RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』U・エーコ & J=C・カリエール 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回は対談本です。

 

フランスの劇作家・脚本家であるジャン=クロード・カリエールと、イタリアの記号論大学教授でありベストセラー作家であるウンベルト・エーコが、「紙の書物」に関して存分に語り合います。時に熱く、時に物悲しく、趣味嗜好を曝け出します。

紙の本は、電子書籍に駆逐されてしまうのか?書物の歴史が直面している大きな転機について、博覧強記の老練愛書家が縦横無尽に語り合う。
この対談は、「グーテンベルクの銀河系」と呼ばれる書物の宇宙への温かい賛辞であり、本を読み、愛玩するすべての人を魅了するでしょう。すでに電子書籍を愛用している人だって、本書を読んで紙の本が恋しくならないともかぎりません。

帯より

四万冊の蔵書を持つカリエール、五万冊の蔵書を持つエーコ。二人の偏執的とも言える「紙の書物」へ向けた愛情を互いに披露し、語り合います。この二人をフランスのジャーナリストであるジャン=フィリップ・ド・トナックがコーディネートします。対談はカリエール、エーコの互いの自宅にて行われました。

 

ジャン=クロード・カリエールは、シュルレアリスム映画監督のルイス・ブニュエルの脚本家として活躍し、また偉大な演劇家ピーター・ブルックと30年以上を共にし、台本を書き上げてきたフランスを代表する著作家です。
ウンベルト・エーコは、ボローニャ大学の教授で「記号論」の教鞭をとる傍ら、作家としても活躍し、初の小説『薔薇の名前』が世界的ベストセラーとなり、その後文芸評論などでも名を知られるようになります。

 

事前に述べておくべきこと

本書に関するレビューの中で、かなり否定的な内容が散見されます。「書名」と「帯の煽り」が、本書の内容と相違があるというものです。
実は、本書が世に出た2010年は、Apple社のiPad発表を皮切りに各社が電子書籍サービスを発表し、「電子書籍元年」と世を賑わせて関心を高めていた時代です。この関心を煽るため「阪急コミュニケーションズ」(現CCCメディアハウス)が「書名までも大胆に意訳して」本書を出版しました。その為、「紙の書籍vs電子書籍」のような討論を期待した方々の落胆は激しく、厳しいレビューが書評サイトに乱立してしまっているのが現状です。また上記の「帯文」による煽りからも大きな誤解を招いたのも事実です。

 

原題(仏語)
N'espérez pas vous debarrasser des livres
『書物が無くなるなんて思わないでほしい』

訳題(英語)
This is Not the End of the Book
『書物が無くなるなんてことはない』

 

どちらもかなり邦題とはかけ離れていますね。商業要素が含まれていると考えられても致し方ありません。しかし、本書は「紙の書物への愛」が溢れており、カリエール、エーコ、トナックの語りに「紙の書物が好きな方」ほど、のめり込んでしまいます。

 

「媒体」と「言語」という捉え方

「書物」は完成された「媒体」である、とエーコは唱えます。

物としての本のバリエーションは、機能の点でも、構造の点でも、五百年前となんら変わっていません。本は、スプーンやハンマー、鋏と同じようなものです。一度発明したら、それ以上うまく作りようがない。

スイスのダボスにて、2008年に行われた世界経済フォーラムで未来学者が述べた「向こう15年で起こる現象」の一つが「書物の消滅」だという発表を、カリエールが話題にしました。それにエーコが答えたものですが、完成された媒体が「なにかしらで代用されることはない」と言い放っています。それはもちろん無根拠ではなく、「媒体としての優位性」が備わっているからだと言います。インターネットであればインターネット環境とコンピュータと電源、全てが揃ってはじめて使用できますが、本は開くだけで読むことができます。

また、経年劣化に関しても触れています。

トルストイはもちろん、それ以外の本も、パルプに印刷された本はすべて、じきに読めなくなります。理由は単純で、今書架にあるパルプの本はすでに変質しはじめているからです。

この経年劣化においてエーコは「愛着」という感情で、引き続き紙の書物を肯定し続けます。

 

1911年にフランスのリッチョット・カニュードという執筆家は、『第7芸術宣言』という作品を発表しました。これは映画の特徴である「映像効果」「光学効果」がそれまで存在していた芸術(時間芸術「音楽」「詩」「舞踊」、空間芸術「建築」「彫刻」「絵画」)を総合するものであり、7番目の芸術であると宣言しました。

カリエールは、書物も映画も言語であると言います。

あなたと私が生まれた二十世紀は、新しい「言語」を数々発明した史上最初の世紀です。もしこの対談が、百二十年早く行われていたら、対談の材料になったのは、せいぜい演劇と書物でしょう。

映画は芸術性も高く、小説家にとって魅力的で、小説を書いていれば映画脚本の仕事も自然に入ってくるという考えを否定しています。実際にはまったく別の「言語」であり、必要とする技術は違うものであると。

