こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
十六世紀後半、カトリック国のフランスではルターの思想を契機に勢いづいた新教派(カルヴァン派)が、フランスの商工業者層を中心に活動を強めて勢力を拡大していました。国教に背く行為であるとして、フランスは新教派に対して厳しい弾圧を与えましたが、商工業者たちが繋がっている各貴族たちをも取り込み、王権の強化に対する反発と相まって、カトリック(旧教派)との激しい対立の構図が生まれます。カトリックは新教徒を「ユグノー(乞食者)」と蔑み、反対にカルヴァン派はカトリック教徒を「パピスト(教皇の犬)」と読んで、対立は一触即発の緊張感を帯びていました。そのようななか、フランスは王権強化を成し得るため、1562年に新教派の支持を得ようと「新教徒の信仰自由」を発布しました。これに激怒したカトリックの貴族は私軍を挙げて礼拝中の新教徒74人を虐殺しました。この事件によって張り詰めていた両派の緊張が一気に解け、激しい宗教戦争「ユグノー戦争」が勃発します。
フランス宮廷で実権を握っていた国王の母である摂政カトリーヌ=ド・メディシスは、自身の娘マルグリット(マルゴ)とブルボン家アンリ(新教派)の政略結婚による両派の融和を図ります。アンリはヴァロワ家の血縁にあるナヴァール王でしたが、これを受けてフランスでブルボン朝を創始します。しかし、ユグノー戦争の最中でこの婚姻は穏やかには進まず、二人の結婚式では大きな事件が起こります。新教徒のなかで融和を受け入れようとする者たちは、パリでの婚礼式典に向かいました。そこを、新教徒の国王を認めないカトリック教徒が暴動により多くを殺害しました。1572年に起こったこの事件を、サン・バルテルミの虐殺と呼びます。アンリは幸いにも難を逃れましたが、宮廷に閉じ込められて強制的にカトリックへと改宗させられました。それでも自由は与えられず、業を煮やしたアンリは強引に幽閉されていた宮廷から脱出して新教派を連れ、カトリックの軍勢と争いを継続しました。フランス国内の情勢は非常に荒れたものとなり、商工業界隈から始まったブルジョワたちの教派分裂は、国を動かす政治家や大貴族にまで及び、もはや国政もままならない状況にまで陥っていました。その乱れを突いてスペインが国政に介入してきたことで、アンリは王権制を正すべく、この両派の争いを収めるために正式にカトリックへと改宗します。これにより国家に反発していたカトリック教徒たちは争いを止め、両派一体となってスペインを打ち破り、アンリはカトリックからも国王として認められました。これに対して一部の新教徒たちは「裏切り」であるとして抗戦の構えを崩さず、カトリックに抵抗を続けていました。アンリは、国教がカトリックとはなったものの、新教派の活動を認めるという「ナントの王令」を出し、活動を制限しながらも信仰の自由と政治的な平等の立場を確保し、新教派たちの怒りを鎮めて長く続いたユグノー戦争を終わらせました。
このアンリ四世は、好色で名を馳せていました。愛人を多く作り、妻マルグリットとの生活はいかにも政略結婚といった内容で、二人の間に子供もいませんでした。一方のマルグリットも、外に情夫を持つような生活で、結婚生活は荒んだものへとなっていきます。アンリは別にガブリエルという想い人がおり、彼女と結婚するためにマルグリットと離婚をしようと企みます。しかしながら、カトリックへと改宗したアンリが離婚をするためには「ローマ教皇にこの結婚が過ちであったと特別に認めてもらう」必要がありました。その企みを知ったマルグリットは、自身のプライドから離婚は絶対に認めないという姿勢を保ち、教皇へ先に根回しをして離婚を認めないように進めます。問題が拗れていくうちにガブリエルが病死し、アンリは離婚を進める表向きの理由が無くなりました。なんとしても離婚をしようと考えたアンリは、トスカーナ大公の姪マリー=ド=メディシスに目を付けて、大公に対して求婚の意を伝えます。フランス国王との縁戚という魅力と、ローマ教皇へ働き掛けやすいという環境から、アンリの思惑は身を結んで、マリーとの結婚が成立しました。
