距離を置いた客観性は、自らの人生さえもその目線で捉え、晩年の考えに至ったと考えられます。荷風の切なくも美しく生を見つめる姿勢を、ぜひ読んで感じてみてください。

では。

 

 

『二十歳の原点』高野悦子 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

独りであること、未熟であることを認識の基点に、青春を駆けぬけていった一女子大生の愛と死のノート。学園紛争の嵐の中で、自己を確立しようと格闘しながらも、理想を砕かれ、愛に破れ、予期せぬうちにキャンパスの孤独者となり、自ら生命を絶っていった痛切な魂の証言。明るさとニヒリズムが交錯した混沌状態の中にあふれる清洌な詩精神が、読む者の胸を打たずにはおかない。

 

第二次世界大戦争で広島と長崎を筆頭に甚大な被災を受けた日本は、イギリス、アメリカ、中国から与えられたポツダム宣言(日本への降伏を求めた宣言)を受け入れ、連合国へ降伏して戦争は終わりました。日本が支配していた朝鮮半島アメリカとソ連に、台湾は中華民国に、歯舞や色丹をソ連に、日本列島はイギリスとアメリカによって占領されました。日本は統治権を維持されましたが、アメリカによる間接的な統治は変わらず、継続して行われます。1951年にサンフランシスコで行われたこの戦争の講和会議に招聘された日本は、アメリカやイギリスを中心とした連合国48ヶ国(ソ連、中国などを除く)に対して平和条約を結ぶことになります。戦争状態の終結、日本の主権維持、領土の返還や制定、実質的な無賠償などを締結されました。しかしながら、武装解除された日本には自衛権がなく、他国からの侵略や内乱になんら対抗ができない無防備な状態でした。そこでサンフランシスコ条約と同時に日米安全保障条約が調印されます。日本の統治を守るという名目で、アメリカ軍を駐留させることになりました。これが、アメリカによる間接的な統治という形を成し、日本はアメリカにとっての対共産圏包囲網(ソ連、中国をはじめとする共産主義国の封じ込め)の一員とさせられ、米ソ冷戦に利用される立場に立たせられます。


実質的なアメリカによる保護は、日本の主権回復には程遠く、傀儡政権となることが見えていました。1955年に発足した与党の自由民主党は、自主憲法制定や自国防衛力の強化を目指して、日米安全保障条約を対等なものへと改定させようと取り組みます。そして1957年より日米による改訂作業が行われ、1960年に日米安全保障条約は改定に至りました。経済的協力の促進、武力の強化、他国による日本への防衛、10年契約など、幾つかの項目に変更が与えられました。

しかし国内では、広島と長崎に受けた被災における加害者であるアメリカと手を取る訳にはいかない、アメリカとともに新たな核戦争へと参加させられる訳にはいかない、と言った反発が社会党共産党を中心に広がり、学生を先駆けに国民へと伝播していきます。この軍事同盟反対運動の畝りは大きな流れとなり、全国的な規模の民衆運動へと発展しました。これに対する自民党政府は、(アメリカの保護下にあるからこそですが、)ソ連や中国などの共産主義国と起こり得る戦争の脅威から、アメリカの傘下にある安全を主張します。こうして政党同士の対立は、国家と国民という対立を生みました。


1960年5月20日日米安全保障条約改定の反対意見を押し切って、岸信介自民党内閣は強行的に採決します。これに対して議会は紛糾し、民衆運動は激しいデモと化して、全学連の樺美智子の死をはじめ、多くの負傷者を出しました。この「60年安保」と言われる民衆運動は、日本全土を巻き込んだものとなりましたが、岸信介が6月19日の条約締結を強引に成し遂げたことで、民衆には失意と悲嘆が溢れ、民衆運動の熱も冷めていきました。そして、その後に発足した池田勇人内閣による「所得倍増」のスローガンが浸透して、民衆の視線は資本へと向き変わり、高度経済成長の時代へと突入していきます。しかしながら、その陰では極左的な活動を見せる学生組織も乱立し、政党間での分裂や、民衆組織との関わりの複雑化が行われていきました。1950年の朝鮮戦争による特需を元に、日本は1960年代において年率10%の経済成長を見せ、その象徴とするかのように東京オリンピックを開催しました。また、アメリカがベトナム戦争により物資を必要としたため、それを支援する輸出が成長を高めたという背景もあります。しかし、これが「アメリカとの関わりは戦争との関わりである」という印象をより強め、マルクス共産主義者を刺激することになりました。


この時期から学生運動の動きが活発になっていきます。1965年の各大学による「授業料引上げ」「規定改悪」「大学私物化」「使途不明金」などの問題に対するバリケードストライキ、及び武力抗争が頻発しました。こうした運動を行う学生が学部やセクトを越えて結び付き、「全学共闘会議」(全共闘)が組織されました。新左翼によって行われる過激なストライキ行為は各大学で勃発し、機動隊の介入に至ります。新左翼と呼ばれる学生たちは、経済成長を見据えた社会に違和感を感じ、そこに生まれる虚無感を漂わせ、無政府主義(属する場所が無い)的な、一種の荒んだ感情を持って活動していました。そしてこの闘争は、全共闘で共有され、一つの大きな対抗勢力「国家」を掲げます。前述の対大学への抵抗だけでなく、反ベトナム戦争沖縄返還などの対国家といった活動が盛んになっていきます。この当時に、全共闘と最も対抗した組織が「日本民主青年同盟」(民青)です。対国家、或いは対大学といった姿勢や方向性は同じでありながら、民青は共産党の青年組織であったため、「国家破壊」「大学破壊」の思想とは相容れず、またその手法においても民青は妥協点を探る闘争であるに対して、全共闘は徹底抗戦を行うという相違があり、大学の内と外で争いが絶えませんでした。全共闘、民青、機動隊が入り混じって、学生運動という名の武力抗争が至るところで行われます。