 

断片的な情報過多による無知

文化や芸術は「過去」に影響を受け、反発あるいは同調し、新しい作品が生み出されてきました。「書物」も同じであると彼らは言います。

最近のアンケートで、映画史上最も優れた映画監督はクエンティン・タランティーノ、という結果が出ていたことがあります。アンケートに回答した人々は、エイゼンシュテインも、フォードも、ウェルズも、カブラも観たことがないに違いありません。

先日、感想を書いた『エウロペアナ』の時にも触れましたが、インターネットに散らばっている情報は「断片的な過去」で、それらが繋がっていない、つまり歴史が存在していないという表現をしました。カリエールの持論は未来まで包含します。

人間が忘れっぽいとすれば、それはまぎれもなく、直近の過去が現在を圧迫し、押しやり、突き飛ばし、そしてその先には、未来が大きな疑問符の姿をして立ちはだかっているからです。

エーコもこれに応えます。

自転車に乗れるようになるために、人生の貴重な幾月かを割きましたね。そうして身につけたものは永遠に有効でした。

コンピュータ、インターネット、そして電子書籍、増え続ける文化的発明は流動的で変わりやすく、そして常に次にやってくる発明を学び、過去の身に着けた技法を使い捨てていると感じさせられます。

 

書物が大衆へ与える影響

手書き写本から小型本印刷への技術進歩は、大衆の文化を大きく変えます。そしてこの進歩が大きく手助けをしたのが「宗教改革」でした。大型の手書き経典を布教に用いようとも非効率であり、大衆の誰もが携帯できるようなものではありませんでした。そして費用も莫大にかかります。これが小型になり、携帯できる経典が出回ると忽ち改革に繋がります。

しかし信仰が進むと書物を燃やす「焚書」が行われます。これを「フィルタリング」と彼らは表現しています。国や統率者、または宗派や教祖の思いのままに「都合の悪い書物」を焼き払ってしまいます。これは絵画でも数多く行われてきました。大衆へ与えるプロパガンダとしてイデオロギーの徹底に「書物」を使用されたのです。

 

我々が受け取る「紙の書物」

幸い、未来学者の予言した「書物の消滅」はやってきていません。書店に行けば書物を購入することができます。焚書、禁書を免れたさまざまな作品群から手に取った一冊をどのような思いで読むことができるでしょうか。カリエールの熱弁が繰り広げられます。

大事なのは、何が何でも映画を観るとか読むとか、そういうことではなく、観て読んでどうするか、そして観たもの読んだものからいかに滋養があって腹持ちのよい糧を引き出すかということなんです。速読の愛好家たちが書物を本当に味わって読んでいると思いますか。バルザックの長い長い描写をはしょってしまったら、バルザックらしい深みの本質はそれこそ失われてしまうんじゃないでしょうか。

すべての書物には時代によって、あるいは触れた文化によって、多くの読者から「解釈」がつけられていきます。この「解釈」が古典的な厚み、作品自体の豊かさを膨らませ、後世の読者に与える感動は、執筆当事に作者が描いた以上の何倍もの大きさで訪れます。書かれた時代背景や政治背景、宗教や文化が、多くの解釈を生み、現在の読者の価値観と合わさり、一人一人の大きな感動がその一冊に印象として、新たな解釈として残っていきます。

 

書物の「魂」と「肉体」

訳者の工藤妙子さんはカリエールとエーコの話から、「書物の魂」という表現をしています。パルプ紙に書かれた書物は朽ちていく「書物の肉体」であり、寿命がある。新版を買えば事足りる作品もあるが、自分がその書物と出会い、手に触れ、または線を入れ、部屋の匂いが染み付いた「唯一の肉体に宿った魂」は買い換えて満足できるものでもありません。

電子書籍のリーダー端末は「何千という書物の魂の共同住宅」である。この言葉には背筋がぞくぞくしました。書物を読むという行為は、確かに「視覚」を主に用います。しかし、「魂」と「肉体」、これらを感じながら読むという行為には他の感覚神経も使用し、だからこそ「魂が記憶として残り」続けるのだと感じます。端末で読むとき、どの魂も同じ触覚、同じ嗅覚であれば、記憶として残る肉体を持たない魂は、紙の書物が与える記憶と異なる印象が残るように思います。

 

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エーコは2016年2月19日にイタリアのミラノで、カリエールは2021年2月8日にフランスのパリで、それぞれ亡くなりました。本書の最終章で「死んだあと蔵書をどうするか」というテーマの語らいがあります。今読むと当時と違った印象を抱かされます。

 

個人的には、カリエールがサドの『閨房哲学』の初版本を盗まれた話で、語り口調が怒りながらも盗ってしまう気持ちがわからなくもないというニュアンスで話すシーンが、人柄がよく出ていて面白かったです。

今読んでも充分に楽しむことができる本書、未読の方はぜひ。

では。

 

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