RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『青い鳥』モーリス・メーテルリンク 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

クリスマスイヴ、貧しい木こりの子チルチルとミチルの部屋に醜い年寄の妖女が訪れた。「これからわたしの欲しい青い鳥を探しに行ってもらうよ」ダイヤモンドのついた魔法の帽子をもらった二人は、光や犬や猫やパンや砂糖や火や水たちとにぎやかで不思議な旅に出る。<思い出の国><幸福の花園><未来の王国>──本当の青い鳥は一体どこに?世界中の人々に親しまれた不滅の夢幻童話劇。

 


モーリス・メーテルリンク(1862-1949)は、ベルギーのガン(ヘント)でワロン・フラマン人(フランス語を話すゲルマン民族)のカトリック家庭に生まれました。母親は裕福な家柄で、父親は公証人を務めるという上流階級で不自由なく育てられます。家業を継ぐためにガン大学で法学を学ぶ傍ら、勉学の合間に元来関心の強かった執筆を行い、詩や小説を書き上げていました。大学を卒業すると、同年のグレゴワール・ル・ロワ(後のベルギー象徴主義詩人)とともに父親を説得して、表向きはフランス法を勉強するという名目でパリへ向かい、数ヶ月を過ごします。この期間(1885-1886)は、パリの文壇を中心に象徴主義運動が活性化していました。二人はその運動に参加し、作家たちとの交友に力を注ぎ、人脈を構築するとともに、その思想に感化されていきます。シュルレアリスム詩人の先駆者サン=ポル=ルー、詩的リズムの開拓者ステファヌ・マラルメ、清貧高潔の魂で描くヴィリエ・ド・リラダンなどと交際し、自らの詩性をより具体的なものへと成長させていきました。そのような心情で帰国し、弁護士となった四年間は、当然の如く良い結果を生むことはありませんでした。代わりに(むしろ力を入れていた)同時に進めていた執筆活動はフランス文壇に認められ始めていきます。


メーテルリンクは短篇小説、詩集、翻訳、戯曲など、さまざまな手法で執筆していましたが、自費で上演した戯曲『マレーヌ姫』を切っ掛けにして、彼の作家人生は大きく変化していきます。この戯曲台本をマラルメに渡すと激しく絶賛し、過激な芸術擁護者と知られる劇作家オクターヴ・ミルボーにその気持ちを共有します。ミルボーもまた強く感銘を受け、熱狂的な賞賛の言葉を『ル・フィガロ』の誌面に綴りました。こうして世間的に受け入れられたメーテルリンクは作家として成功を収めていきます。


文学における象徴主義運動は、1857年にシャルル・ボードレールによって発表された『悪の華』によって花開きました。自然主義が不自然で教訓めいた作品を押し付けるように感じた他の作家も同調し、この自然主義への反動という形で象徴主義運動は隆盛し、多方面の芸術へと影響を与えます。詩においてはアルチュール・ランボオポール・ヴェルレーヌなどが続き、音楽ではリヒャルト・ワーグナークロード・ドビュッシーといった作曲家が象徴主義の美学を昇華させました。また絵画では、「オフィーリア」などで知られるジョン・エヴァレット・ミレイ、「受胎告知」などでファム・ファタルを描いたダンテ・ガブリエル・ロセッティといったラファエル前派と呼ばれる画家たちが賛同していました。それまで各芸術が縛り付けられていた「こうあらなければならない」という定義を破壊した象徴主義運動は、堰を切ったように各方面に広がり、多くの芸術家たちを目覚めさせました。

 

芸術作品は第1に観念的であるべきである。そのただ1つの理想は観念の表現であるから。第2に象徴的であるべきである。その観念に形を与えて表現するのだから。第3に総合的であるべきである。諸々の形態や記号を総体的に理解される形で描くのであるから。第4に主観的であるべきである。事物は事物としてではなく主体によって感受される記号として考えられるのであるから。第5に装飾的であるべきである。

アルベール・オーリエ「象徴主義芸術の定義」


芸術家が訴えたい「芸術観念」を、受け手の「観念」に直接感受させる表現が象徴主義の目指すところであり、必要な定義です。この技法を(作中において)視覚的に映し出し、且つ、児童に向けた戯曲「児童劇」として作り上げたものがメーテルリンクの代表作『青い鳥』(L'Oiseau bleu)です。


本作は「夢幻劇」と言える、兄のチルチルと妹のミチルが青い鳥を求める夢の旅を描いた寓話です。「光」に導かれて、彼らは多くの「精」と出会います。光、夜、時、植物、動物、霊、幸福、不幸など、さまざまなものが精となって、チルチルとミチルに語りかけます。死者が生き続ける記憶の地、眠りと死が共存する夜の宮殿、植物や動物が話しかける暗い森、そして胎児の魂が人間としての生活に入るのを待つ光の国といった地を巡り、多くの精と出会い、対話をして、人間としての大切な考えを二人は幾つも学びます。そして夢の旅が終わり現実へ戻ると「幸福」とは何かを理解します。


メーテルリンクは宿敵との戦い、情熱的な闘争、復讐を果たす物語といった劇的な表現から離れた、或る種の悲劇的な作品を作り上げています。彼は、劇的に取り上げられない、日常に存在するであろう「観念」を具現化するように試みています。「生きるという単純な事実の中の驚くべきこと」を示し、真実や美を大きな問題として対話する「普通の人間」を描こうとしました。そのため、作中では「精の具現化」だけではなく、多くの隠喩が用いられています。青い鳥は幸福、ダイヤモンドは絶対的な力、黄金のカギは成功といったように、劇中の表現だけでなく、主題を伝える要素として存在しています。こうした具現化や隠喩を通して目に見えないものを表現し、言葉では言い表せないものを伝えようとする手法には、メーテルリンク象徴主義が強く反映されていると言えます。また、こうして作られた彼の演劇には、「不在」という概念を文芸の根本に置かれて描かれています。この夢幻劇では、目の前に有りながらも気付かず、手にしたと思えば逃れていく、そのようなものが生きる上では幾つもあるということを訴えているように理解できます。しかし、それをどのように捉え、どのような目線で見つめることが人間として重要なのかを諭し、悲劇的な余韻は残らず、希望に満ち、幸福で溢れた終幕となっています。

 

「不幸」たちは「幸福」の花園のすぐ隣に住んでいてね、その境はもやかごくうすい幕のようなもので区切られてるだけで、それが「正義」の高みや、「永遠」の谷底から吹いてくる風に、始終吹きまくられているんだということを忘れてはいけません。だから、わたしたちはちゃんと準備して、十分用心してかからねばなりませんよ。「幸福」たちはたいていごく善良なんだけれど、でも、中には一番大きな「不幸」よりもっと危険で不誠実なのもいますからね。


人間として生きるうえで出会う、逃れることのできない不幸や悲哀を、どのように受け止めるかを考え、その後に出会う幸福にどのように感謝できるか。見つめるべきものを見失い、幸福の顔を被った快楽に身を委ねて成長しないようにと、未来のある者へメーテルリンクが優しく諭しているように感じます。本作『青い鳥』は、生きることに勇気と自信を与えてくれる作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『寝取られ宗介』つかこうへい 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

旅回り一座の座長・宗介は、ずっと籍を入れないままの女房レイ子と一座の若い男とをくっつける。そして、駆け落ちに破れて戻って来るレイ子をやさしく受け入れることで夫婦愛を確認していた。寝取られ亭主のマゾヒズムに快感を感じていた宗介だったが、死期を迎えた父親のため、家族、親戚、友人一同の前で、ついにレイ子と式を挙げることを決意する。しかし、その直前またしてもレイ子は駆け落ちを宣言。「もう帰って来ないよ」と言い捨て出て行ってしまう……という一座の舞台裏と呼応した劇中劇(若き日の徳川家宣と青砥芸者お志摩の許されぬ恋)が進行する。つかこうへいが、24歳当時に書き上げた人情喜劇の傑作。

 


第二次世界大戦争後、日本の演劇はアメリカの商業主義に煽られて、本来持ち得ていた反体制の思想が薄められていきました。興行収入を中心とした配役や演出が重視され、一つの大衆娯楽への様相を強めていきます。その風潮を食い止めようと、1960年台の安保闘争、或いは学生運動の畝りと重なり合い、反体制の色を強めたアングラ演劇が隆盛します。御三家と呼ばれる、唐十郎佐藤信寺山修司たちの演劇運動は、演劇の構造そのものを変革させました。物語を追う戯曲というだけでなく、劇場そのもの、上演される形態や役者たちの演技というものにも注目し、根幹から「演劇」に変化を与えます。こうした上演における反体制の思想は、その表現方法の変化から各々の作家の個性分析へと移り、独自の表現方法の追求へと向かっていきます。そのようなアングラ演劇ブームが思想から個性へと観客の目線が変わり始めたとき、つかこうへい(1948-2010)が現れます。


彼の演劇は、役者と必要最低限の大道具のみで繰り広げられます。何よりも「役者自身」で表現しました。それは、リアリティの追求によるものでした。作品は、作り上げた戯曲台本の登場人物だけでなく、舞台に立つ役者の中にこそあり、その役者の体調、心情、機嫌、不満、不安、歓喜などさえも考慮して演劇を作り上げます。役者がフィクショナルに表現しようとする、その根源のノンフィクショナルな部分にこそ、人間としての核があり、それらの交りが「一回きり」の演劇を完成させるという考え方です。こうして舞台に立つ一人ひとりの役者たちが「一つの演劇を形にしようとする意識」を持つことで、戯曲に込められた反体制的な思想が初めて訴える力を持つとしています。だからこそ、大仰な舞台装置や大物俳優を使うことなく、力強い演劇が成立します。

 

劇場空間というのは、現実の鏡であるけれど、現実そのものではない。ある意味、現実から一番遠いところである。そういう劇場で、現実を越えることの解明や、希望、道徳をみつけていかなくてはいけないんだよ。けれど今の若い演劇人たちはそこんとこをいとも簡単に芝居にしてしまっているという感がある。

