RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『アルケミスト』パウロ・コエーリョ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出た。そこに、彼を待つ宝物が隠されているという夢を信じて。長い時間を共に過ごした羊たちを売り、アフリカの砂漠を越えて少年はピラミッドを目指す。「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」「前兆に従うこと」少年は錬金術師の導きと旅のさまざまな出会いと別れのなかで、人生の知恵を学んで行く。


二十世紀初頭のブラジルではサトウキビ、コーヒーを中心とした農業大国でした。しかし、その恩恵は国内全土には広まらず、商業や工業に携わる民衆は貧困に苦しんでいました。民衆間の格差は対立へと変化して、政権対立にまで及びます。1930年にジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは労働者の保護と資源の国有化を掲げて大統領選に臨みますが、敢えなく敗北します。ところが、彼は当時の政治腐敗と選挙不正を指摘して軍事クーデターを起こして政権を奪取します。独裁的中央集権の政府でしたが、国民を保護するという公約に民衆の支持を得ていました。第二次世界大戦争時には連合国側に参加してアメリカとの関係性を深めます。このポピュリズム改革は好調に見えましたが、1954年にヴァルガスが任期中に自殺して政権の流れは変わります。

その後に就任したジュセリーノ・クビチェック大統領は、諸外国からの資本を導入し、工業を発展させて活発な農業との経済格差を埋めようと推進します。その象徴として1960年に近代主義の建築家ルシオ・コスタを中心に新たな首都ブラジリアを構築しました。国会議事堂、最高裁判所、各国の大使館が立ち並ぶと早々に遷都します。首都として機能を果たすこと自体にはあまり混乱はありませんでしたが、建設や移転費用による巨額の財政負担が残ったため、ブラジル内に超インフレーションを起こしてしまいます。クビチェック大統領が1961年に任期を終えると、ジャニオ・クアドロスが大統領に就任します。インフレを抑えるため財政の収縮を図り、資本の委譲で関係が密になり過ぎたアメリカと距離を開こうと試みます。共産主義陣営を中心として、ソビエト連邦、中国、ルーマニア東ドイツなどと関係を深めていきます。そして1959年のアメリカ支配から解放を目的としたフィデル・カストロ指揮の社会主義武力革命である「キューバ革命」以来、孤立していたキューバに近づきます。しかしクアドロスは突如、志半ばで大統領を辞任します。


クアドロス任期中の副大統領であったジョアン・ゴラールが大統領に任命されます。ヴァルガス政権下で労働大臣を務めていた彼は労働的共産主義思考を持っていたため、変革を望む民衆に支持を受ける傍ら、軍部側からは快く思われていませんでした。この軋轢はブラジル共産党内でも分裂を起こして、ソビエト連邦をモデルとした「労働者国家」を目指すブラジル共産党「PCB」(Brazilian Communist Party)、プロレタリア国際主義による「社会主義革命」を目指すブラジルの共産党「PCdoB」(Communist Party of Brazil)とに分かれます。同じ共産主義を目指していながらゴラールの支持が統一されないなかでは、進める政策も円滑に進めることができず、次第に派閥間の諍いが強まっていきます。結果的に経済成長は外資流入に頼らざるを得ず、彼が掲げた農地改革および社会改革は上手く進めることができませんでした。そしてインフレは一向に改善せず、民衆の支持に反して財政難は酷くなる一方でした。このような流れのなか、軍部側のカステロ・ブランコ将軍は国民投票で敗することを予測して、1964年の選挙前にアメリカを背後に付けて軍事クーデターを起こします。ここに軍事独裁政権が成り立ち、更なる親米政治が始まります。ゴラールは武力抗争を好まぬ形でウルグアイに亡命し、前政権側も目立った抵抗は見せませんでした。しかし、強制的に政権交代させられた党員たちは徐々に体勢を立て直してPCdoBとして武装し、ゲリラ活動を進めていきます。軍事独裁による弾圧はPCdoBだけでなく、民主主義者、ブルジョワジーにまで及び、合法的な抵抗ができなくなっていきます。野党たちは社会主義者や民主主義者である労働者たちを引き連れて、それぞれの武装ゲリラを組織して独裁に牙を剥きます。しかし、1968年に制定された軍事独裁に都合の良い強化された弾圧法によって、殆どの組織は軍事制裁を受けて消滅してしまいました。それでも一握りの対抗ゲリラは一矢報いようと、裏で軍事政権を支援するアメリカの大使を拉致して拘束された主要な野党政治家たちの解放を要求します。この事件は独裁政権を酷く刺激して、全ての反乱因子を淘汰すべく徹底抗戦の意識を呼び起こします。そして国民の人権を奪うかのように、国家安全政策の重要な要素として拷問を制度化し、国家破壊活動分子として少しでも疑わしいものに対して広く行われました。このような、思想を持って生きることが死を意味するという絶望的な独裁政権は約二十年間続きました。ブラジル内の長い武装弾圧は、隣国のアルゼンチンが1982年のフォークランド戦争(対イギリス)に敗れたことで、外交関係の緩和と軍部の闘争意識が下火になったことから弱まり、遂には1985年に政権は民主化しました。