この闘争が隆盛しているなかで、米ソ冷戦は激しくなり、日米安全保障条約の10年契約期日が民衆の関心の的となります。当然の如く全共闘の熱は高まり、一層の激しい学生運動が行われます。主要な大学では「70年安保粉砕」の文字が掲げられ、バリケードストライキを行います。民青であろうが、機動隊であろうが、全共闘は投石やゲバルト棒を用いて徹底抗戦します。また街頭での闘争も行われ、国際反戦デーに新宿で暴動を行った「新宿騒乱」、内閣総理大臣である佐藤栄作の訪米を阻止した「羽田事件」などを起こしました。そして、条約の自動継続を目の前にした1970年6月14日、国会議事堂前にて演説を含めた大きな闘争デモを行います。また、社会党共産党は全国規模で市民団体と共同し、デモを行いました。しかし、この全国的で大規模な民衆運動は叶わず、6月23日に条約は自動継続され、現在でも締結されたままでいます。

 

絶望的な失意に襲われた民衆は、目の前の生活を潤す経済成長の利益を手にして、反国感情は冷めていき、豊かな暮らしを追い求めていきます。一方で、蟠りの治らない極左思考の民衆は暴動をより過激化させ、警察署への火炎瓶投擲、機動隊への反戦を掲げた徹底抗争を続けました。その後、三島由紀夫が率いる「楯の会」によって引き起こされた憲法改正を求めるクーデター未遂「三島事件」、極左組織の内部ゲバルトによる暴虐事件「あさま山荘事件」などが起こり、民衆は日米安全保障条約の自動継続に受けた打撃に追い打たれるようにこれらの事件を受け止め、その行き過ぎた行動や思想に危機感を感じ、極左的組織への支持を薄めていきました。


高野悦子(1949-1969)は、まさに70年安保闘争の渦中に、その活動の参加、人生の意義、孤独と愛、自己発見に悩み、苦しみ、生きた人です。本作『二十歳の原点』は、一月の二十歳の誕生日から、亡くなる直前の六月までの彼女の手記をまとめたものです。将来に希望を抱き、胸を高鳴らせていた一人の少女は、学生運動に身を委ね、その思想と生活を変化させていきます。

大いなる「黒い怪物」こと、国家による抑圧は、圧倒的な力で学生を押し込めます。バリケードは破られ、男女関わらず全力の武力で尊厳を打ち砕きます。「沈黙は金」と何度も記述する彼女の感情からは、悔しさや虚しさの感情、そして諦めと不屈の揺れ動きが幾度も続けられたことが伝わってきます。学生生活、学生運動、アルバイト環境、仲間との交流、孤独な部屋、自分の行動を振り返るたびに、このままで良いのだろうか、なぜこのようなことをするのか、生きるとは何か、死ぬとは何か、異性とは何か、といった逡巡が延々と頭の中を掻き回します。そして、真の自由とは何か、支配から逃れる生き方とはどのようなものか、この考えに至ると、やがて「死」を求める自殺が頭を過ります。

何故私は自殺をしないのだろうか。権力と闘ったところで、しょせん空しい抵抗にすぎないのではないか。何故生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。どうして!生きることに何の価値があるというのだ。醜い、罪な恥ずべき動物たちが互いにうごめいているこの世界!何の未練があるというのだ。愛?愛なんて信じられぬ。男と女の肉体的結合の欲望をいかにもとりつくろった言葉にすぎぬ。しかし、私はやはり自殺をしないのだ。わからぬ。死ねぬのかもしれぬ。


彼女に「死の願望」を与えた孤独と虚無の精神は、なぜ闘うのかという自問に戻り、学生運動への参加にも悩みを抱き始めます。彼女は「死」に対する渇望を持っていました。国家の政策、姿勢、横暴、抑圧、それらを直接的に受ける彼女の精神は、反抗しようとする熱量以上に疲弊が勝り、活力を失っていきます。逃避的で厭世的な思考を抱きながら「死」を仰ぎますが、この世に対する未練とも言える、「死」よりも強い渇望の対象がありました。それは情熱的な愛情「エロス」の渇望でした。彼女は半ば強引に肉体を奪われ、そこから酒とタバコの生活へと逃れました。それでも「エロス」に対する憧れは強くあり、必ずあると希求する「幻想的な愛」を探し求めます。彼女の生活のなかでは、職場が一つの男女が交流する社会であり、その職場で知り合う男性へ「幻想的な愛」を重ね合わせます。しかしながら、幻想は幻想である、という現実を突き付けられるように、男性たちへ失望し、距離を置いて離れていきます。そして彼女が抱いていた「幻想的な愛」が打ち砕かれ、学生運動によって国家に武力による抑圧を受け、彼女を包む孤独と虚無が鉄道自殺という行動を与えてしまいました。彼女の手記の最後には、達観したような感情で、爽やかな虚空が覆い、ゆっくりと全てが沈んでいくような、ゆったりとした詩が締め括りとして書かれています。