『つかこうへいの新世界』


反体制的、或いは反商業主義的な考えは、どの演劇でも貫かれています。美しい物語性や一辺倒の恐怖や驚嘆を延々と与え続ける作品ではなく、いま現実社会が直面している問題とは何か、またはその原因は何か、ということを真剣に現実的に捉え、その解決策を「考えようとしなければならない」という大切なことを訴えます。耳障りの良い言葉、目に心地よい美しさを逃避的に与えるのではなく、直面しているリアリティを突き付ける強い信念を観客は感じさせられます。「芝居がお天道様の下、大手を振って歩きはじめたらダメなんだ」という、つかこうへいの言葉からも伝わるように、演劇だからこそできる訴えを放棄して、商業主義的に走ることを強く嫌悪していることが、彼のどの作品からも感じることができます。


当時の日本は、国策による高度経済成長の時期でした。「思想や道徳よりも資本である」という社会のもと、省みるべき家庭環境を見失い、暴徒化する学生運動で思想を見失うという時代に、何が問題であるか、という数分でも考えればわかることを当時の社会は理解できませんでした。利益が上がった、収入が増えた、そのような感情が先走り、真に人間に必要なものを見失っていました。そして、その必要なもの「愛情」に欠落を感じ、満たされない心は「絶対的な愛情を求めて犯罪を犯す」という、道徳を完全に失った事件が多発する時代へと移行していきます。こうして動機が「情」によって引き起こされる犯罪が増えていきました。つかこうへいの演劇には、「情の濃さ」が至る所で見られます。それは人間が最も大切にし、最も大切にしなければならないものであり、資本などに目が眩んではならないもので、人間性の構築に不可欠なものであることを教えています。そして、現実社会のような風潮にさせている国策に対して、反体制的に演劇で訴えています。

 

履き違えた民主主義の中で、いま、その尊厳を守り抜く可能性があるのは、なににも権力を介入されずに叫べる演劇だけなのかもしれない。だから、商業に走ったり、安易なあり方に逃げたりしちゃいけないんだよな。

『つかこうへいの新世界』


劇作家の堀内謙介は、つかこうへいの演劇を「人生の応援歌」だと語っています。人間は誰しも、頑張ることができない時がある、また、頑張らなければいけない時にも頑張ることができない。そんな人間像を生々しく登場人物として舞台に立たせ、そのなかで「少しでもがんばろう」という、背中を押すような言葉が含まれています。本作『寝取られ宗介』では、この人間としての生々しさにフィクショナルな「情の濃さ」を兼ね備えた登場人物が主人公に据えられています。舞台裏ごと見せる大衆演劇の世界は、劇中と舞台裏が行き来して、目紛しくも登場人物と役者(舞台上の)の心情が重なり合い、濃厚な物語となって突き進んでいきます。失われつつある旅回りの大衆演劇の世界を題材にしていながら、現実社会で失われつつある人情論を、荒唐無稽ながらもどこか共感せざるを得ない強制性をもって演じられます。これは、つかこうへい作品に込めらている「前向きのマゾヒズム」と称されるもので、前向き以上の攻撃性を持って、舞台を席巻します。道徳や思想を失った世間に在りながら、どのようにして人々は「人間としての希望」を持って生きていくことができるのかを問い掛けます。

 

バカのお前になんの役作りだ。役作りなんて出来る頭があったら東大行って大蔵省行ってるよ。おまえらは黙ってオレの言う通りにやってりゃいいんだよ。
気持ちなし!!いいか。人間てのは男と女とサルがいるんだ。そのサルが役者だ。復唱!!


一見突き放すような言葉は、全てを守ってやろうという意気込みが含まれ、その苦労を自らが喜んで背負い込もうとしている姿勢が見えてきます。このような台詞が、劇団を題材としていることもあって、つかこうへい自身の生の言葉のように感じる場面もあり、彼が抱いていた思想が心に流れ込んできます。表現には、差別的で品性の無い台詞が多く使用されていますが、だからこそリアリティを感じる点もあり、一概に否定できません。不快に感じる方も居られるとは思いますが、非常に深く考え抜かれた作品ですので、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『ロウソクの科学』マイケル・ファラデー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

たった一本のロウソクをめぐりながら、ファラデーはその種類、製法、燃焼、生成物質を語ることによって、自然との深い交りを伝えようとする。ファラデーは貧しい鍛冶屋の子供に生まれたが、苦労して一大科学者になった。少年少女を愛する彼が、慈父の愛をもって語ったこの講演記録は、その故に読者の胸を打つものである。


十九世紀の科学者マイケル・ファラデー(1791-1867)は、化学・物理学において重要な貢献をした人物のひとりとして知られています。彼はイギリスのロンドン近郊で錠前などを扱う鍛冶屋の息子として生まれました。貧しい家庭であったため、幼い時から勤めに出る必要があり、十四歳で製本屋(当時は出版も兼ねていた)で製本見習いとして雇われます。主人の寛大な心によって、製本中の作品を読む楽しみを得たファラデーは、やがてそこで取り扱われていた科学書に関心を持ち始めます。科学や電気についての論述は、彼に興奮と感動を与え、読むだけでは満たされなくなり、僅かな賃金から薬品や道具を揃えて自ら実験を行うようになります。さらには製本所の片隅で科学好きの仲間達と語り合うなど、ファラデーの情熱は、脳内を科学で満たすほどになりました。そして見習い期間を終えようとした頃、友人から王立研究所(Royal Institution of Great Britain)で行われる電気化学の講演へのチケットを受け取ります。それは、貧しい環境のファラデーがとても参加できるものではありませんでした。何故なら、ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウム、ホウ素、バリウムという六つの元素を発見した偉大な科学者ハンフリー・デービーによる講演であったからです。ファラデーは喜びに満たされて講演に参加すると、当然の如く魅了され、更なる科学の追求に思いを馳せることになりました。感動冷めやらぬうちに講演の記録と所感をまとめ、それに添えてデービーの元で助手として働きたいという手紙を無謀にも認め、すぐに彼へと届けました。デービーはその所感を大変喜びましたが、今は助手に空きが無いと優しく諭しました。しかし数日後に、助手が研究所と揉め事を起こしたために退職し、デービーがファラデーへ声を掛けると、飛ぶように駆け付けて王立研究所の助手として働くことになりました。


憧れていた環境に勤めることができた嬉しさで、彼は熱心に助手の仕事に取り組みます。実験の準備や手伝い、試験管やビーカーの手入れなどの職務をこなし、寝泊まりをして自分なりに知識を増やす勉強も怠りません。努力が認められたファラデーは、入所後数年経つと手伝いではなく自分の研究室を持つことができました。ここから本格的に科学者の才能が現れていきます。気体の液化である復水、ベンゼン(ベンゾール)の発見、熱源装置であるブンゼンバーナーの発明など、次々と功績をあげていきます。そして1833年に、電気分解の法則「ファラデーの法則」を見つけます。ここから電磁気の歴史が動き始めます。研究にのめり込むあまり、若しくは社会的な常識が無かったため、電磁誘導の研究結果を独断で発表しデービーとの関係が悪化することがありましたが、その後の研究によって電磁誘導の研究を進めて、実用化の基盤を築きました。この電力という新しいエネルギーの発見は、第二次産業革命の動力源となりました。


ヴィクトリア朝初期のこの時代、科学の発見や進歩はイギリスの人々の関心を集め魅了していました。しかし、それと同時に、心霊現象や霊能力といったオカルトも同様に人気を集めます。大科学者となったファラデーは、世間のこのような認識、つまり、熱心な研究によって明かされた科学の実績と、大衆娯楽のように語られる心霊現象を同じように捉えられるという事実に心を痛めます。そして、そのような知識に塗れながら若い世代が育つことを危惧して、それを是正できないかと考え、一つの行動を起こします。それが、1860年に子供を対象とした科学のクリスマス講演でした。この年で王立研究所を退くことが決まっていたファラデーは、未来の科学者の芽を少しでも育もうと決意したのでした。本書『ロウソクの科学』は、この講演をまとめたものです。

 

何か一つの結果を見たとき、ことにそれがこれまでとちがうものであったとき、皆さんは、「何が原因だろうか。何でそんなことがおこるのだろうか」と、疑問をもつことを、いつでもお忘れないことを希望いたします。こんなふうにして、皆さんは長いあいだに真理を発見していくことになります。


ファラデーの講演では、火の付いているろうそくを注意深く観察することによって理解できる、質量、密度、熱伝導、毛細管現象(作中では毛管引力)、対流などについて、実験を交えて語ります。これにより、溶融、蒸発、白熱、あらゆる種類の燃焼でさまざまに形態が変化する物体を楽しませます。また、水素、酸素、窒素、二酸化炭素の相対質量や大気の構成などの特性を詳細に伝え、身の回りに存在する空気への関心が高められます。壇上での実験は、ファラデーが過去に感じた感動をその場で再現するように、そして理解しやすいように、熱心に行われます。そして講演は、ロウソクの燃焼と人間の呼吸の親和性について語られ、人間が科学に向き合う意義や、その結果の重要性について、優しく丁寧に語り掛け、終わりへと向かいます。

 

私たちのひとりびとりの体のなかには、ロウソクの燃焼にとてもよく似た生きた燃焼がおこっております。私は皆さんに、それをはっきりさせることを試みなければなりません。人の命とロウソクとの関係は、詩的感覚の中だけで真実なのではありません。

すべてのものは、おそかれ早かれ、まちがいなく終わりにくるものではありますが、この講演の終わりにあたりまして、私が皆さんに申しあげることのできるすべては、皆さんが皆さんの時代がきたとき、一本のロウソクにたとえられるのにふさわしい人となっていただきたいということ、そしてまた、皆さんが、ロウソクのように皆さんのまわりの人びとに対して光となって輝いていただきたいということ、皆さんのあらゆる活動の中で皆さんが、皆さんとともに生きる人類に対する義務を果たすことにおいて、皆さんの行為を光栄あり、かつ効果あらしめることによって、ロウソクの美を正当化していただきたいということの希望であります。