クビチェック大統領時代の都市開発は、国内文化の発展を伴い、数多くの芸術家たちを輩出しました。サンバから派生した新感覚ボサノヴァの発起人アントニオ・カルロス・ジョビン、フランス映画改革ヌーヴェルヴァーグやイタリア映画新写実主義ネオレアリズモに影響を受けて起こったシネマ・ヌーヴォ運動を牽引したネルソン・ペレイラ・ドス・サントスグラウベル・ローシャなど。また文学においては、元共産党員でプロレタリア作家のジョルジェ・アマード、ブラジル版『ユリシーズ』と謳われる『大いなる奥地』の著者で多言語を扱う外交官でもあるジョアン・ギマランエス=ローザなどが活躍しました。経済低迷期であったが故に、なおさら芸術家たちの熱量が上昇し、民衆へ強く受け入れられたとも言えます。


リオ・デ・ジャネイロに住む敬虔なカトリック信者夫婦の元に生まれたパウロ・コエーリョ(1947-)は、イエズス会学校へと進みます。親の期待に応えようと勉学に勤しみ、好成績を収めていました。この幸せな中産階級の家庭を一つの意志が軋轢を生んでいきます。十八歳のときにコエーリョは「芸術家」になりたいという自身の夢を家族へ打ち明けます。当時の軍事独裁政権時代には、「芸術家」というものに反社会的あるいは反道徳的な意味合いが込められていました。独裁政権は前ゴラール政権を支持する共産主義者への弾圧から派生して、左派的思想者、左派的芸術家、同性愛者、麻薬中毒者なども一絡げにして、精神異常者と見做して厳しい取り締まりを行います。コエーリョの両親は独裁政権と同様の捉え方で我が子を見て、コエーリョの精神が異常を来したと考えて精神病院へ入院させました。厳しい環境ではありませんでしたが、自身は正常であるという苦悩から病院を脱走して家へと辿り着きます。しかし、暫くすると同じように芸術家への道へ進もうとする考えが両親に伝わり、再び精神病院へと入れられてしまいます。このときに別の患者と交わした会話で、自分の置かれた奇妙な状況を改めて考え、人生の方向性を定め始めます。当時のブラジルでは精神病院へ厄介になった者は「社会不適合者」というレッテルを貼られたのと同義でした。これは、もはや失うものは何もないという思いに変わり、自分の本当にしたいことをしようという意思を固めます。再度の脱走から帰宅すると、両親の異変に気付きます。精神病院へ入れることを半ば諦めていたようでした。彼は入院と脱走のサイクルで手に入れた自由を取り戻すため、狂人を装うものの精神科医師は詐病と判断して入院させませんでした。そうであればと、コエーリョは固まりつつあった芸術家への道を志すため、知識人たちや仲良くしていた劇団員たちと親交を深める目的でバーへ赴き、そこで夜通し過ごします。こうして得た知見や思考を記事として出版社に送り始めたことが芸術家作家としての始まりでした。しかし独裁政権は弾圧の徹底をますます烈しくして、コエーリョの接していた劇団は解体され、バーではスパイが蔓延り摘発を繰り返していました。


