RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『間違いの喜劇』(間違いつづき)ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

本作『間違いの喜劇』(間違いつづき)はシェイクスピア作品の中でも初期に執筆された喜劇で、最も短い作品として知られています。古代ローマの喜劇作家プラウトゥスの「メナエクムス兄弟』という双子の人違いが引き起こす作品を種本として書かれ、これに双子をもう一組増やしてスラップスティックな印象を強めています。また中心となる双子アンティフォラス兄弟の父イージオン、修道女院院主エミリアのドラマ性を追加して、単純な笑劇に終わらせない喜劇を作り上げています。また、フランス古典劇で厳格に守られる「三一致の法則」が用いられ、舞台はエフェサスから動かず、時間は一日のあいだで語られ、双子の家族探しという主筋のみで構成されています。この効果により、劇中の慌ただしさやおかしみが凝縮され、観る者の興味を惹きつけ続けます。そして、この法則が用いられるシェイクスピア作品は、本作と『あらし』(テンペスト)のみとなっており、最初期と晩年の対照としても捉えることができます。


シラキュースの商人イージオンには双子の息子アンティフォラス兄弟がありました。また同日に生まれた貧しき生まれの双子ドローミオ兄弟を引き取り、それぞれを双子の息子の召使いへと育てます。しかし船旅の最中に嵐が起き、イージオンと妻は二手に別れ、子と召使いも二手に分け、荒波から逃れるために違う道へと進みました。イージオンに連れられてシラキュースに戻ってきたアンティフォラス弟は兄に会いたいという思いからドローミオ弟を連れて旅に出ます。しかし、一向に戻ってこない息子と召使いを案じてイージオンは後を追います。敵国エフェサスへと足を踏み入れるとイージオンは捕まり、死刑を言い渡されます。経緯を話して公爵ソライナスへ許しを乞うと、同情は得られましたが規則を破るわけにはいかないとして、一日だけ身代金を集める時間を与えられます。偶然にもこのエフェサスの地にアンティフォラス兄とドローミオ兄が成功を手にして住んでおり、家庭も抱えて裕福な暮らしをしていました。この運命の巡り合わせは、激しい双子の人違いを次々と生んで、物語は混乱に混乱を重ねていきます。


舞台となるエフェサスは、聖書において魔術師や詐欺師が横行する土地として記されています。住民たちが人違いによって翻弄される場面は、混乱による戸惑いだけではなく、金銭の授受を反故にするための狂言ではないかという疑心を抱く者や、不義を隠そうとする言い逃れではないかと疑う妻など、土地柄ならではの性質が浮き彫りにされ、勘違いはより一層の深みに入っていきます。

ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちのなかにも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。

新約聖書(19-13〜16)


本作を特徴的に表現している要素の一つに、「狂った」(crazy)という語が三十回以上も使用されているという点が挙げられます。劇中の慌ただしさと混乱を「狂った」という言葉の繰り返しによって、ますますの空気の狂騒性を生み、舞台に立つアンティフォラス兄弟が人違いをされて受ける不気味な感覚を煽っています。誰もが自分のことを知っていながら、誰もが自分のことを変だと決めつける不快感は、やがて自我さえも疑いたくなるような奇妙な感覚へと押しやられます。魔術師に不思議な世界へと投げ込まれたような環境は、アンティフォラス兄弟のそれぞれのアイデンティティ(自己確認)さえも疑わざるを得ない状況にあり、自己と信じていたものさえ不明瞭になっていきます。アイデンティティとは「他者による自己確認でもある」という側面が、観る者の思考に植え付けられます。


この混乱劇のなかで、特に笑劇的役割を果たす人物がドローミオ兄弟です。彼らには道化的な言動が屢々見られ、アンティフォラス兄弟が他者との食い違いによって不穏な空気が漂い始めると、決まって狙い定めたようにいずれかのドローミオが登場して場を和らげてくれます。この効果は諷刺即興演劇コンメディア・デッラルテ(伊:Commedia dell'arte)におけるストック・キャラクター(類型的登場人物)のアルレッキーノ(伊:arlecchino)という道化役のように、「登場するときっと笑いが起こる」という印象を与えます。シェイクスピアが生み出した「もう一組の双子」は、後の作品では必須となる「道化の存在」の先駆けとも言え、時には笑いを提供し、時には観客の目線で言葉を投げ掛ける、劇の重要な進行役となって強い存在感を示しています。


これほど賑やかで笑劇的要素が多い作品ではありますが、冒頭のイージオンに対する死刑宣告による暗い影は終始付き纏い続け、観る者に安心を与えません。悲劇の過去を語るイージオンの切実な言葉は、公爵ソライナスと観客(読者)の胸に語りかけ、劇中も頭の隅に存在しています。これと題名『The Comedy of Errors』から導かれる「喜劇的収束」の予感を持ちながら観劇することになります。そして出会って周囲の誤解が解けて晴れてめでたし、というだけでなく、修道女院院主エミリアの秘められた過去が交わり、笑劇から喜劇へと昇華されます。つまり、冒頭のイージオンの過去と死刑判決からなる「悲劇」性、劇中の「笑劇」性、終幕の「喜劇」性という流れは、シェイクスピア晩年に見られる「ロマンス劇」の構成で成っており、本作を劇作家初期にすでに執筆していた点が実に見事であると言えます。そして、笑劇を盛り上げるドローミオ兄弟の存在と、終幕の劇的な再会と家族の愛は脳の隅に漂い続けたもどかしさを一掃して、爽やかで暖かな感動を喜劇として提示します。

 

どんなにきれいに象嵌された宝石も、使われるうちにその美しさは台なしになる。でもその台の金はいくらふれても金のまま、その美しさを禁じることはできない。人間も同じこと、虚偽と腐敗に表面はいくらおかされてもその真の価値をおもてだって傷つけることはできない、私のおもてにあらわれた美しさがあの人の目を喜ばせないなら、涙で洗われた美しい心を抱いて泣きながら死んでいきましょう。


アイデンティティは他者により認められるもの、たとえそうであったとしても自分がどのようにあろうとするか、そしてどのようにあるために行動を起こすか、或いはどのような信念を持ち続けるか。自分を信じ、自分の行動を信じることは困難なことではあります。しかし、そのように生きる人物たちをシェイクスピアは喜劇へと導きました。自身の考えや行動を省みる良い機会となる本作『間違いの喜劇』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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