ファラデーが少年少女たちの将来を憂い、また、彼らの持つ未来への可能性を育みたいという思いから、真なる愛情を持って語りかけていることが非常に強く伝わります。そして、その愛情を持った目線が、彼らを惑わすものから遠ざけ、彼らが接して抱く人生における発見を、あらゆる障壁から守ろうとしています。だからこそ、この講演(文章)を読む者にも深く訴える熱い思いが伝わってきます。現在までも続けられている科学のクリスマス講演は、ファラデーの意志が強く伝わり、後世でも火が消えないように取り組まれています。心に響く暖かな言葉、楽しさを感じる実験の数々を、未読の方はぜひ、体感してみてください。

では。

 

『神々自身』アイザック・アシモフ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

西暦2070年、タングステンと交換に〈平行宇宙〉からプルトニウム186がもたらされることが判明した。われわれの宇宙に存在しないこの物質は、無公害で低コスト、しかも無尽蔵のエネルギー源として歓迎され、両宇宙をエレクトロン・ポンプでつないでのエネルギー交換が実施された。だがこの魅力的な取引には、恐るべき陥穽が隠されていた……SF界の巨匠が満を持して放ち、ヒューゴー、ネビュラ両賞受賞に輝いた最高傑作


第二次世界大戦争、化学と戦争の結びつき、サイエンス・フィクションの世界が現実となった脅威、また戦禍により広がる荒廃と被害の恐怖、全体主義ファシズムに対する厭悪、これらが刺激となって戦後のSF作品が狭いエンターテイメントジャンルから、一つの文学的分類へと広まっていきました。それまで非現実を描いた異世界としての認識であったものが、リアリスティックな科学の世界へと変化した認識は、作家が主義、思想、諷刺、揶揄などを強く込めた作品を多く生み出していきます。このような戦後から1960年ごろまで続くサイエンス・フィクション隆盛の時代に、作風は戦前から大きく変わっていき、破壊や滅亡を多く描く社会諷刺の作品が見られました。ジョージ・オーウェル『一九八四年』、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』などが挙げられます。


多くの作家、そして作品がサイエンス・フィクションというジャンルのなかで生まれた慌ただしい時代ですが、この中でも特筆すべき「ビッグ3」と呼ばれる作家がいます。豊富な化学的知識を用いてリアリスティックな世界を描いたアーサー・チャールズ・クラーク、サイエンス・フィクションというジャンルを文学的に向上させようと試みたロバート・アンスン・ハインライン、著作は500冊を超えて科学に縛られず歴史や言語学なども手掛けていたアイザック・アシモフ(1920-1992)。この三人の活躍によって訪れた「真のSF黄金時代」は、それまでの常識や風潮を刷新し、新たな定義をもたらすほどの改革的な変化を遂げます。特に、アシモフによる短篇『われはロボット』で提示された三原則はあまりにも有名です。


しかし、作風が変化したサイエンス・フィクションの作品群は、過激さだけが膨らみ始め、読書に倦怠的な印象を与え始めます。この流れからの脱却をジェイムズ・グレアム・バラードを皮切りに、1960年ごろからイギリスを中心とした「ニュー・ウェーブ」というSFの運動が始まります。視点を外宇宙ではなく内宇宙(インナースペース)へと移して描き出す作風は、他の文学ジャンルから影響を受け、サイエンス・フィクションは融合して文芸性を帯びたものへと変化していきました。また、その動きはアメリカにも派生して、サイエンス・フィクション誌『ギャラクシィ』が中心となって、SFニュー・ウェーブを隆盛させていきます。フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?』などは、この時代のものと言えます。


このようなSFニュー・ウェーブ、外宇宙から内宇宙への視点変更に対して、ビッグ3の一人であるアシモフは、新たな波を描くことができるのか、といった挑発的な声を受けて執筆に取り掛かります。そしてちょうどこの頃に、友人のSF作家ロバート・シルヴァーバーグが討論の場で口にした存在しない物質「プルトニウム186」をアイデアの種に置いて、作品を創造していきました。それが本作『神々自身』です。


『神々自身』は、フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『オルレアンの少女』から引用された、三部作で構成されています。二十一世紀の後半、人類はパラ宇宙(パラレル・ユニバース)とエネルギーを交換するという技術を身に付けました。地球で手に入りやすいタングステン186と、脅威的なエネルギーを得ることができるプルトニウム186の交換は、人類の希望ともなり、活動に必要なエネルギーを全て補うことができるという夢のような資源でした。この交換を成す「エレクトロン・ポンプ」という設備を作り上げたフレデリック・ハラムは、物理学者の頂点に立ち、全ての権威を自在に操っていました。しかし、優秀なピーター・ラモントという青年が、パラ宇宙とエレクトロン・ポンプの研究を進めていくと、真に優れた技術を持っている者はパラ人(パラレル・宇宙人)であり、地球の存在はパラ宇宙にとって資源供給の傀儡に過ぎないことを突き止めます。そして、このエネルギー交換には地球側の宇宙を滅亡させる危機があることを推測しました。その行為にハラムは激しく憤り、ラモントを物理学界において行き場が無いように追い詰めます。それでも研究を続けるラモントは言語学者と協力して、パラ人とのメッセージ交換を果たします。そこには、ラモントの望みを打ち砕くものが書かれていました。ここまでが第一部です。


第二部は、パラ宇宙側の世界を描きます。性別が三種ある軟属と、交配を一切行わない硬属が存在する世界で、地球側の宇宙に比べるとはるかに規模が小さなものとなっています。ヒダリ配偶子である理性子オディーン、ミギ配偶子である親性子トリット、そして感性子デュアによる軟属三者のパートナー的な関係性は、一組の夫婦(三者ですが)をイメージさせられます。彼らの「融交」という繁殖行為に該当する行いは、それぞれが気化(のような原子の分散)して交わり合うというもので、強烈な快楽を伴い、子を授かる可能性を持っています。理性、本能、感情と、三者それぞれの特徴的な性格によって、この「融交」の捉え方もさまざまです。パラ宇宙における家族の概念は、理性子、親性子、感性子を子供として儲けると、親の三者は「終熄」しなければなりません。これを避けたいと願うデュアと、全ての子をもうけることが望みのトリットは、「融交」を巡って諍いを起こします。その問題と並行して、硬属が別の宇宙(地球側の宇宙)とエネルギー交換を成功させて、そのエネルギーに依存した生活を過ごしていました。しかし、この交換には別の宇宙の消滅が予測されていながらも、パラ宇宙側には危険が少ないことから継続して使用されていました。この問題に心を痛めたデュアは、別の宇宙へ危険を伝えようとメッセージを送ります。そして、この問題と硬属の「無融交」の謎が絡み合い、一挙に謎が明かされて第二部を終えます。


第三部では再び地球側の宇宙へと戻ります。ハラムがプルトニウム186(にタングステン186がいつの間にか変化していたこと)を発見したとき、優位な立場にありながらこの事実で業界から追いやられたベンジャミン・アラン・デニソンが中心人物として登場します。彼はエレクトロン・ポンプによって支配されている地球上から逃れるため、半世紀以上も経過している切り拓かれた月の世界へと訪れました。魅力的なルナ人(月の住人)セルニ・リンドストロムと出会い、月のエネルギー源となっている「プロトン・シンクロトン」について調べ始めます。この月のエネルギー処理に関する技術を活かして、デニソンは画期的なシステムの構造を思い描きます。これは現在置かれている地球側の宇宙の危機を、コズミック・エッグという別の宇宙(反パラ宇宙)を利用して切り抜けるというものでした。地球側の宇宙とパラ宇宙によって生まれている「負の作用エネルギー」を、反パラ宇宙へと逃がすようなイメージです。そしてこの構想を実現させるためにはラモントの協力とセルニの協力が必要です。そして物語は痛快な展開を見せて見事に収束します。


本作で特に強い印象を持っているのが、第二部のパラ人による融交描写です。それまで性的な描写は殆ど取り入れなかったアシモフにとって大きな取り組みであり、当時においては衝撃的なことでした。詳細に綴られる性行為での感情や、事細かな動きの描写は、非常にエロティックでありながら、融交自体が人間の行為とかけ離れているため、卑猥さが全く感じられません。しかし、エクスタシーの感情や度合いが見事な筆致で伝わり、「それほどまでの快感であろう」という他種の性行為としての冷静な受け取り方ができるという点で、三者がどれほどその行為から逃れられないのか、ということを伝えてきます。また、その融交の果てが「融合」となるという仕掛けも、見事としか言いようがありません。


三部作という複合的な構造は、空間的視野と時間的視野とを自然に融合、連結させて、整合性の取れた世界を構築しています。また、地球側の宇宙、パラ宇宙の描き方が不自然な橋渡しを必要とせず、独立させているからこその自然さを演出しています。実際に、第二部は独立して雑誌に連載されていたという背景もあり、敢えて世界観を断裂させているとも言えます。

本作の結末は「反終幕」と言えます。掲げられた問題や危機を如何に乗り越えるか、如何に打ち砕くか、といった目線ではなく、危機を如何に解消するかの一点に絞り、問題解決を放棄するという当時において新たな手法で描き切っています。このあたりにSFニュー・ウェーブの香りが漂い、反滅亡、反過剰、反破壊、反虚無、反達観と言った要素を上手く取り入れていると言えます。

 

こりゃ阿呆、貴樣に負けて己は滅びるのか!
阿呆を相手にしては、神々にさへ勝目はない。
智慧の神パラス・アテネは、大神の頭から
光り輝いて生れ出て、この世界の結構を
築き上げ、星の針路を定めた賢い女神だといふが、
迷信といふ狂ひ馬の尻尾に結へられ、
ひいひいと吠えながら、血迷ひ者の道連になって、
みすみす崖の下に轉げ落ちなければならぬなら、
いったい何の役に立つのだ!
偉大なもの、尊󠄁貴なものに命を捧げて、
賢い心でぬかりのない計をめぐらす者は
詛はれろ!この世は
阿呆の王の持物だ。──