戦後の独立回復と引き換えに日本が選んだ日米安全保障の体制は、他国からの侵攻こそ防ぐことができましたが、国内における民衆の蟠りを煽り、抗争を生み、死傷者を生み、絶望を与えました。争いを防ぐことは死者を生み出さないということと同義であるはずが、国内の死者を生み、米ソ冷戦の傀儡となって資本をアメリカに提供し続けるという矛盾は、皮肉という言葉だけでは収めることができません。過激な手法を称賛することはできませんが、当時の学生は国政を、将来を、或いは自己における矛盾や虚無を、苦しみながらもがき考える熱量と行動力を持っていました。現代において、これほどまでの政治に対する熱量を持ち、悩み苦しんでいる人がどれだけいて、政治の不正や過ちを糾弾し、社会を良くしようと考える人がどれほどいるのでしょうか。利益さえあればそれでよい、そのような資本主義社会に当たり前に慣れてしまっている現代人にこそ、本書が必要なのかもしれません。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『ジュリアス・シーザー』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

プルターク英雄伝を概ねの種本として描かれた本作『ジュリアス・シーザー』は、シェイクスピアにとって絶頂期に差し掛かろうとする成長著しい時期に執筆されました。『空騒ぎ』『十二夜』などの喜劇、『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』といった史劇を生み出していたなか、浮かび上がるこの悲劇は特徴的な立ち位置と言えます。喜劇でありながら強く浮かび上がった悲劇性を持つ『ヴェニスの商人』以来、シェイクスピアは悲劇の舞台を探し続けていました。彼はどこまでも歴史を遡り、古代ローマ史劇へと辿り着きます。公人たちによる政治と戦争が綴られた英雄伝の悲劇を、シェイクスピアの芸術性が取り込みます。

本作よりシェイクスピアの持つ作品の色調に変化が見え始めます。『ハムレット』と同様に、哲学的な苦悩に悩まされる登場人物が巻き起こす悲劇として、より深みのある、端的ではない作品となっていきます。ローマ史劇であるが為か、道化もなく笑いも無い、猥雑な台詞回しなどひとつもない非常に堅い印象の劇作です。だからこそ、重厚さや痛恨さが際立ち、ごく生真面目な悲劇たらしめていると言えます。そして、劇の内外での関心は公事(政治権力や名声)にあることが影響し、政治劇としての特性が前面に強調されています。

しかしながら、本作は劇的な色彩を帯びたドラマ性をもって描かれています。ここにシェイクスピアの天才性が含まれています。単純な史劇を描くだけではなく、登場する人物たちに「強く生々しい個性」を備えさせました。つまり公人を私人として描いたことで、生真面目でありながら情感豊かな政治劇が完成しました。


紀元前に栄えた共和制ローマの末期、ガリア地区征服の長い戦争を指揮し、領土拡大と平定に最も貢献した英雄ジュリアス・シーザーユリウス・カエサル)。彼はローマ内外を知力と武力によって支配し、民衆より絶大な支持を得て共和制から独裁制への変革を目指します。拡大されたローマの統治は、権力を集中した独裁制が最も効果的であると考えた為でした。これを危惧した共和制主義者たちは、シーザーの描く目論見を阻止しようと暗殺を企てます。英雄への妬みを持つ暗殺の発案者キャシアスは、シーザーが最も信頼を寄せている執政官ブルータスを、民衆の為であると言葉巧みに説き伏せて首謀者へと祭り上げました。占い師はシーザーへ「氣をつけるがよい、三月十五日を。」という予言をもとに注意を促しますが、英雄はそのような恐れを抱くものではないという態度で、貴重な進言を一蹴します。その後に家族の悪夢の話に耳を傾けて、やはり外出は控えようとしたシーザーでしたが、暗殺者の一味に迎えに来られ、議事堂へ向かうことになりました。思い悩んでいたブルータスも、この暗殺はローマの自由を取り戻す聖なる儀式だという、キャシアスの言葉に後押しされて決行に及びます。シーザーは、取り巻く多くの人間に、次から次へと剣で突き刺されます。謀反を理解した死の淵にあるシーザーが最後に見たひと突きはブルータスによるものでした。

今回の事態をローマの民衆へブルータスが説明する演説を行おうとしますが、シーザーの腹心であったアントニーは死を悼む演説を行いと願い出ます。暗殺の非難をしないことを条件にブルータスはこれを許可します。ブルータスの演説はローマの為の行いであることが強調され、正義と自由が守られたことを民衆は理解します。しかしながら、その直後に行われたアントニーの演説では、言葉の魔術とも言える韻律を帯びた詩的な哀惜の弁が、民衆へ実に醜い決行がなされたことを改めて理解させます。これにより怒りを覚えた民衆は暴動を起こし、暗殺の実行者らをローマから追い出しました。

暴徒から逃れたキャシアスとブルータスは、ローマでの実権を取り戻そうと、アントニーたちのもとへ攻め入ることを考えて準備を進めます。その際、ブルータスの野営の天幕にシーザーの亡霊が現れ、「フィリッピの野で會はう」と預言めいた言葉を残します。不吉な予感を覚えるキャシアスとブルータスは激しい口論を交わしますが、和解して励まし、アントニー軍との戦闘へ向かいます。フィリッピの野ではキャシアス軍が優勢に戦を進めていましたが、キャシアスは誤報により敗北と伝えられ、絶望に耐えきれず自害します。士気を失ったキャシアス軍は忽ち劣勢となり、ブルータス軍も敗北濃厚となりました。シーザーへの鎮魂の念を語りながら、ブルータスも死を選びます。その遺骸を前にアントニーはブルータスの公明正大な心を讃えて幕は下ります。