本作『恋の骨折り損』は、国王アンリと王女マルグリットが、離婚の和解交渉のために顔を合わせる場面が財源に使われています。この話し合いは祝祭の合間に行われましたが、マルグリットの要求をまともに聞き入れず、事前に伝えた和解の誓いさえも破り、碌に交渉を進めなかったアンリに批判が向けられ、新旧両派の争いが再燃する寸前にまで及んだと言います。しかし、本作ではシェイクスピアの特異な連想と想像から「滑稽な喜劇」へと変化させられています。アンリが奔放で好色であったという特徴点を存分に押し広げて、ナヴァール国王ファーディナンド(アンリに該当)という登場人物を作り上げました。
ナヴァール王と付き従う三人の貴族は、欲を捨てて学問に専念するという誓いを立てます。三年間のあいだは「女に会うべからず」「一週間に一日は食を断つ」「夜の睡眠は三時間を越えるべからず」といった、守ることが非常に困難な内容でした。デュメーン、ロンガヴィル、ビローンの三人は不安や不満をそれぞれ抱きながら、誓いに基づいた生活を送る必要に迫られます。しかしながら、フランス王女が領土問題に関して話し合いに訪問することを失念していた王は、立てた誓いをすぐさま反故にしなければならない事態に陥ります。会わないわけにはいかない立場である以上、ビローンは会うことを屁理屈によって正当化し、誓いをまるで破らないかのように納得して、王と三人の貴族は城外で、王女と三人の侍女と対面することにしました。すると四人の男は、四人の女と想いが重なることなくそれぞれに一目で恋に落ちます。
自分が恋に溺れるなど想像もしていなかったビローンは、戸惑いながら自分の思いを否定しようとし、そしてそれは叶わず憂鬱に陥りながら物思いに耽ります。恋に煩わされながら庭園を歩いていたビローンは、王が気付かずに近付いてきたため、咄嗟に木に隠れます。すると王は自分の恋の詩を語りながら、恋に落ちた心の独白を始めました。次にロンガヴィルが気付かずに近付いてきたため、王は咄嗟に物陰に隠れます。ロンガヴィルは誓約を破って恋に落ちたことを後悔しながらも、恋の詩を語りながら心の独白を始めます。するとデュメーンが気付かずに近付いてきたため、ロンガヴィルは咄嗟に物陰に隠れます。デュメーンは恋に溺れる思いを吐露しながら、恋の詩を語り始めました。ロンガヴィルは影から姿を現してデュメーンを責めようとしますが、すぐさま王が飛び出して追い打つように二人を責め始めます。するとビローンは悠々と登場し、三人を饒舌に責め立てました。そこにビローンが恋文を届けるように伝えていたコスタードが舞い戻り、ビローンもまた恋に落ちていることが暴かれてしまいます。
男性四人全員が恋に落ちた状況から、この立てた誓いそのものが無理なものであったと王も認めざるを得なくなり、仲違いを止めにして、全員が恋の成就を目指そうと協力する姿勢に変わります。しかし、王女に仕える貴族に企みを嗅ぎつけられ、惚れられた側の王女と侍女たちは徹底的に揶揄おうとまともに相手をしません。仮面仮装や余興劇をもって気を惹こうと試みますが、すべて相手にされず、全員の恋心を否定されてしまいます。そのような場面に使者が王女を訪れ、父親が亡くなったことを告げます。急ぎ帰国しようとする王女たちに対して恋を伝えようとする王たちは、これから先の一年間、本当に先の誓約に述べたような生活を過ごすことができるならは、そのときは受諾しましょうという提案を受けて幕となります。
本作では、誓いを立てたにもかかわらず、男性というのは実に恋に負けてしまうという点を、滑稽な描写に乗せて作中を貫いています。
その必要ってやつのおかげで、三年間に三千回、われわれはみんな誓約を破らねばなりますまい。
第一幕第一場
ビローンが予め予想を立てていたように、恋に一撃で敗れた男性たちは、自分の愚かさを認めることができないばかりか、公然と誓約を破ったことをも認められないといった身勝手な感情から、自分たちを正当化しようとする屁理屈を捻出します。このような行為こそ嘲笑されるべき点ではありますが、こともあろうか読者(観客)に対しては、あれだけ恋を断とうとしていたにも関わらず恋の詩を高らかに謳いあげるという姿も見せられるという恥まで晒してしまいます。そして結局、誓約を破るといった行為が人間としての信用を無くし、その恋を成就させることができないという点は、まさに自業自得と言うべき結果として示されています。