フリードリヒ・シルレル『オルレアンの少女』


章題に現れるフリードリヒ・フォン・シラー『オルレアンの少女』の引用も、非常に効果的に用いられています。

百年戦争後半、獲得したはずのランスを失った後、パリまでも失ったという報せを受けたイギリスの総大将タルボットが、忌々しさと絶望から発した台詞です。真に理知的な彼は、「ジャンヌ・ダルクの奇跡」という迷信を間に受けて兵達が戦場から逃走するという事実に、呑み込まれるように戦況を覆され、自らも破滅へと導かれることを激しく嘆いています。フランスに侵攻し、連戦連勝でオルレアンへと辿り着きましたが、ジャンヌの出現から負け戦が度重なり、そして今この場で自らの死を迎えているという状況を受け入れることなど到底できず、呪いの言葉が止みません。「利権」に固執し、ジャンヌが演出した「奇跡」を悉く受け入れ、またその事象を真に受けた人々の逃避と迎合によって、イギリスの勝利が次々とフランスのものとなった戦いは、真実に目を背けた愚者たちによって被られ、真実を見据え続けたタルボットは破滅するという、不条理的な感情が強く伝わる場面です。この、利権を守って真実を見ない愚者(ハラムおよび物理学界)と反対する人物たち(デニソン、ラモントなど)の戦いを重ね合わせ、作品の題名や章題に引用されています。


1972 年に出版された本作は、同年のネビュラ賞を受賞し、翌年のヒューゴー賞を受賞しました。アシモフは自身の力量を充分見せつけると同時に、素晴らしい栄冠をも手にしました。その発端となった「プルトニウム186」という小さなアイデアの種をここまでの大作に成し得たのは、彼の持つ膨大な知識量と執筆の技量、そして挑発に対抗する強いエネルギーであったことを考えると、面白くも素晴らしく感じます。サイエンス・フィクションではありますが、人間同士の感情の動きが多く描かれており、非常に読み進めやすい作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『プラテーロとわたし』フアン・ラモン・ヒメネス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

真っ青な空と真っ白な家が目にいたいほど明るい、太陽の町モゲール。首都マドリードで健康を害したヒメーネスは、アンダルシアの故郷の町の田園生活の中で、読書と瞑想と詩作に没頭した。月のように銀いろの、やわらかい毛並みの驢馬プラテーロに優しく語りかけながら過ごした日々を、138編の散文詩に描き出す。


スペインの最も西側、アンダルシア州ウエルバにある小さな自治都市モゲル、村と呼ぶ方が似つかわしいほど、自然が美しい牧歌的な土地です。そこでワイナリーを営むカスティーリャ人の父と、アンダルシア人の母のあいだに生まれたのがフアン・ラモン・ヒメネス(1881-1958)です。大変裕福な環境で育てられた彼は、ウエルバの南東にあるカディスのイエズス系教育機関で充分な教育を与えられ、ブルジョワジーたちの子供と共に進学していきます。同アンダルシア州にある名門セビリア大学へ進むと、家業であるワイナリーを継ぐために法学を学びます。しかし、彼は大学内での絵画の授業に触れるうち、彼の詩性は開化し始め、芸術に強い関心を持つことになりました。これに父親は寛容な理解を示し、絵画などの美術に傾倒し、その後に古典文学に耽溺することを優しく見守ってくれました。恵まれた環境と、持ち前の詩性によって、芸術への理解を深め、彼は「詩」という芸術表現に辿り着きます。その頃隆盛していたスペインの叙情詩人たちに、自分から積極的に触れ、詩作を重ねて出版社へ投稿し、徐々に文壇と世間に認められ始めます。


1900年にヒメネスは、スペインの詩人や劇作家として活躍したフランシスコ・ビジャエスペサ・マルティンに誘われて、首都マドリードへと向かいます。そこでは、ラテンアメリカニカラグアから訪れていた詩人ルベン・ダリオが精力的に活動していました。「美」を鮮烈な印象と音楽的な韻律で見つめ、カスティーリャ叙情詩の革新をめざすというモデルニスモ運動(Modernismo、モダニズム)の一貫で、アルゼンチンの作家レオポルド・ルゴネス、キューバの作家ホセ・マルティなどが支持した運動です。発足当初は、叙情詩の革新を異端的な行為と見て、批判的な評価を受けていましたが、ルベンの著書『青』(『AZUL…』)の発表により、詩の定められた形式からの脱却が理解されて、多くの支持を受けて運動が隆盛しました。西欧への運動拡大のために訪れていたルベンに、マドリードヒメネスたちは出会います。内なる情熱、視点、旋律、韻が、新たな目線で捉えられ、ヒメネスの詩性はさらに開花していきました。


モデルニスモの影響を受けたヒメネスは激しく机に向かいますが、突然の不幸が襲います。最愛の良き理解者である父親が急死しました。「死」という恐怖がヒメネスを襲い、精神が激しく衰弱して、執筆だけでなく生活もままならなくなります。彼は、南フランスのサナトリウムで療養することになりました。心を休めるための療養でしたが、詩に対する熱意は消えず、その地で生まれた南フランスの詩に触れはじめました。そして、そこには、強烈な詩性が込められていました。シャルル=ピエール・ボードレールが、フランス韻文詩が与えていた雁字搦めの道徳観を破壊し、本質的な「美」を表現した新たな詩でした。悪と美を主軸に表現された新たな詩は、ヒメネスに強い衝撃を与えます。


宗教によって束縛されていたカスティーリャ叙情詩を解放したモデルニスモ、道徳の啓蒙によって束縛されていたフランス韻文詩を解放した散文詩、これらはヒメネスにとっての「詩の在り方」を根源的に揺さぶりました。そして彼は、彼が辿り着いた「純粋な詩性」という概念の表現を目指すことになります。こうして芽生えた新たな概念を、サナトリウムでの療養期間に筆に込め、書き上げたものが『プラテーロとわたし』です。


本作で語られる出来事は、一年の季節に合わせて綴られています。春に起こり、冬に最高潮に達するという流れは、138の詩篇を繋げるものではなく、「わたし」の意識の流れと一致するものであり、「プラテーロ」の短い生命との一致でもあります。全ての短い詩篇は、アンダルシアにおける田園生活の自然に人生を照らし合わせ、陽の光とともに人間の明暗を細かな描写で映し出しています。その喜びや悲しみを、親近感を持ち合ったプラテーロとわたしの愛情によって会話が生まれ、出来事を客観的に捉えています。そこには鋭い観察眼が見えますが、見えたものを突き詰めるのではなく、そうした痛みや苦しみを分かち合おうとする二人の優しさが、全篇にわたって込められています。そして季節の終わりにプラテーロを失った喪失感と悲しみを、「わたし」はどう受け止めて、どう歩んでいくのかが、物悲しさ溢れる幸福で綴られます。


星の美しさ、花の美しさ、果実の美しさ、幾つも「美」が視界に広がるような筆致は、そのものが大変美しく輝きさえも帯びています。反して、カナリアの死、犬の死、馬の死、少女の死など、「死」は現実であるという、ヒメネスサナトリウムで最も苦しんだ概念も、目を逸らさずに見据えられています。また、象徴主義の影響が「霊魂」を表す「蝶」となって、幾たびも詩篇に登場します。こうした「美」と「死」の共存は、人間の本質的な感情に結び付き、それを純粋な詩性へと昇華し、そして、明暗や寒暖、剛柔などを巧みに綴り、自然や現象を美しく表現して、詩篇を隈なく彩っています。

 

この花はね、プラテーロよ、ほんの数日しか生きないだろう。けれどもその思い出は、いつまでも消えうせることはあるまい。この花のいのちの長さは、きみの一生のなかの春の一日か、わたしの一生のなかの春の一つにひとしいものだろう……もしかりに、この聖い花と交換できるならば、プラテーロよ、わたしは秋の季節にたいして、何をあたえてもかまわないのだが!なぜってこの花にはね、わたしたちの日ごろの生き方の、素朴な、永遠の手本になってもらいたいからさ。

「道ばたの花」


幾多の事物がプラテーロとわたしに関わろうとも、決して直接的に彼等のあいだには入り込みません。あくまでも彼等の外側に存在し、観察される側の立場から変わることはありません。彼等が交わす会話は、堅固な世界の中で構成され、一層に親近感を高めています。ヒメネスは本作を、子供時代に過ごした田園の世界と、彼が生まれた土地そのものに戻ることを想定して描いています。彼は詩的な散文を使い、元々抱いていた懐古的な思い出の風景を、「美」を特化して映し出し、純粋な詩性を表現しています。それを助長させる存在が「プラテーロ」であり、彼等の友情や愛情が溢れるばかりに織り込まれています。

 

プラテーロは存在するのかと多くの人に尋ねられました。もちろん、彼は存在しました。アンダルシアの農場主は馬、雌馬、騾馬に加えて、驢馬を飼っています。驢馬は、馬や騾馬とは違った役目を与えられており、世話はあまり必要ありません。徒歩の遠出をする時に軽い荷物を運んだり、疲れた子供を乗せたり、移動中に病気や怪我をした人を乗せたりします。「プラテーロ」は銀色の驢馬の一般名(しろがね号のような意味合い)で、「モヒノ」は黒い驢馬、「カノ」は白い驢馬です。実際に存在した私のプラテーロは一頭の驢馬ではなく、複数の銀の驢馬の思い出を合成したものです。私は、少年時代や青年時代に何頭か飼っていました。彼らはどれも、銀細工のようでした。彼らとのすべての思い出が一頭の「プラテーロ」となり、作品の中で姿を現してくれました。

ゼノビア・フアン・ラモン・ヒメネス博物館 インタビュー


本作には、「アンダルシアのエレジー──一九〇七-一九一六年」という副題が付けられています。哀歌や挽歌といった意味合いを持つ「エレジー」ですが、詩においては「悲しみを歌ったもの」という意味が強くなります。本作で描かれる暖かさやおかしみは、「プラテーロ」の最期を迎えて懐古的に描いたものであると受け止めると、非常に胸の詰まる悲しみが襲ってきます。そして季節が秋から冬へと変化して終わりが近付くと、蝶(霊魂)が舞う表現が目につき始めます。ゆっくりと想起させる「プラテーロの最期」が遂に訪れると、「死」の恐怖が強く覆い被さってきます。しかし、プラテーロのいなくなった厩に舞う美しい蝶は、儚くも幸福を帯びた感情を思い起こさせ、愛されて過ごした記憶がより美しいものへと昇華されます。