ブルータスとキャシアスの激しい口論では、私人としての表現が余す所なく描かれ、人間性や感情の揺れが強く伝えられています。ブルータスの高潔な自尊心に芽生え始める利己心は、あくまでローマの為であり、ローマの民衆の為に抱かれます。また、戦況により追い詰められるブルータスの感情は、シーザーの亡霊が発する言葉で煽られ、死への道へと只管に進まなければならなくなります。そして、ブルータスを破滅に導く、ブルータスの公明正大な性格が招いたアントニーへの寛大さと正義は、物語において最も強い皮肉として受け止められます。


善意の士は他者の善意を信じるという言葉のように、ブルータスの高潔さは、その思考と行動によって随所に認められます。

「お前もか、ブルータス? それなら死ね、シーザー!」

殺される瞬間にさえもシーザーに肯定させるほどのブルータスの高潔さは、いかにシーザーがブルータスに腹心を抱いていたかを表しています。私利私欲による狡猾や権力を求めないブルータスと、権力を手にしてそのような心が芽生えていくアントニーは、実に対比的に描かれています。二人の演説だけでなく、物語は終始一貫、交わることなくこの二人は歩み続けます。そして最後の一点で、アントニーの言葉が物語ります。

暗殺者どもは、この男のほかすべて、ただ大シーザーにたいする憎しみから事を起こしたに過ぎぬ。ただこの男だけだ、純粋な正義の精神にかられ、萬民の公益を願つて一味に加つたのは。その一生は和して従ひ、圓滿具足、中庸の人柄は、大自然もそのために立つて、今も憚ることなく全世界に誇示しうるものであらう、「これこそは人間だつた!」と。


前述したように、シェイクスピアはブルータスという人物の内に、後に続く悲劇時代に貫かれる核となる要素を凝縮しています。高潔な正義の心が根底にあり、土地や民衆、名声や立場を理解して、その為に血を流しながらも策謀を成し遂げるという「純真が故の苦悩の士」をアイロニックに描いています。四大悲劇を含めたこれからの悲劇群は、本作を発端として生み出されていったとも考えられます。

 

ジュリアス・シーザー』の中心的アイロニーは、ブルータスが私的には聖者のごときストイックで、公的には非道の暗殺者であるといふ悲劇的な兼ねあひのうちにある。

中村保男訳『ジュリアス・シーザー』批評集

批評家ロバート・シャープの語るように、ブルータスの懊悩は公人と私人の狭間に存在しています。史実だけを見れば権力を強奪した集団の筆頭という側面しか見えてきません。しかし、私人としての感情の揺れを深く描くことで、ブルータスという人間に「善意の士」としての存在感を植え付けます。それはシーザーの最期の言葉、アントニーの言う「公明正大の士」、これらを裏付ける性格を浮き上がらせてきます。だからこそ抱く懊悩は、ブルータスの最期の言葉でより強く印象付けられています。

シーザー、今こそ心を安んずるがいい。おれは、この胸を刺しはしなかつたぞ、今ほど明るい心をもつて。

シーザーへの憎悪など持たなかった暗殺首謀者は、自身の持つ正義感に自身の起こした行動を責め続けられていました。そして死をもって、ようやくブルータスの魂に真の平穏が訪れました。


本作では「皮肉」が随所に散りばめられています。なかでも見事なものは、シーザーが占い師の言葉と荒れ狂う嵐による不吉な予兆を見抜けなかったことに呼応する、キャシアスの受けた誤報です。優勢に戦を進めていたキャシアスが、自軍の誤った敗色濃厚という情報により、状況を確かめもせずに絶望感に包まれて自害します。この心理は、戦の前にキャシアスが感じ取った不吉な予兆を拭いきれなかったが為に、劣勢という情報を「予兆が的中した」という思考へ流された為だと言えます。予兆を払拭したシーザー、予兆を信じ込んだキャシアス、双方ともに破滅へ導かれるという不幸は、実にアイロニックです。


シェイクスピア作品のなかでも重く陰鬱な作品の印象ですが、そこに含まれる天才的な芸術性は読む者を強く引き込みます。実に有名な場面や台詞も、理解を深めると作品から受け取る印象も変わってきます。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『堕落論』坂口安吾 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい──誰もが無頼派と呼んで怪しまぬ安吾は、誰よりも冷徹に時代をねめつけ、誰よりも自由に歴史を嗤い、そして誰よりも言葉について文学について疑い続けた作家だった。どうしても書かねばならぬことを、ただその必要にのみ応じて書きつくすという強靱な意志の軌跡を、新たな視点と詳細な年譜によって辿る決定版評論集。

 

第二次世界大戦争後、日本には戦禍が広がり、民衆は衣食住もままならない世界を生きなければなりませんでした。天皇制により与えられた道徳、希望、観念は、敗戦という形で全てを否定され、生きるための心の道標を失い、空白の精神に追いやられました。戦時中の天皇の絶対性から押し付けられた、国のための犠牲としての美徳、それを支える貞節の死守、軍国主義に基づいた道徳の遵守など、我が身の上を二の次にした観念を植え付けられて、民衆は戦地へ繰り出していました。「死=義務」とも言える恐ろしい国の命令は、夥しい人数の犠牲を払います。工業技術の劣勢を人命兵器で対抗した日本でしたが、広島と長崎へ落とされた全てを消し去る凶悪な力に、ついに屈しました。

