こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
三十九歳のA・J・フィクリーは、妊娠中の愛妻を交通事故で亡くし、絶望の淵から逃れられないままでいます。彼の営むアリス島唯一の書店「アイランド・ブックス」は観光シーズンの夏場に多少の売上が見込めるばかりで、さほど繁盛はしていません。それでも彼は余生を憂うことなく、ある意味で気ままな運営を行っています。彼の手にはエドガー・アラン・ポオの稀覯本がありました。これを手放すことで大金を得て、余生を過ごそうと考えていました。しかし、ある夜に酔い潰れた彼は、この大切な本を盗まれてしまいます。ひと月の捜索でも何の成果もあがらず、彼は持病の精神病を加速させました。その後日の閉店作業中、彼は驚くべきものを店内で発見します。マヤと名乗る僅か二歳の少女が、母親の書き置きとともに店に残されていました。A・Jは自分に懐くマヤに困惑しながらも、そこに失った我が子を重ねたためか、愛しさが強く湧き起こります。福祉施設へ移そうと考えましたが、この子の将来を考え、何の経験もないまま育児の道へと進んでいきます。
本作では、読書への愛と家族の愛が並走して進められていきます。A・Jは、学生時代にポオを研究していたこともあり、「文学」に関して並々ならぬ拘りを持っています。しかし、この拘りは非常に偏っています。ポストモダン、最終戦争後の世界、死者の独白、マジック・リアリズム、ヤング・アダルト、ゴーストライター、セレブの写真集、スポーツ回想録、ヴァンパイア、などなど、これら全てを好まず(価値ある本として認めない)、そして長篇よりも短篇を好むというもので、そこには自分の趣味嗜好を芸術的に肯定しようという意識さえ感じられます。しかしながら、これも歴とした読書への愛であり、その熱量は読んでいても心地が良いほどです。各章の冒頭にはA・Jがマヤへ向けた作品紹介が添えられており、ここでも彼の作品への愛が感じられます。
そのような全ての愛情を本へと注いでいるような彼も、マヤとともにする生活によって、頑なな考え方も和らいでいきます。失った家族への愛は、やがて自分の新たな家族へと向けられ、その湧き上がる愛がA・J自身をも変えていきます。そして愛すべき家族と「共感」という繋がりを「書籍」という媒介によって持ち、深い愛に包まれた「新たな家族」が構築されます。本へと向けた強い愛情は、その熱量を保ったまま家族へと向かい、彼の人間としての人生を大変豊かなものへと変化させました。
絵画、彫刻、建築、音楽、舞踏、文学、これら芸術は何世紀も前から人間が生み出し、引き継がれてきました。ハイデッガーの語るように、芸術には「真理」が込められています。その真理を発見した芸術家は「詩性」をもって芸術作品へと「樹立」させます。芸術性は実用性ではありません。言い換えれば、芸術作品とそれに該当しない作品は「創作の目的」が違います。鍬や鋤などは、田畑を耕すことを目的として生み出され、実用性に富んでいます。しかし、そこには真理は込められず詩性はありません。新たに建てられた高層マンションは、免震性などが優れており、快適な住居環境を与えてくれます。最先端のデザインが活かされていたとしても、そこに信仰や哲学が込められているわけではなく、やはり詩性はありません。我々の生活は多くの発明により、実用性に溢れた豊かさで覆われています。その実用性には「娯楽」も多く提供されています。観光地や映画、遊園地などのエンターテイメントは毎日のように新しいものが生み出され、人々の生活に潤いを与えてくれています。しかしながら、このような娯楽が与える感動を「詩性と混同」することで、芸術との境界が「曖昧」に認識されていることも事実です。