スペイン内戦によってプエルトリコへと亡命し、その地で亡くなったヒメネスとその妻は、彼の出生の地へと帰り、ともに眠っています。「プラテーロ」となった幾頭かのしろがね号も同じ地に眠り、何匹かの蝶が美しく待っている景色を想像してしまいます。児童書としても用いられ、教科書などでも使用されているほど読みやすい本作『プラテーロとわたし』。未読の方は、ぜひ読んでみてください。

では。

 

 

『バッハの生涯と芸術』ヨハン・ニコラウス・フォルケル 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

楽家フォルケルの手に成る本書(1802)は、バッハの生涯を略述した上で、作品、作曲の方法、演奏の仕方、弟子の養成等について語り、ドイツの国民的財産としてのバッハを顕彰した最初の本格的評伝。諸処に挿入された訳注によって、19-20世紀のバッハ研究の変遷を辿ることができ、恰好の入門書ともなっている。


音楽学創始者として名を知られるヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749-1818)は、靴屋の息子として生まれました。ドイツのバイエルン州メーダーで過ごした彼は早くから音楽に関心を持ち、また良きオルガニストの元で学びました。彼の才覚はすぐに現れ、十八歳にしてシュヴェリーン大聖堂の聖歌隊の合唱団長となり、そこでオルガン演奏を身に付けました。その後、ゲッティンゲン大学にて音楽史を学び、大学教会のオルガニストとして活躍します。また、在学中から教授と変わらぬ知識と感覚を見せて講義を行うなど、当時の音楽界でも一目を置かれる優秀さを披露していました。1779年に大学の音楽監督になり、コンサートの指揮やオルガンの演奏など、生涯を終えるまでゲッティンゲンで才能を発揮し続けました。


彼が研究を続けていたものは、結果的に未完に終わった『一般音楽史』についてです。フォルケルはヨハン・ゼバスティアン・バッハの熱烈な信奉者でした。音楽史におけるバッハの重要性を世に説くため、熱狂的にバッハを論じ、音楽界にその偉大さを伝えようと声を枯らしました。

 

天性と教育によって足ることを知り、生活のために多くを必要とせず、自分たちの芸術によって与えられる内心の楽しみがあるために、当時著名な芸術家に特別な名誉の印として貴紳から与えられた黄金の鎖を欲しいとは思わず、それなしには幸福になれないような他の人々がそれをつけているのを、少しも羨むことなしに眺めることができたのである。


当時のバッハの評価は作曲家としてではなく、「偉大なオルガニスト」としてのものでした。即興演奏や即興作曲、或いは即興編曲が素晴らしかったことはもちろん知られていましたが、どちらかと言えば特殊技能のような扱いで、音楽家としての作曲の評価ではありませんでした。このような評価を覆そうと、バッハの生活とプロテスタントとしての生涯を、バッハが生んだ曲の数々と照らし合わせて研究し、著作としたものが本作『バッハの生涯と芸術』です。本書では、いかにバッハの作曲が素晴らしかったか、といった内容が様々な角度から語られ、裏付けるように曲ごとに分析されています。

 

一つの芸術への抗いがたい衝動をもった最大の天才とは、その本来の性質から言って、素質すなわち一種の肥沃な土壌以上のものではない。しかしこの土壌には、芸術家が飽くことなく入念に耕すのでなければ、芸術はまともに育つことができない。元来すべての芸術と学問の元となる勤勉こそ、そのための第一の、もっとも不可欠な条件のひとつである。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)は、十八歳のとき、アルンシュタットの新教会に製作されたオルガンの鑑定を任されました。鑑定者としてだけでなく、その試奏の素晴らしさから奏者としても教会に認められ、新教会のオルガニストに選ばれました。比較的に自分の時間を持つことができた職務であったため、家族との時間を持ちながら先人たちの音楽を吸収していきました。しかし、まだ若きバッハには自身の感情を抑えることが困難で、指導していた聖歌隊隊員たちとの意見の食い違いや、聖職議会とも方向性の違いで軋轢を生んでいきました。四週間の休暇を取ったバッハは、聖母マリア教会のディートリヒ・ブクステフーデのオルガン演奏を聴きに行きます。半音階や不協和音の使用、大掛かりな転調など、その演奏はバッハを大いに魅了します。しかし、のめり込むあまり、結果的に十六週間も帰ってこなかったことが問題となり、バッハはアルンシュタットを退かなくてはならなくなりました。その頃、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストが後任を探していると知り、そちらへ移ります。カンタータ「キリストは死の絆につきたまえり」(BWV4)、葬送カンタータ「神の時は最上の時なり」(BWV106)、「結婚式クォドリベット」(BWV524)、大規模なカンタータ「神はわが王」(BWV71)など、多くの楽曲をこの地で生み出しました。その後、バッハはザクセン=ワイマール宮廷楽団への移籍を願い出ました。宮廷オルガニストの後任を探していること、城内教会が改修されたこと、俸給が倍近くあったことなどが理由とされています。


バッハの主君であるヴィルヘルム・エルンスト公は、宗教政策の推進と宗教音楽の保護に力を入れていました。ワイマールは、宮廷楽団十五名、軍歌隊七名だけでなく、市内にも町楽師が溢れ、多くの職業音楽家の住む城下町でした。職務もエルンスト公はよくバッハの意見を聞き入れ、楽師となっても良い待遇は変わらず、また、家庭生活も順風満帆で、子どもに囲まれながら幸福に過ごすことができました。後に大成する二人の息子、ヴィルヘルム・フリーデマン、カール・フィリップ・エマヌエルも、この時に生まれます。作曲活動においては、エルンスト公の助言もあり、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲様式を取り入れた作品などを手掛けるなど、さらに楽曲を幅広いものとしています。「トッカータアダージョとフーガ ハ長調」(BWV564)などはその例です。また、ワイマール宮廷オルガニストとしての職務を果たし、「カンツォーナ」(BWV588)、「ドリア調のトッカータとフーガ」(BWV538)、コラール前奏曲「オルゲルビュヒライン」(BWV599-644)など、現代に残されるオルガン曲の殆どを、このワイマール時代に作り上げました。

その後、ハレの聖母教会が専属オルガニストの後任を探しているということでバッハの心は揺らぎましたが、結果的にエルンスト公が俸給昇格と楽師長への昇進を提示してワイマールに踏み留まりました。この昇進によって教会音楽を任され、毎月一曲のカンタータ作曲と上演が義務付けられました。「天の王よ、よくぞ来ませり」(BWV182)、「泣き、嘆き、憂い、畏れよ」(BWV12)、「歌声よひびけ」(BWV172)、「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」(BWV61)など、次々と作曲し、演奏しました。その後も滞りなく義務を果たしていたバッハでしたが、領主エルンスト公と、その甥エルンスト・アウグスト公との対立に巻き込まれ、環境に居心地の悪さを感じ始めます。状況に悩んでいる最中、アウグスト公の妃の兄であるアンハルト=ケーテン侯レオポルトが助け舟となり、ケーテン宮廷楽長に招聘されました。しかし、これを良しとしないエルンスト公はバッハを投獄してしまいます。約一ヶ月の禁固処分から釈放されると、ようやくケーテンへと向かうことができました。


ケーテンでは宗教改革の影響に悩まされます。ルター派カルヴァン派が領主の実権を握るごとに、その作曲も左右されていました。レオポルト侯はカルヴァン派であり、バッハはその思想に基づいて職務を果たすことになりました。侯は音楽を愛し、音楽に理解を示していました。バッハが宮廷楽団に必要だという進言は悉く受け入れます。もちろん俸給も前任者の倍以上を与えられるなど、破格の厚遇でした。またレオポルト侯も自身で演奏を振るうなど、バッハは宮廷楽師長として存分に力を発揮する環境を与えられます。この頃に作られた楽曲は、「ヴァイオリン協奏曲」(BWV1041-1043)、「ブランデンブルク協奏曲」(BWV1046-1051)などが挙げられます。また、本来の職務における作曲は、「高められし肉と血よ」(BWV173)、「イエスの復活を知る心は」(BWV134)、「いまぞ去れ、悲しみの影よ」(BWV202)などがあります。レオポルト侯とバッハは有効な関係を継続して、貴族たちの保養地カールスバートへ連れ立つなど公私共に行動していました。ところが二度目の保養地訪問から帰宅すると、バッハの妻が病により急死してしまいました。家庭の急変に合わせて、この頃を境にレオポルト侯の音楽熱は下がり始め、バッハは公私共に苦しい環境に立たされてしまいます。その頃、ハンブルクの聖ヤコビ教会のオルガニストが亡くなり、その後任を探しているということで、応募します。コラール「バビロンの川のほとりにて」の即興演奏は、オルガニストの大家ラインケンが見守るなか、見事な熱狂の渦を生み、聴衆の大きな喝采を受けました。それはラインケンの言葉からも伝わってきます。

「私は、この芸術は死に絶えたと思っておりましたが、今それがあなたの中に生きているのを目のあたりにしました」

バッハの採用は間違いなく、また本人にも伝えられましたが、結果的にバッハはこの申し出を断ることになりました。後にこの地位に収まった人物が多額の寄付を行ったという事実がわかったことから、バッハが官職売買の慣習を否定したことが原因であると見られています。この頃、自筆楽譜で書かれたものは、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001-1006)、「無伴奏チェロ組曲」(BWV1007-1012)、「無伴奏フルートのためのパルティータ」(BWV1013)などであると言われています。

翌年にバッハは再婚しました。共にケーテン宮廷楽団で励まし合いながら、公私を共に支え合います。妻のアンナ・マグダレーナはソプラノ歌手で、バッハの半分の俸給を貰うなど、経済的にも大きく安定し、バッハも創作に力を込めることができる環境でした。また、妻にも音楽の教育として「音楽帳」を贈り、それを用いて作曲などを行っていました。この頃よりバッハの家庭に向けた音楽熱が高まり、「御身がともにあるならば」(BWV508)などからその感情が見られ、長男フリーデマンのために書いた「クラヴィーア小曲集」などが出来上がり、これらの教育用曲集をまとめ上げた「平均律クラヴィーア曲集第一巻」が完成します。しかしケーテン宮廷楽団での職務熱は反比例して下がっていきました。レオポルト侯が「音楽嫌い」の従姉妹アンハルト=ベルンブルク公女フリーデリカと結婚したことにより、著しく音楽熱が冷え切ったためでした。