人間として生きるための道標は一瞬にして消え去り、そこには空虚な無の生活が現れます。見渡す限りの瓦礫の山、生存者たちの虚な表情、抱いていた観念は潰えて心身ともに呆けてしまいます。このような状況を見た、戦前より活動していた文学者たちは、各々に感じて芽生えた思想を基に執筆を始めます。特に活発に動きを見せたのは、太宰治織田作之助、そして本作の著者である坂口安吾(1906-1955)が括られる「無頼派」(新戯作派)と呼ばれる人々です。彼らは軍国主義に与えられた道徳や観念を否定して、民衆が抱いていた絶望感そのものもを不要なものであると説きました。その熱量は激しく、多くの作品を濫立させ、忽ち民衆が受け入れて流行作家としての立場を確立します。


安吾は小説、エッセイ、論評など、手法を様々に執筆し、通俗的な代表作家となりました。この成功は民衆への支持に反して、それまでの文芸性を劣化させるものとなります。彼は、その主題が原因でもありますが、感情を乗せた情景描写を無くし、心の内を吐露する表現を良しとしたところがあります。社会への目線、国への目線、他者との交流などを通した心象描写を消し去り、自己の内的な感情や意思を尊重します。これにより、それまでの文学に込められていた社会に向けた思想や哲学は薄れ、自己の感情を全面に出した「実質上の不幸」を主題としました。もちろん、端的な不幸語りではなく、読者が如何に戦争によって与えられた虚無から歩き出すことができるのか、ということを考えて込めたため、当時の民衆にとっては大きな支えとなりました。安吾は江戸時代の俗世間で受け入れられていた「洒落の込められた戯作」への回帰を望んでおり、それらを漢文学などを正統としていた日本の文芸思潮へ復古させようと試みていました。


これまでの写実描写は、美しくしようとする試みが見え、加工が芸術性を失わせていると説いています。安吾は言葉を純粋なもの、絶対なものとして捉え、作者が如何にその言葉を代用ではなく真のものとして使用するかということが、芸術に必要な精神であると解釈します。そして、空想と実際との差異は、感情描写ではなく相違である、その相違を受け入れてもなお、人間は肯定的に存在することができる、という考えが広がって彼の思考を深めていきます。

「不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっている」

このように述べる追求は、人間精神の生死へと突き進みます。それはまさに戦後直後の社会が民衆に与えた環境であり、「生のために必要なもの」という見つめるべき主題を見出します。そして「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」という人間の根源的認識が明確に生まれ、孤独による不安こそが生への活力へと繋がるという逆説を提示します。


本作『堕落論』は、安吾を戦後十年間の代表的作家として位置付ける決定的な作品となりました。戦後に空虚を抱かされた民衆が、生きるために何を心に持つべきか、否定されて失われた道標に代わって抱くべきことは何か、を強く書き綴っています。虚無と頽廃に包まれた民衆は、その日を生きるために真当とされていない行動によって心身の糧を得ていました。生き延びた兵士たちは闇屋(闇市などでの不正取引者)に堕ち、戦争で伴侶を失った未亡人は他の男へと堕ち、戦前の道徳が失われていました。しかし安吾は、この失われた道徳を与えたのは軍国主義であり、天皇制であり、人間本来の姿ではないと主張します。こういった「堕落」は、敗戦によるものではなく、人間であるからこそであり、生きることは堕ちることであると説いています。国や社会に与えられる道徳は国や社会を維持するためのものであり、それらを苦しみながら自己を殺して捧げることは人間として不要な行為であるという考えです。社会の犠牲になるのではなく、人間としての自己を守るために、自ら覚悟を持って堕落をすることが真に生きることであると結びます。こうした「堕落」は社会や国家、或いは家族に至るまで影響を及ぼして、時には背徳的な行動を起こします。突き詰めた人間としての存在は「孤独性」へと結び付き、「堕落」が齎す孤独による寂寥からの空虚さ、そして頽廃を見出させます。つまり「堕落」は「根源的な孤独」を突き詰める行為であると言え、安吾の作品にもその思想は多く散りばめられています。

 

言葉も叫びも呻きもなく、表情もなかった。伊沢の存在すらも意識してはいなかった。人間ならばかほどの孤独が有り得る筈はない。男と女とただ二人押入にいて、その一方の存在を忘れ果てるということが、人の場合に有り得べき筈はない。人は絶対の孤独というが他の存在を自覚してのみ絶対の孤独も有り得るので、かほどまで盲目的な、無自覚な、絶対の孤独が有り得ようか。それは芋虫の孤独であり、その絶対の孤独の相のあさましさ。心の影の片鱗もない苦悶の相の見るに堪えぬ醜悪さ。

『白痴』


安吾は冷たいほどの眼差しで「堕落による孤独」を推し進めますが、それは読者をただ突き放す訳ではなく、その孤独が何を齎すかを提示します。孤独の寂寥を望む者などいない、つまり、だからこそ、孤独を逃れようと、寂寥を払拭しようと踠く熱量こそが生命力となり、生きる活力へと転換されていくとする考えです。それは清濁併せ呑む、社会的道徳に反した生き方や行動であったとしても、自己が真から望む生きたいという欲に準えているのであれば、それこそが正であり生きる価値を確立させると訴えます。

 