固まり始めた将来の行先は再び暗くなり、何の社会経験も学歴も無い青年は立ち尽くします。そして泡沫の自由を求めるため、再び狂人を装うものの、二度と精神病院へ帰ることはできませんでした。心身ともに何もかもを失った彼は、南アメリカから北アフリカ、そしてヨーロッパ諸国をヒッピーとして旅をします。そこで見出したものは「芸術家としての運命」でした。全てを捨てても残るものを理解した今、彼はブラジルへと帰国します。帰国後、彼は諸外国により受けた感銘を言葉に変え、音楽に乗せる作詞家として活動を始めます。幸いにも、国内で最高の歌姫エリス・レジーナ、ブラジリアンロックの父ラウル・セイシャスなどの成功に肖り、一定の人気を確立することができました。しかし、成功によって目立った彼は独裁政権に目を付けられ、歌詞が左翼的であるという理由で三度も投獄されました。前述のように、合法化された拷問はコエーリョも取り調べと称して厳しく与えられます。このときに受けた人権侵害は制裁の目的に反して、彼を作家として目覚めさせる切っ掛けとなりました。彼は執筆を熱心に行って徐々に作品を世に出していきます。1980年にエコアートの先駆者クリスティーナ・オイチシカと結婚します。精神に落ち着きを取り戻し始めると、今一度、自身の心を見つめ直すため、1986年にサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼(聖ヤコブに至る巡礼の道)に旅立ちます。そこで現れた運命の前兆、心との対話、人生の肯定が『星の巡礼』という自伝的著作を生み出しました。

そこで私は「芸術家」という運命、私の場合は作家であるという運命から逃れられないことに気が付きました。三十八歳のときに私は最初の本を書き、意識しないままに恐れていた戦い、つまり夢をめぐる戦いへと挑戦することにしました。

パウロ・コエーリョ ブログ記事より


軍事独裁が終わり民主主義となった社会で、彼の作品は次第に受け入れられ始めました。しかし執筆活動は順調なものではなく、すぐに行き詰まりを見せます。書くべきもの、書くべきことが彼の内に溢れていながら、書く意欲が湧かないという精神状態にありました。そこで「今日、白い羽を見たら書こう」という決め事を自身の中に植え付けました。すると街を歩く中で見かけたショーウィンドウの中に、白い羽を見つけます。「これは運命の前兆だ」と解釈して、気持ちを整えて一気に書き上げたものが本作『アルケミスト』です。


作品に込められたコエーリョの精神的支柱が、寓話を通じて直裁的に伝えられています。夢よりも強い確信を「運命」と捉えて、気持ちを揺らしながら一つの意志を貫いていきます。迷うたびに、崩れるたびに、主人公は「心と会話」をします。そしてそれは、強い意志で願えば夢は叶う、などという単純明快なものではありません。何が正しいのか、自分はどうしたいのか、困難は災難を回避するための試練として受け止め、心の底の底にある「真の望み」を目の前に引き出して、意志を貫き通すことが人生の使命であり、魂が導く成すべきことであるとの理解が実現への道だと訴えます。

愛とは、大いなる魂を変え、より良いものにする力なのです。僕がはじめて大いなる魂と触れ合った時、僕は大いなる魂は完全だと思っていました。しかし、その後、大いなる魂もまた、他の創造物と同じであり、情熱も持っていれば争いもするということがわかりました。大いなる魂を育てるのは、私たちなのです。そして、私たちが良くなるか悪くなるかによって、私たちの住む世界は良くも悪くもなります。そして、そこで愛の力が役に立つのです。なぜなら、私たちは愛する時、もっと良くなろうと必ず努力するからです


作中では「大いなる魂」という表現で全能なる神的存在が描かれています。生きるなかで出逢う運命の前兆は、魂の囁きであると言えます。前兆を心の底の底で「真の望み」が感じ取り、震えながら自身の心の表面へと浮かび上がり、心が声高に訴えます。心との会話によって引き出す「真の望み」を自分が理解できるとき、前兆から大いなる魂に触れることができます。その前兆を貫く意志で信じ、意思を持って歩み始めることが運命を掴む一歩となるということを、寓話を通じて語られています。そしてこの思想は、人間として奇異な経験を多く積んだコエーリョが語ることで、想像を超える説得力を持って、一つの作品として仕上げられています。

私は一つの出版社に出会うと、『星の巡礼』へと導かれます。その作品は、私を『アルケミスト』へと導き、それは私を多くの読者に導き、作品は多くの翻訳へと繋がり、世界中での講演や会議の参加に繋がりました。私はずっと夢を先延ばしにしていましたが、最早そのようにはできません。宇宙はいつでも「自分が望むもののために戦う者」を見守っているということに気が付いたからです。

パウロ・コエーリョ ブログ記事より


込められた思いはとても力強く、圧倒される勢いで描かれていますが、寓話として仕上げられているため非常に読みやすく、理解もしやすい作品だと思います。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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