ライプツィヒのトマス・カントル(プロテスタント教会での音楽的行事一切を任される者)であるクラヴィーア曲「聖書ソナタ」の作曲家ヨハン・クーナウが亡くなったことで、後任の選定が始まりました。先方にとっては、「最良の人」ではない妥協的な選定でしたが、結果的にバッハが正式に契約を結びました。三時間以上の礼拝式の間、延々とオルガンの前に座り、前奏曲やコラールを続けざまに演奏しました。そのような忙しさのなかで、バッハは三百曲以上の教会カンタータを作曲しました(現存するものは二百曲程度)。「イエスよ、わが喜び」(BWV227)、「マニフィカト 変ホ長調」(BWV243a)、「ヨハネ受難曲」(BWV245)などが演じられました。また着任翌年の復活祭には、「復活祭オラトリオ」(BWV249)が聖ニコライ教会で上演されました。こうした熱心な新曲作成によって、向こう数十回分の礼拝用の曲を蓄えたことで、少し精神に余裕を持つことができました。そして遂に生み出されるバッハ声楽曲の代表的存在「マタイ受難曲」(BWV244)が世に現れました。こうした名作の数々を生む創作活動の隆盛に反して、職務における方々の対立は激しいものがありました。聖パウロ教会が取り入れていた「新礼拝」の監督権争いや、礼拝におけるコラールの選定権限など、音楽の外で繰り広げられる争いに、バッハは疲弊してしまいます。半ば職務放棄の状態を続けてしまい、減法処分をうけ、創作熱も冷めてしまいます。住みにくいライプツィヒに居ながら、旧友や他の音楽に惹かれ、彷徨うように心は留まりませんでした。そのような中でも、機会あるごとに貴族への訪問は欠かさず、またそのような時にはすばらしい曲を生み出しています。ロシア公使ヘルマン・フォン・カイザーリンク伯爵の不眠改善のために書かれた「アリアと種々の変奏」(ゴルドベルク変奏曲)(BWV988)、「平均律クラヴィーア曲集第二巻」、そして、声楽曲の代表的な作品「ミサ曲ロ短調」(BWV232)などを生み出します。


カイザーリンク伯爵は音楽界におけるバッハの擁護者となり、フリードリヒ大王との仲介に尽力しました。貴重なジルバーマン製のフォルテピアノと共に出迎えた大王は、早速バッハにフーガの即興演奏を依頼します。期待に応えた素晴らしい演奏は、大王から大いに称され、その後も聖霊教会でのオルガン演奏も依頼されました。ライプツィヒに戻ると、バッハは即興演奏を基に大王を主題とした厳格なフーガを仕上げます。同じ頃に、以前より薦められていた「音楽学術協会」へ、「BACH」を表す14番目の会員(B=2、A=1、C=3、H=8、合わせて14)として入会します。こうした晩年と言われる頃に、大作「フーガの技法」(BWV1080)は仕上げられました。しかし、ライプツィヒにおける誹謗中傷や争いによる精神疲弊によって脳卒中を起こして倒れます。一度は回復しますが、以前から患っていた内障眼が酷くなり、二度の手術失敗で体力は尽き、帰らぬ人となりました。

 

一七五〇年にこの世を去るまで、バッハには、懐疑や内面的誘惑に陥ることもなくひたすら創作に専念し得るという幸福が与えられました。啓蒙主義がその世俗的な考えをしだいにあからさまに押し出してきた時代であったにもかかわらず、バッハは泰然自若として彼のプロテスタント正統派の立場を守りつづけます。私たちが今から教会暦にもとづく祝祭日にのぞんで数々のコラール前奏曲、つまりバッハが言葉──「主の御言葉こそ進みにすすめ」という意味での言葉──に忠実に奉仕しながら作曲した復活祭、聖霊降臨祭、クリスマスなどの聖書章句を聴いてみれば、バッハに見られるこのような信仰が人生にもたらす確固不動とした態度を再認識するでありましょう。多声的音楽がより和声的に基礎づけられた音楽に席をゆずり、すでにソナタという新しい形式が胎動し始めていた時代であったにもかかわらず、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは『フーガの技法』によって彼の作品と古き時代とをみごとに完結したのであります。

エーミール・シュタイガー『音楽と文学』


バッハはバロック音楽の時代の最後の人と言われています。その後に開かれた時代を、フリーデマンやエマヌエルといった息子たちが牽引しました。バロック音楽からロマン派へという、革命とも言えるこの変化はハイドンモーツァルトベートーヴェンへと連なり、現代まで続くクラシック音楽の基盤となっています。バッハは「マタイ受難曲」、「平均律クラヴィーア曲集」、「フーガの技法」などを作り上げ、そのバロック音楽自体を完成させました。

 

バッハにおいては、音楽的な出来事は実に精緻そのもののように経過します。しかし主題は独立した生命を持ちうるほど分離して展開されていません。作品と作曲者との間の臍帯はまだたち切られていず、音楽はまだその創造主とぴったりと直接に結びついています。それゆえ彼の場合、ベートーヴェンの音楽が生命としている主題と主題の対立、「創造的な対位」というところまでは行っていなかったのです。しかしこの二人においては、──あらゆる差異があるにもかかわらず、──偉大であることの源泉は、客観的な創造への意志と巨大な主観性との両極端性を持っているという一致した点にあると思われます。
これこそロマン派がバッハにおいて共感し、バッハに魅せられた所以でありました。メンデルスゾーンは、彼の生涯にわたって、彼自身の作曲や、彼自身作曲したオラトリオの中でバッハの感動から免れることはできませんでした。このメンデルスゾーンによるバッハの再発見以来、ロマン派はバッハの音楽の中に理想の典型を見つけた、と信じました。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー『音と言葉』


フォルケルの、多くのバッハの資料による知識と、バッハの息子たちによる情報提供によって進められた研究は、やがて本書の完成によって形となります。1802年のこの発表より、徐々に当時の音楽界ではバッハ芸術の見直しが行われました。そして1829年の、若きメンデルスゾーンによる百年ぶりの「マタイ受難曲」再演は聴衆へ凄まじい衝撃を与えて、バッハの天才性を再考するに至りました。ここから、バッハの声楽曲が見直され、改めて光が当てられました。時代の変化によって埋もれかけていた「名オルガニストとして知られた真の音楽家」を掘り起こし、世に再考させる機会を設けます。フォルケルのかき集めた資料や楽譜は、現存する貴重なバッハの遺物として残され、現代においても研究材料とされています。

 

ライプツィヒ定期演奏会第十三回から第十六回について)
最も深い印象を与えたのは、クルツィフィクスス(Crucifixus)だったろう。これは、バッハのほかの曲以外には匹敵するもののない傑作で、あらゆる時代のあらゆる大家たちがすべて頭を下げるにちがいない。
第二部はヘンデルの作品だったが、こういって失礼でなければ、バッハの前にききたかった。バッハの後では、あまり深い感銘を与えない。

ロベルト・シューマン『音楽と音楽家


クラシック音楽の父」と言われる評価の根源は本書にあります。フォルケルの狂信的なバッハへの熱意が、新たな時代の流れを畝らせ、結果的にロマン派隆盛の足掛かりとなったと言えます。前述した多くの作品の殆どが、地方の名オルガニストという評価だけで、過去に埋もれてしまっていたままだったらと考えると、現存するクラシック音楽がどれほど欠けていたか想像もつきません。偉大な作曲家を生んだ根源的な作家であるバッハ。未読の方はぜひ読んで、また、聴いて楽しんでみてください。

では。

 

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『ユモレスク』久生十蘭 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

現役の作家のなかにも熱狂的なファンの少なくない、鬼才、久生十蘭の精粋を、おもに戦後に発表された短篇から厳選。世界短篇小説コンクールで第一席を獲得した「母子像」、幻想性豊かな「黄泉から」、戦争の記憶が鮮明な「蝶の絵」「復活祭」など、巧緻な構成と密度の高さが鮮烈な印象を残す全15篇。


異端作家として名を残す久生十蘭(1902-1957)は北海道の函館で生まれました。母は船問屋(商船取引の積荷管理や船主との契約取次など)を営む家の次女で、父はその番頭頭でしたが、幼少期の殆どを母方の祖父の元で養育されました。荒くれた素行の悪さが目立つ学生で、函館中学校を中退し、上京して聖学院中学校に入るも中退するといった状況でした。帰郷すると函館中学の先輩にあたる長谷川海太郎林不忘牧逸馬、谷譲治の筆名で活躍した作家)の父が経営する函館新聞社で厄介になります。芥川龍之介をはじめ、文学への興味が強かったこともあり、職務はジャーナリストから文芸欄編集へと移行していきました。演劇に関心を持つと、戯曲を書き上げるなど、自らも執筆を進めながら編集業に携わります。そして自身の作品を文芸欄へ掲載し始めると、やがて岸田國士に師事し、「悲劇喜劇」の編集にも携わるようになりました。

十蘭は1929年、フランスへと渡ります。パリ物理学校でレンズ光学を学びました。突然の方向転換ですが、二年後にパリ市立技芸学校で演劇を学んでいることから、内輪である種の取り決めがあり、口実として勉学のために渡って、その後に本来の目的の演劇を研究したと勘繰ることができます。その後、モンマルトルのアトリエ座主催者シャルル・デュランとの縁を繋ぎ、演劇を深く理解することになりました。帰国後、研究の成果を活かして新築地劇団で力を発揮しようとしますが、意見が合わずに間もなく脱退しました。