私は野たれ死をするだろうと考える。まぬかれがたい宿命のように考える。私は戦災のあとの国民学校の避難所風景を考え、あんな風な汚ならしい赤鬼青鬼のゴチャゴチャしたなかで野たれ死ぬなら、あれが死に場所というのなら、私はあそこでいつか野たれ死をしてもいい。私がムシロにくるまって死にかけているとき青鬼赤鬼が夜這いにきて鬼にだかれて死ぬかも知れない。私はしかし、人の誰もいないところ、曠野、くらやみの焼跡みたいなところ、人ッ子一人いない深夜に細々と死ぬのだったら、いったいどうしたらいいだろうか、私はとてもその寂寥には堪えられないのだ。私は青鬼赤鬼とでも一緒にいたい、どんな時にでも鬼でも化け物でも男でさえあれば誰でも私は勢いっぱい媚びて、そして私は媚びながら死にたい。

『青鬼の褌を洗う女』


戦後直後の社会は空虚と頽廃に包まれていました。しかし、その空虚と頽廃を与えたものは戦争ではなく、既存の植え付けられた道徳や観念であり、それらを取り払われた社会で「堕落」することは正であり善である、と説かれた民衆は、大変に心を救われたことと考えられます。虚無の中から希望を生み出すことは困難ですが、虚無を受け入れて自己の真の欲を見出すことは、当時の民衆にとっては救いであったのではないでしょうか。現在でも心に訴えるのことの多い本作『堕落論』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『リチャード三世』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

あらゆる権謀術数を駆使して王位を狙う魔性の君主リチャード──薔薇戦争を背景に偽善と偽悪をこえた近代的悪人像を確立した史劇。

 

1339〜1453年まで続いたプランタジネット家(イギリス)とヴァロワ家(フランス)によるフランス王位をめぐる実質的な領地争い「百年戦争」。この両諸侯による長い争いは、両国において封建領主の没落をもたらし、結果的に王権が強化されることになりました。国王のもとで統一的な国家機構(絶対王政)を構築し、主権国家となって領地と国民が紐付けられました。ここから封建社会は衰退し、近代主権国家へと移行していきます。この「百年戦争」を終えたイギリスでは、英国王位をめぐる封建貴族同士の激しい争いが起こります。「赤薔薇」の家紋を持つランカスター家と、「白薔薇」の家紋を持つヨーク家によって争われた「薔薇戦争」です。


百年戦争の英雄「黒太子」ことエドワード三世皇太子の血脈にあるプランタジネット家は、百年戦争において対フランスの戦況が苦しくなるなか、農民による反乱(ワット・タイラーの乱)を受けると、より早く方針決議を行うために王の決定を優先しようと国の議会を無視して行動し始めます。このリチャード二世の振舞いを、議会に参加していた聖職者の権威、大貴族たちは不満として反旗を翻し、挙兵して内戦にまで至ります。すると、反乱を中心的に率いたランカスター家ヘンリーをリチャード二世は国外追放します。しかしヘンリーに同調していた大貴族たちはこれを助けて、イングランドへさらに攻め込み、リチャード二世をロンドン塔へと幽閉して、議会は王位を廃位とし、ランカスター朝のヘンリー四世として彼を即位しました。ランカスター家はその後も子孫が継ぎ、ヘンリー五世は百年戦争後半のアジャンクールの戦いで勝利するなど勢いそのままに繁栄を見せましたが、彼が病死すると王家の結束は緩み、さらにジャンヌ・ダルクの登場でイギリス側は劣勢となり、長い百年戦争は終わりを迎えます。

イギリス国内ではランカスター家への支持が衰退に合わせて、その「正統性」に疑問視を持たれます。ヘンリー四世は当時の王リチャード二世から王位を簒奪したのであり、王位に相応しくないという声が高まりました。当時のヘンリー六世はこれらの批判と百年戦争での疲弊で精神をきたし、我が子さえも認識できない状況に陥ります。ここにランカスター家と同等の正統性を持つヨーク家のリチャードが攻勢をかけました。数年間の戦いのうちでリチャードは戦死しますが、その子エドワードは大貴族ウォーリク伯の支援を受けて弔い合戦を果たし、他の貴族たちからも支持されてヨーク朝エドワード四世として即位しました。前王妃マーガレット(ヘンリー六世の妻)は立場を追われるとフランスへ渡りルイ十一世を頼ります。(百年戦争は国同士の争いではなく貴族諸侯による王権争いであったため関係が良好な英仏諸侯も存在していました。)支援を得たマーガレットは、エドワード四世と仲違いをしたウォーリク伯を味方に付けてイングランドに進軍しました。そして、エドワード四世を追いやり、ヘンリー六世を復位させることに成功しました。追撃を逃れたエドワード四世は、ルイ十一世と対立していたブルゴーニュ公を味方にし、イングランド内の大貴族と国民の支持を得て、再び攻勢をかけてヘンリー六世をロンドン塔へ幽閉します。これによりヨーク家が改めて王位を守り、勢力を維持することになりました。

エドワード四世が亡くなり、世継ぎの若き五世へと王位を継承すると、叔父である護国卿グロスター公リチャードが内紛を起こし、エドワード五世をロンドン塔へ幽閉すると、王位継承の可能性があるものを次々と殺害し、遂には王位までも簒奪してリチャード三世として君臨します。これに怒りを抱いた貴族諸侯はランカスター家の縁者であるテューダー家ヘンリーを支持し、暴君リチャード三世へと対抗します。ウェールズなどからも支援を受けたヘンリーは、ボズワースの戦いにてリチャード三世を撃ち破り、テューダー朝を開いてヘンリー七世として即位しました。その後、ヘンリー七世はヨーク家のエリザベスと正式に結ばれて、王権をめぐる血みどろの「薔薇戦争」は終わりを迎えました。