アンリの好色と誓約破りを見事に紡いだ作品ではありますが、他のシェイクスピア作品と比べると、物語の起伏は弱く単調に感じ、登場人物の個性もかろうじてビローンが「らしさ」を持ってはいますが、劇全体で見たときにどうしても魅力が薄く感じてしまいます。実際に、上演史を見ても1640年ごろから約200年間ものあいだは、本作を演じられた形跡がありません。
1665年のペストによる「ロンドンの大疫病」は広く知られていますが、この年に極端に蔓延したということで一つの事件とされているだけで、ペスト自体は1330年ごろから何度も蔓延しており、時代や時期によって被害の度合いが変わっていました。1600年ごろにもやはりペストの流行はあり、ロンドンの政治家や貴族たちは郊外の邸宅へと逃れていました。公設の劇場が蔓延防止策として閉鎖され、劇団員たちは仕事を賄うために貴族たちの私的公演に駆り出されました。本作は、そのような「貴族を相手に作られた演劇」と目されており、韻律の異常な多さや、貴族趣味(滑稽さを帯びた喜劇)を中心に描かれているのは、これが理由であると考えられます。広義のルネサンス的な作品としての位置付けであるため、一般の観客には理解の及ばないことも多く、そのため後年であまり上演されなかったのだと推測できます。
観客である貴族たちは労働から解放された優雅な暮らしから、サロンや舞踏会での「会話的活動」が中心となっていました。その話題にあがるのが「政治」「経済」「芸術」が中心となっており、自然とそれらに精通するようになります。つまり、本作が「貴族の私的公演を目的」として描かれているならば、本作の背景である「アンリ四世」「王妃マルグリット」「ユグノー戦争」「フランス政治へのスペインの介入」「改宗騒動」「離婚騒動」などへの理解の深い観客を相手に創作しなければなりませんでした。そして貴族趣味の言葉遊びや韻律の多さも詰め込んで、一つの演劇へと昇華させたシェイクスピアの手腕は、やはり天才性を帯びていると言わざるを得ません。さらに、本作はシェイクスピアの喜劇作品でありながら、最後に婚姻による大団円を「迎えない」という特異さを持っています。これには、アンリのカトリック改宗という騒動によって、イギリスの反仏感情が関係しています。新教派(プロテスタント)が国教であるイギリスにとって、カトリックへと改宗したアンリには否定的な感情が政治的にも世間的にも広がっていました。イギリスの貴族たちは特に敏感に反応し、サロンなどでも散々に蔑んだと言われています。仮に、本作がシェイクスピアの喜劇作品として婚姻による大団円を迎えるならば、カトリックへ改宗したアンリを救い出すような筋書きとなってしまうため、イギリス貴族を相手とした作品には不適切であると考え、アンリに幸福が訪れない筋書きこそが「観客にとっての喜劇」であるという考えを、シェイクスピアは抱いて終幕を書き上げたのだと考えられます。本作は、シェイクスピアが筋書きを中心に熱を入れたと言うよりは、劇の構成や展開に趣向を凝らしている作品であると言え、背景や情景を把握しながら読む(観る)と、印象が大きく変わります。
われわれの結婚申し込みは昔の芝居のようには終わらない、ジャックとジルが結ばれて大団円というぐあいにはな。ご婦人がたがやさしければこの芝居も喜劇になったのにな。
第五幕第二場
他のシェイクスピア作品に比べると冗長に感じる場面は多くありますが、アンリ、マルグリット、ユグノー戦争、改宗騒動などを理解したうえで読むと、スペインへの揶揄や宗教の信仰問題、そして学問への諷刺が散りばめられているという気付きがあり、各所で楽しみが得られる作品となっています。『恋の骨折り損』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。