その当時、函館中学校の後輩である水谷隼総合雑誌新青年」の編集長を務めていました。江戸川乱歩横溝正史などが連載した人気雑誌で、前述の牧逸馬小栗虫太郎夢野久作などを輩出しました。十蘭はフランス文学の翻訳を中心に投稿していましたが、やがて掲載が続き、初小説『黄金遁走曲』を発表します。好調に執筆を続ける最中、師の岸田國士より声が掛かり、文学座へ参加して演劇にも力を振るいます。執筆、演劇と忙しいなかで文壇の地位を固いものとすると、大作『魔都』を書き上げて、久生十蘭の名を世に知らしめました。しかし第二次世界大戦争における国内の戦禍が広がると、十蘭は海軍に招聘され報道班として台湾、フィリピン、インドネシアニューギニアへと派遣されます。過酷な環境下での生活に苦しみ、消息不明の危機にまで侵されますが、翌年には帰国して終戦まで疎開しました。その後も作品を書き続けましたが、1957年に食道癌で亡くなりました。


十蘭は、フランスに渡った実地での経験や、飽くこと無き探究心によって蓄えた膨大な知識、調べに調べた各国の情勢、そして自身の戦争体験と、多面体のようにそれぞれが個性の礎となり、また共鳴し合って生み出される独特の文体を帯びさせて、亡くなるまで幾つもの作品を世に出しました。

他国の言語を自在に操り、他国へ行き来、或いは住み、感覚も日本人離れした登場人物たちが、それぞれに長けた深い知識を披露する、洗練された人物像から滲み出てくる人間味。このような非日常を思わせる演出は、久生十蘭の意識的であり無意識的である意図を持って描かれています。彼の作品は、主に第二次世界大戦争後に書かれています。当時の情景は、比喩的にも現実的にも、見渡す限りの荒廃と虚無に覆われ、飢餓と貧困に背中を突かれるような様相で、町の人々はその互いの苦しい状況下で起こる小さなおかしみ、小さな笑いに、無くは無い希望の種を見出して暮らしていました。そのような、戦後のささやかな微笑ましさを文学に乗せる文壇風潮を全否定して、彼は独自の作風で作品を生み出します。そして込められる非日常感には、荒廃と虚無からの脱却が通底する願望として存在しており、登場人物たちの性格に反映していると言えます。

 

これまでの日本の読書界で喜ばれてきたような、人間的な苦悩の露呈、いかに生くべきかという指針、愛と死の葛藤がもたらす教訓等々の、なにがしか人生論的なものが小説なのではない、その蔭には実は嫌味なうなずき合いが取引されているのだと、エンタテインメントに本能的なうしろめたさを感じる読書傾向こそおかしいのだ

中井英夫久生十蘭論』


文体に独自性が感じられる一つの要因として、改校に改校を重ねて隙の無い作品を作り上げるという手法が挙げられます。本書に収録されている『母子像』はその典型的な作品と言えます。第二十六回直木賞で『鈴木主水』を強く推した大佛次郎の助言もあり、「作家の新聞」と呼ばれるニューヨーク・ヘラルド・トリビューン主催の世界短篇小説コンクールへ参加しました。訳業は吉田健一が請け負い、見事に第一席を獲得しました。作品を書き上げた当初は百枚以上にわたる長篇作品でしたが、校正を重ね、削りに削ってその鋭さを読者に突きつけるという手法に拘り、作品を二十枚に圧縮しました。補足や説明を付け加えていくならば何百枚でも書くことができますが、十蘭は余計なものを排斥し、撓みを無くし、文体を絞り上げました。このようにして、十蘭の矜持によって作り上げられた数々の作品は、冷酷とも言える沈着な視線が感じられ、作家と作品に距離を置いた冷静さが内容をより一層に、突きつける感覚を鋭敏に尖らせています。


不動の作風を貫いた十蘭は、文壇においても特異な立場を維持していました。変格探偵小説作家として、小栗忠太郎や夢野久作と並び称されることもありますが、彼らは文体そのものが特異であった言えます。戦前は、大衆文学作家でさえも独自の文体や構成を持っていたものでしたが、戦後となると、そのような風潮は蔑ろにされ、似たような身の上話や同情話が量産されていきました。当然、戦後を生きる、生き延びるための希望や指針が示された作品は、なるほど当時においては多くの読者の心を救ったかもしれません。しかし、文学の核とも言える作風というものを、前に並べた作家たちは重要視し、突き詰めて追究し続けました。使い捨てのように読まれては薄らいでいった作品群とは明確に区切りを付け、今なお読者に鮮烈な印象を与え続けています。


本作『ユモレスク』は雑誌掲載時の作品名で、単行本化以降は『野萩』と改題されています。しかし、前述の通り、十蘭は改校を繰り返すことで、物語の内容さえ変えてしまいます。本稿では『ユモレスク』について記述していきます。この物語は、生粋の江戸っ子感情がフランスの幻想文学世界に入り込んだような、独特の世界を作り上げています。遊学中の伊作を追って、一人パリへと向かった母やす。豪気さの奥に見える不安も、出会う親切な女性に助けられて、安堵の気持ちを得て調子を取り戻すと、やすの姪にあたる滋子に迎えられ、伊作との再会に臨みます。ふらふらと漂うように過ごす伊作は、なんだかんだと他事に出て、遥々やってきたやすはなかなか会うことができません。伊作から電話が掛かり、先に杜松子(ねずこ)という女性が向かうから自分が行くまで相手をしていてくれ、という旨を話し、彼女がやって来ます。互いの素性を伝え合うように会話をしていると、衝撃の知らせがやってきます。そして全てを予め理解していたかのように一筋の涙を流すやすは、穏やかにある決意をさり気なく吐露します。


幻想的な出会いと、現実的な機縁が入り混じり、一陣の風のように切なさが吹き抜けていくような筆致は、作家と作品の距離を明確に保ち、それ故に読者にも物語としての無念を直截的に伝えてきます。やすの強い再会の望みは、やすが既に心得ていたであろう悲劇的な終幕の予感を考えると、ただただやり切れなく、儚さがとめどなく襲ってきます。

 

十蘭は死ぬまで、ある一筋のことをかたくなに守り通したその態度は、一種壮烈な趣きがあって、文壇的には当然孤立した地位にいたが、その生前から一群の、非常に特殊な読者層を作り出している。それは、ホームズの信徒のシャーロキアンに倣っていえば、ジュラニアンとでもいうべき人たちで、この人々の誇りと訝しみは、こんなにも豊醇な美酒が、ただ自分らだけのために用意されていいものだろうかという点にあった。

中井英夫久生十蘭論』


ジュラニアンは少数派と言われますが、現在にも及ぶこのような文壇風潮を考えると、それは至極当然なことであり、その価値を真に受け止めることができる人間は限られてくると思われます。そして、「ある一筋」について、中井英夫はこのように述べています。

人間の熾烈な願望が激しければ激しいほど却って救いのない荒涼とした地獄へ追い落とされてゆくという、生涯を通じて描き続けたパターン

中井英夫『戦争と久生十蘭

『鈴木主水』の「主水」しかり、『黄泉から』の「おけい」しかり、『母子像』の「和泉太郎」しかり、そして『ユモレスク』の「やす」しかり。物語の中心に据えられる人物は、みな激情とも言える熱意で一点の幸福、一点の使命、一点の欲望を抱きます。他を寄せ付けない一途な感情が、それらを叶えんと熱く静かに動き出します。しかし、思いは遂げられず、多くが生命燃え尽きます。そして、彼らの抱いた種々の愛を昇華させるように生命を落とす様は、憐憫が漂うと同時に、一切を消し去ってしまう虚無感を残します。人間が求めれば求めるほど、期待は高まり、やがて目の前の現実として現れた途端、幻のように霧散してしまい、荒れ果てた一切の破滅へと突き落とされるという事実が、読者に提示されます。そして、読後に吹き抜ける寂謬は、幸福の欠片を纏った哀惜として心を締め付け続けます。

 

人気の確立したひとでありながら、その人気を平気で振払って、いつも新らしい顔を見せている。読者に目移りさせて了って、完成を感じさせないのだ。その実久生君の過去のどの作品を取上げても直木賞に値していたのである。

大佛次郎 第26回直木賞選評

作品を読むたびに新鮮な驚きと変わらない見事な文体を見せて独自の世界を見せる久生十蘭。未読の方はぜひ、体感してみてください。

では。

 

『情事の終り』グレアム・グリーン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

私たちの愛が尽きたとき、残ったのはあなただけでした。彼にも私にも、そうでした──。中年の作家ベンドリクスと高級官吏の妻サラァの激しい恋が、始めと終りのある〝情事〟へと変貌したとき、〝あなた〟は出現した。〝あなた〟はいったい何者なのか。そして、二人の運命は……。絶妙の手法と構成を駆使して、不可思議な愛のパラドクスを描き、カトリック信仰の本質に迫る著者の代表作。


ドイツのポーランド侵攻より始まった第二次世界大戦争の只中、1940年5月に英国では反ファシズムの期待からウィンストン・チャーチルが首相として選ばれました。保守党、労働党が並ぶ挙国一致の内閣(第一次チャーチル内閣)を発足し、英国を勝利へ導くと演説し、労働党からの支持を高めます。ドイツの止まらない侵攻に備えることが最重要項目であったため、英国の体制を整えようとしましたが、その発足日にドイツは中立を宣言していたオランダ、そして併せてベルギーに布告なく侵攻します。英国は、オランダ女王ウィルヘルミナ女王を国内へ保護し、オランダを軍総司令官に委任しました。その後も進軍が止まらないドイツ軍にフランス北端ダンケルクまで追い詰められていた英仏連合軍から、チャーチルは英国軍を撤退させて自国の守護を指示します。当然ながら残されたフランスはドイツの猛攻を受け、フランスの北半分を制圧されます。これがドイツの傀儡政権ヴィシー・フランス成立の足掛かりとなりました。ここを拠点としてドイツは英仏を隔てるドーヴァー海峡を越えて空からの侵攻を始めます。次々と落とされるドイツ空軍による爆弾や機銃掃射はロンドンの街を襲い、多くの民間人に恐怖と被害を与えました。英国本土侵攻の前哨戦としての色が強かったこの英国の制空権争いは、英国空軍の活躍と英国民間人による協力体制、まだ中立を保っていたアメリカからの経済的な支援などによってドイツ空軍を疲弊させ、英国本土への上陸を諦めさせました。「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる激しい航空戦を制した英国は、これらを指揮したチャーチルを強く支持し、第二次世界大戦争が終息するまで体制を維持しました。