本作はこの暴君リチャード三世を中心に描いた作品です。シェイクスピアがごく初期に執筆した作品であり、初めて史劇に中心人物を据えた作品です。初期ということで後に得られる絶対的なエリザベス女王からの信頼は未だ得られていなかったため、血脈を良く描くためにヘンリー七世を天へと昇華し、対するリチャード三世を地獄へ貶めようとして描いたという意図が無かった訳ではありません。しかし、それ以上に本作『リチャード三世』には、深い文芸性が込められています。


醜い姿に醜い心、そして放つ悪意の辿る結果を嗅ぎ取る鋭い嗅覚を持つリチャード三世。彼は悪意の塊となり、自らに王権を握らせるため、手段を選ばず王位継承の可能性がある人物を排除していきます。時には甘言を弄し、時には容赦なく親族を斬り捨てる、目的遂行を一貫した悪の意志は自らをも演じるように立ち回り、他者を次々と屠っていきます。冒頭の彼の台詞はこれからの生き様を宣言しています。

日なたで自分の影法師にそつと眺め入り、そのぶざまな形を肴に、卽興の小唄でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして樂しむことも出來はせぬ、さうと決れば、道は一つ、思ひきり惡黨になつて見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪つてやる。


薔薇戦争、或いは百年戦争も含め、王権をめぐる争いは裏切りと逆襲と報復が繰り返されました。封建領主たちの身の翻し、優勢な側への掌返しは、この長い戦争で数多見られました。リチャード三世がこれらの出来事から「悪意が勝利をもたらす」という考えに至ったことは、目的と野心を合わせると至極当然な結果とも言えます。そしてそれらを淘汰するほどの徹底ぶりを目指した結果、彼は「絶対悪」が最も力を得られると結論付けたことにも納得できます。そして彼に迷いが無いことも、彼の台詞から見てとることができます。

絶望だ。身方はは一人もゐない。おれが死んでも、誰も、涙一つこぼしはしない。ゐるわけがない。おれ自身、自分に愛想をつかしてゐるのに、誰が涙を?

自分だけは運命の手から逃れ、自分の運命さえも自由にできると思っていた彼が、最後に訪れる自己の運命的な破滅に襲われる様は、実に悲劇的な皮肉に満ちています。


また、本作『リチャード三世』は、四大悲劇『マクベス』と対照的な側面を持っています。共に王位簒奪の野心を描いたものですが、マクベスは占い師の妖婆に運命を植え付けられ、マクベス夫人に甘さと優しさを追いやられ、心底では望んでいない手法で王位を手にします。マクベス自身、与えられた運命に翻弄され、傀儡のように意志が存在しないなか、手に血を染める様は、悲痛な心情さえ吐露しています。それに対してリチャード三世は、前述のように「自身が王位を望み、自身をより高みへと導きたいという欲」を持ち、王位簒奪を確固たる悪意と貫く意志を持って遂行します。決定的に違う根源は、マクベスは「運命を求めていた」ことであり、リチャード三世は「運命を作り上げようとした」ことである、と言えます。


リチャード三世の言動からは、真の意味での利己主義性は感じられにくいと言えます。王権を握った後も彼は彼自身の強欲を抑えられません。原動力となっている「絶対悪」のエネルギーは身中に溢れ続け、悪意を吐き出さなければ収まりがつかないという精神さえ見えてきます。彼は具体的な欲望を満たしたいという考えよりも、野生的に溢れる悪意を満たすことが目的となっていきます。これは彼の冒頭の宣言にある覚悟の代物であると言え、貫き続けて生きることを体現した結果であるとも考えられます。しかし、自分の野心からの欲望である王権を握ると、途端に言動が変化します。今まで目的のために自身さえも演者となり、策に弄した演劇性を見せていた狡猾さは消え、直接的な欲望を臣下へ指示し始めます。ここにこそ、野生的に溢れる悪意を抑えきれなくなっている描写として感じられます。


2012年にリチャード三世の遺骨が発掘されました。史実だけでなく、シェイクスピアをはじめとする作家による彼の描写は強欲な暴君として描かれることが多いです。リチャード三世教会(The Richard Ⅲ Society)では、薔薇戦争終結により王権を握ったテューダー朝によるプロパガンダで悪辣な印象を与えられたのではないか、と考えて研究が続けられています。彼の真の性格や言動を追求することは非常に困難ではありますが、貫く強い意志を持っていたことは史実からも浮かび上がってくるように思えます。非常に読みやすく楽しみやすい本作『リチャード三世』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『間違いの喜劇』(間違いつづき)ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

本作『間違いの喜劇』(間違いつづき)はシェイクスピア作品の中でも初期に執筆された喜劇で、最も短い作品として知られています。古代ローマの喜劇作家プラウトゥスの「メナエクムス兄弟』という双子の人違いが引き起こす作品を種本として書かれ、これに双子をもう一組増やしてスラップスティックな印象を強めています。また中心となる双子アンティフォラス兄弟の父イージオン、修道女院院主エミリアのドラマ性を追加して、単純な笑劇に終わらせない喜劇を作り上げています。また、フランス古典劇で厳格に守られる「三一致の法則」が用いられ、舞台はエフェサスから動かず、時間は一日のあいだで語られ、双子の家族探しという主筋のみで構成されています。この効果により、劇中の慌ただしさやおかしみが凝縮され、観る者の興味を惹きつけ続けます。そして、この法則が用いられるシェイクスピア作品は、本作と『あらし』(テンペスト)のみとなっており、最初期と晩年の対照としても捉えることができます。