A・Jは確かに偏屈で一方的な認識ではありますが、このような「娯楽と芸術との誤認」に憤りを感じています。特に文学に関してですが、大衆小説と文芸(芸術における文学)を明確に切り分けようとしています。実際、娯楽を目的とした大衆小説は、その娯楽性を創作の目的としており、真理を詩性で樹立させているわけではないため、起伏の激しい物語が描かれているだけで、受け手の感情を「揺さぶろう」として描かれています。しかし文芸においては、作家が詩性をもって真理を映し出しているため、受け手の感情は湧き上がるように感情を「揺さぶられ」ます。同じ書籍という媒体であるため、実際に読まなければ理解できないということもあり、このような識別の混同は致し方ないとも言えますが、A・Jは読むことによる理解の放棄を好ましく思いません。とは言え、彼もプルーストの『失われた時を求めて』を僅か一巻で挫折しているという側面もあり、自身の感性で強引に結論づけようとしている姿勢も見られます。
そのような性格のA・Jでしたが、マヤの存在と彼らを取り巻く人々との関わりによって意識が変化していきます。愛妻を亡くした悲しみは、マヤの育児による忙しなさと育まれていく互いの愛情によって、ゆっくりと温かいもので癒されていきます。他者を寄せ付けないほどの偏屈さは緩和し、友人たちの歩み寄りに応えていくようになりました。文学に関する認識も、たとえ大衆小説であろうと、その人にとっては大切なものと成り得ることを理解し、自分もまた、好まない作風も読んでみて印象を変えるということを体験します。本とは「文芸」というものが全てではなく、人によってはその人生と経験から「救済」となる作品は様々であることを受け入れました。
日本では、娯楽的な大衆小説が盛んですが、これらを辿ると戦後に行き当たります。敗戦後の日本は「大日本帝国」という絶対的な価値観が崩壊し、瓦礫と焼け野原のなかで茫然と立ち尽くす国民で溢れました。戦時中に与えられた「死は義務である」という恐ろしい犠牲の美徳や、軍国主義に基づく道徳感といった、天皇を絶対的な存在として崇める価値観は、「敗戦」という事実によって雲散霧消します。太宰治、織田作之助、坂口安吾などの「無頼派」(新戯作派)と呼ばれる作家たちは、虚無に立ち尽くす人々へ向けてひとつの文学運動を試みました。叙情的な描写を控え、心の声を直截的に文章へ込め、崩壊した社会を個人としてどのように生きていくかという姿勢を提示した作品を多く発表します。既存の文学に込められていた思想や哲学といった要素は薄れ、人間の内的感情を前面に押し出しました。これによる読み手の共感は、「苦しんでいるのは自分だけではない」という救済として受け止められ、当時の絶望を経験した人々は、今一度という一心で立ち上がることができました。
絶対的に信じる存在を亡くした絶望感は、人間の虚無と孤独を与えます。A・Jもまた、自らがマヤという存在に救済されたように、あらゆる作品によってあらゆる人々が救済されたということを理解したのだと言えます。そして、その真理は彼が愛妻ニックと共に「アイランド・ブックス」を開店させたときに、既に店先の看板に掲げられていました。
アリス島唯一の優れた文学書籍販売元
人間は孤島にあらず。書物は各々一つの世界なり
芸術は何世紀ものあいだ、戦争や破壊を乗り越えて現代まで受け継がれてきました。そこに込められた「真理」は代え難いものであり、意思を受け継いでいく必要があると思います。しかしながら、そのような芸術に該当しない作品も、人々の救いになるのではないかと考えさせられる作品でした。
自分たちに魅力がないから孤立するという事実は、秘めたる恐怖である。しかし孤立するのは、自分たちには魅力がないと思いこんでいるからである。いつか、それがいつとはわからぬが、あなたは道路を車で走っているだろう。そしていつか、それがいつかはわからぬが、彼、あるいはきっと彼女が、その道のどこかに立っているだろう。そしてあなたは愛されるはずだ、なぜなら、生まれてはじめて、あなたはもうひとりぼっちではないのだから。あなたは、ひとりぼっちではない道を選ぶことになったのだから
今後も新たな作品と出会い、読書の時間を大切にしていきたいと思います。ガブリエル・ゼヴィン『書店主フィクリーのものがたり』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。