こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
演劇企画制作会社NODA・MAPの創立者にして、演出・劇作家、そして俳優として活躍する野田秀樹。なかでも、海外公演をバンコク・ロンドン・ソウルで展開し、各地の俳優とそれぞれの文化を融合させてグローバルな活躍を続ける代表作『赤鬼』です。
これは「フカのヒレのスープを呑んだから死んだ」女の話です。田舎の港町で村八分にされている「あの女」とその白痴の兄「とんび」、あの女に気を寄せる大嘘つきの「水銀」、この三人の前に現れる「赤鬼」によって繰り広げられる物語です。
赤鬼は風体も異形で、未知の言葉を話します。身振り手振りを交えコミュニケーションを図り、徐々に意思疎通ができ始めます。しかし、他の村人には恐れられ、畏怖されます。そして四人は逃れる為、大海に出るのでした。
この物語で描かれている「コミュニケーションの困難さ」は、実社会に置くとたちまち「差別意識」へと変化します。理解できないものへの恐怖は怒りへと変わり、排除しようと試みます。理解できないものへの理解しようとする努力は、理論上、理屈上のみにしか存在せず、心を恐怖が先に占領します。差別を受ける側が求める理解しようとする努力は、接している目の前にはすでに存在せず、ただ排除の攻撃を受けるばかりとなります。
劇中の赤鬼の台詞は最初は読者にもわかりませんが、徐々に聞き取ることができ始め、それが英語であることに気付きます。
「I have a dream. Let freedom ring.」
アメリカにおけるアフリカ系黒人への差別を撤廃させようと活動し、公民権法を連邦議会で通過させた尽力者の代表であり、ノーベル平和賞を受賞したキング牧師の言葉です。彼の台詞を赤鬼が話すという意味の持つ直接さが、キング牧師が暗殺された事実と、赤鬼の最後とを重ねさせ、水銀の行動を悪いように想像させられてしまいます。
しかし水銀が異常な感性の持ち主という印象はなく、それは世間全般において、ある種の当たり前のように存在している潜在的な意識であると言えます。同様に村人たちの赤鬼・あの女への差別意識も現代の様々な社会で見られる行動と見られます。
物語中盤まで赤鬼の台詞を理解できない表現は、読者および観客は重要視せずに読み進めることができます。しかしこれは、読者および観客の誰もが「赤鬼の訴えを心から理解しようと努めていない」からこそであり、そしてメタ視点側の我々自身を直接的に「差別者である」と突っついてきます。
この『赤鬼』はバンコク・ロンドン・ソウルで公演されています。現地の役者と共に、現地の文化に合わせた形態で各ヴァージョンを作り上げ、公演しています。赤鬼役は野田秀樹自身が演じます。演じる場所により、役者の立場が変わり、観客の反応が変わり、文化の反応が変わる。これはインタビューでの言葉です。
少しずつ混ざるというかたちでの文化交流があってもいいと思う。交流じゃなくて混流。
中心人物である4人は、社会から排斥されたもの同士として交流しはじめます。そして最も理解しようとするあの女の尽力により、徐々に意識が交わり混流しだします。しかし皮肉な最後による不幸は、生命の継続さえも拒否してしまう絶望に満たされてしまいます。そして皮肉な不幸は社会のどこにも存在していると、読者や観客は感じさせられ、身の回りを考えさせられます。
社会において自然に存在している差別意識の危険さや、恐怖からくる怒りの発散は、集団で冷酷な行動を伴うだけではなく、自身の立つ立場によって表情を変えてしまうという恐ろしさも備えています。
自分の中の意識を見直す良いきっかけになる作品です。
未読の方はぜひ。
では。