シラキュースの商人イージオンには双子の息子アンティフォラス兄弟がありました。また同日に生まれた貧しき生まれの双子ドローミオ兄弟を引き取り、それぞれを双子の息子の召使いへと育てます。しかし船旅の最中に嵐が起き、イージオンと妻は二手に別れ、子と召使いも二手に分け、荒波から逃れるために違う道へと進みました。イージオンに連れられてシラキュースに戻ってきたアンティフォラス弟は兄に会いたいという思いからドローミオ弟を連れて旅に出ます。しかし、一向に戻ってこない息子と召使いを案じてイージオンは後を追います。敵国エフェサスへと足を踏み入れるとイージオンは捕まり、死刑を言い渡されます。経緯を話して公爵ソライナスへ許しを乞うと、同情は得られましたが規則を破るわけにはいかないとして、一日だけ身代金を集める時間を与えられます。偶然にもこのエフェサスの地にアンティフォラス兄とドローミオ兄が成功を手にして住んでおり、家庭も抱えて裕福な暮らしをしていました。この運命の巡り合わせは、激しい双子の人違いを次々と生んで、物語は混乱に混乱を重ねていきます。


舞台となるエフェサスは、聖書において魔術師や詐欺師が横行する土地として記されています。住民たちが人違いによって翻弄される場面は、混乱による戸惑いだけではなく、金銭の授受を反故にするための狂言ではないかという疑心を抱く者や、不義を隠そうとする言い逃れではないかと疑う妻など、土地柄ならではの性質が浮き彫りにされ、勘違いはより一層の深みに入っていきます。

ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちのなかにも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。

新約聖書(19-13〜16)


本作を特徴的に表現している要素の一つに、「狂った」(crazy)という語が三十回以上も使用されているという点が挙げられます。劇中の慌ただしさと混乱を「狂った」という言葉の繰り返しによって、ますますの空気の狂騒性を生み、舞台に立つアンティフォラス兄弟が人違いをされて受ける不気味な感覚を煽っています。誰もが自分のことを知っていながら、誰もが自分のことを変だと決めつける不快感は、やがて自我さえも疑いたくなるような奇妙な感覚へと押しやられます。魔術師に不思議な世界へと投げ込まれたような環境は、アンティフォラス兄弟のそれぞれのアイデンティティ(自己確認)さえも疑わざるを得ない状況にあり、自己と信じていたものさえ不明瞭になっていきます。アイデンティティとは「他者による自己確認でもある」という側面が、観る者の思考に植え付けられます。


この混乱劇のなかで、特に笑劇的役割を果たす人物がドローミオ兄弟です。彼らには道化的な言動が屢々見られ、アンティフォラス兄弟が他者との食い違いによって不穏な空気が漂い始めると、決まって狙い定めたようにいずれかのドローミオが登場して場を和らげてくれます。この効果は諷刺即興演劇コンメディア・デッラルテ(伊:Commedia dell'arte)におけるストック・キャラクター(類型的登場人物)のアルレッキーノ(伊:arlecchino)という道化役のように、「登場するときっと笑いが起こる」という印象を与えます。シェイクスピアが生み出した「もう一組の双子」は、後の作品では必須となる「道化の存在」の先駆けとも言え、時には笑いを提供し、時には観客の目線で言葉を投げ掛ける、劇の重要な進行役となって強い存在感を示しています。


これほど賑やかで笑劇的要素が多い作品ではありますが、冒頭のイージオンに対する死刑宣告による暗い影は終始付き纏い続け、観る者に安心を与えません。悲劇の過去を語るイージオンの切実な言葉は、公爵ソライナスと観客(読者)の胸に語りかけ、劇中も頭の隅に存在しています。これと題名『The Comedy of Errors』から導かれる「喜劇的収束」の予感を持ちながら観劇することになります。そして出会って周囲の誤解が解けて晴れてめでたし、というだけでなく、修道女院院主エミリアの秘められた過去が交わり、笑劇から喜劇へと昇華されます。つまり、冒頭のイージオンの過去と死刑判決からなる「悲劇」性、劇中の「笑劇」性、終幕の「喜劇」性という流れは、シェイクスピア晩年に見られる「ロマンス劇」の構成で成っており、本作を劇作家初期にすでに執筆していた点が実に見事であると言えます。そして、笑劇を盛り上げるドローミオ兄弟の存在と、終幕の劇的な再会と家族の愛は脳の隅に漂い続けたもどかしさを一掃して、爽やかで暖かな感動を喜劇として提示します。

 

どんなにきれいに象嵌された宝石も、使われるうちにその美しさは台なしになる。でもその台の金はいくらふれても金のまま、その美しさを禁じることはできない。人間も同じこと、虚偽と腐敗に表面はいくらおかされてもその真の価値をおもてだって傷つけることはできない、私のおもてにあらわれた美しさがあの人の目を喜ばせないなら、涙で洗われた美しい心を抱いて泣きながら死んでいきましょう。


アイデンティティは他者により認められるもの、たとえそうであったとしても自分がどのようにあろうとするか、そしてどのようにあるために行動を起こすか、或いはどのような信念を持ち続けるか。自分を信じ、自分の行動を信じることは困難なことではあります。しかし、そのように生きる人物たちをシェイクスピアは喜劇へと導きました。自身の考えや行動を省みる良い機会となる本作『間違いの喜劇』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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