グレアム・グリーン(1904-1991)はオックスフォード大学を中退するとジャーナリストの道へと進みます。地方誌ノッティンガム・ジャーナルの副編集者となった彼は、カトリックである女性に惹かれて文通を始めます。彼女との関係は順調に近付いていきましたが、カトリックの教義という面で大きな壁を生んでいました。結婚を意識し始めたグリーンは、彼女を底から理解するためにも自身の改宗は不可欠であると理解し、そのように実行したうえで彼女と婚姻を結びました。その後、職場をタイムズ紙へと移すと、並行するように小説作品の執筆に励みます。これは大衆小説であり、エンターテイメント性が読者に受け入れられ、作家として進んでいく基盤を構築することができました。その中で、彼がカトリックへ改宗したことによる心境の変化、環境の変化、規制の変化、自身の目線の変化、感受性の変化、などが影響して、単純なエンターテイメント小説ではないものを書きたいという欲が生まれます。彼自身、エンターテイメントと小説、という分け方を意識して執筆していたことも後年に明かしています。こうして生まれた「小説」側の作品は、カトリックを中心とした宗教問題を携えており、世間では彼をカトリック小説作家、カトリック教徒の作家、などと呼ぶようになりました。グリーン自身はこの呼び名を望んではいませんでしたが、作品に描かれる主題は宗教問題を背負っているだけでなく、現代世界の矛盾する道徳的な問題、或いは政治的な問題を探求しており、名実ともにカトリック小説の素晴らしい作家であることには変わりありません。本作『情事の終り』は、彼の生み出したカトリック小説で代表的なものであり、それらの問題の核とも言える存在論が繰り広げられている作品です。


小説の舞台は戦時中のロンドン。語り部のモーリス・ベンドリクスは辛辣で皮肉な大衆小説作家で、次作の創作活動の一環として高級官吏の取材を求めていました。徒歩数分に住まうヘンリ・マイルズを対象者として見据えた彼は、その夫人サラァ・マイルズに近付きます。しかし、二人の関係はインタビュアーとしてではなく男女の関係となり、愛を育み始め、濃厚な関係へと変化しました。何度も繰り返される逢瀬によって、ベンドリクスは独占欲が高まっていき、サラァに対して嫉妬心を募らせていきます。彼女の淫蕩は、いずれ対象を変えるのではないか、自身は飽きられて捨てられるのではないか、そのような不安が憎悪へと変化していきます。そのような感情変化でありながらも愛は変わらず育まれ、逢瀬を繰り返していた最中、ドイツの新兵器V 1爆弾が付近に着弾し、ベンドリクスは扉越しに吹き飛ばされました。サラァが近寄って彼の死を確信すると、彼女は崇めたことのない神へ、彼との関係解消を捧げて、彼の生命の復活を祈ります。その祈りを終えた直後に意識を取り戻したベンドリクスが近付きました。彼女は捧げた誓いを守るため、救ったベンドリクスの生命を守るため、関係を解消して彼の前から姿を消そうと努めます。彼女の神への思いは、自身がベンドリクスに会えず苦しめられている気持ちが膨らみ、やがて神に対して憎悪を抱き始めます。しかし、その憎悪はやがて神への愛との対話へと変わり、抱くことのなかったカトリシズムに目覚め、彼女自身がカトリックへの改宗を望むことになりました。それはカトリックの教義によって離婚が成立できないということであり、永遠にベンドリクスと結ばれることはなくなることを意味していました。苦悩が絶えず心を掴んでいた彼女は、やがて病苦に苛まれ床に臥してしまいます。


これらのサラァの感情変化を日記から教えられたベンドリクスは、全てを受け止め、自身の抱いたサラァへの憎悪を恥じ、新たな二人の関係を構築するために奔走しますが、彼女の病苦の方が重く、叶うことなくサラァを見送ることになりました。全てを知ってしまったヘンリもまた、自身が女性を幸せにできなかった後悔と恥の念を抱きながら、打ちひしがれていました。全てを明かされたベンドリクスは、ヘンリに対して徹底的に紳士であり、同情の念さえも表し、そこに憤怒を超えた絆を見たヘンリは、友情を強いものとします。そして、ベンドリクスはサラァを奪い去った「神」に対して強い憎悪を抱きながら、二人で歩んで行きました。


ベンドリクス、ヘンリ、サラァは、世間の様相とは一線を画した世界で生きています。食糧配給の行列を脇目に情事に耽る男女、英国の勝利のために協力しようと尽力する民間人に関心を示さず、爆撃による死は致し方ないものと受け止める投げやりな思考放棄、グリーンの描く三人の世界は「堕落的」であると言えます。しかし、当人たちにしてみれば、それらの重大な事物よりも「愛憎」が優先されており、また、その思考を衰退とは受け止められない回路で動いています。愛憎の燃え上がり、頽廃的な肉体の快楽、信仰を犯す道徳的な罪、精神に入り乱れるこれらは絡み合い、共に堕ちていきます。戦争における肉体と精神は、ある種の腐敗を生み出します。そこには神が介在し、頽廃的な愛を憎悪へと変換させる力を持っています。カトリック信仰という三位一体は、自由主義的、人本主義的な離婚観に対して、神が導き手となった一つの解答を定めています。それは快楽や罪を全て浄化させるとともに、在命時の幸福も併せて消し去ってしまいます。


サラァがヘンリと離婚に至らなかった理由は、現実的な一つの解釈を考え出すことができます。サラァの母が希望を持って最初の夫と離婚をしたが、次の結婚によって更なる不幸を招いたという経緯により受けた印象が、サラァにとって離婚が事態の解決になるという考えが持てなくさせていた、と推測できます。しかし、結果的に離婚を求めないカトリックの意向に沿う行動を取ったことは、サラァの記憶に残らないほどの幼い頃にカトリックの洗礼を受けたという事実が浮かび上がることによって、超常的な力の作用が働いているという考えを呼び起こします。この超常的な力は、探偵の息子の病の快癒、無神論者の赤痣の快癒、と立て続けに発揮され、ベンドリクスとともに読者の心情も「神の存在」を認めざるを得なくなってきます。そしてベンドリクスは「神」へ悲痛な祈りを捧げます。

 

ほくはあなたの狡猾なことを知っている。われわれを高いところへ連れて行って全世界をやろうと言ったのがあなただ。あなたも悪魔です、神よ。跳躍せよと誘っている悪魔です。だがぼくはあなたの平和もほしくないし、あなたの愛もほしくない。ぼくは単純な、たやすいことを欲しただけです。一生涯のあいだだけサラァをほしいと思ったのに、あなたは彼女を連れて行ってしまった。あなたの雄大な計画によって、あなたは麦刈が野鼠の巣を壊すようにわれわれの幸福を破滅させるのだ。ぼくはあなたを憎みますぞ、神よ、あなたが存在するかのごとくにあなたをぼくは憎みますぞ。


救いを得るために、神の存在を認めさせようとするカトリックに対して、神を認めたうえで救いを放棄することを願うという痛切な皮肉は、読者の心に強烈な強さで楔を打ち込みます。本作はグリーン自身の実体験も含まれています。カトリックに改宗して結婚した後、別の女性を愛して約二十年間も情事を繰り返していました。カトリックに基づき離婚ができないという苦悩の心理描写は、彼自身が経験したものと重なるものがあると思います。人間にとっての「神」、人間にとっての「幸福」、これらを思い返す良い機会となる作品でした。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『自省録』マルクス・アウレリウス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

アウレーリウスはローマ皇帝で哲人。蕃族の侵入や叛乱の平定のために東奔西走したが、わずかにえた孤独の時間に自らを省み、日々の行動を点検し、ストアの教えによって新たなる力を得た。本書は静かな瞑想のもとに記されたものであるが、著者の激しい人間性への追求がみられる。古来、もっとも多く読まれ、数知れぬ人々を鞭うち励ました書。


ローマ帝国の全盛期と言われる一世紀末から二世紀末、皇位争いも無くなり、政治も安定し、他国の侵略も目立たなくなってきた時代、この期間を収めていた皇帝を五賢帝と呼びます。ネルウァトラヤヌスハドリアヌスアントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス(121-180)、帝国領土を最大としていながら、かつてない安定を見せたローマ帝国は、五賢帝による哲学的な統治が効果を見せました。人々はストア哲学を基盤とした徳と理性に重きを置き、神や自然と人間という考えを基に、安定した生活を望むことによって穏やかな帝国を維持します。それまで、特に政治の中枢にいる人間による血生臭い地位の落とし合いが絶えませんでしたが、五賢帝の統治手腕だけでない皇帝としての生き方が、ストア哲学の裏付けとなって浸透しました。そして、このストア哲学を最も理解し、最も自らの人生に取り込んだ賢人が全盛期最後の皇帝マルクス・アウレリウスです。


彼は早くからストア哲学に傾倒し、神学校で宗教を学び、法務や思想も取り込んでいきました。彼は学び追究することに喜びを覚え、机にじっくりと向かい合う哲学者を目指しました。この思想を全霊で受け入れ、生涯貫き通した彼の心身の隅々は、いつしかストア哲学の体現者としての存在を目指し始めます。このストア哲学は、紀元前300年にゼノンが創始し、ギリシャの地で発祥しました。それが、四百年経った当時に、五賢人によってローマ帝国に幅広く普及することになります。絶対的な立場の皇帝が正と定めるこの哲学は、半ば強制的でありながらも、国民は賢人たちへの敬いの念から素直に受け入れ、自然とローマ帝国全土で広がることになります。不遇な善の人セネカ、ストア主義中核の人エピクトテスなどを生み出した後期ストア哲学は、彼に強い感銘を与え、自らも哲学者たらんとする意思を育て、追究に拍車を掛けます。そしてアントニウス・ピウスより継がれた皇位を、マルクス・アウレリウスストア哲学をもって果たそうと奔走しました。哲人皇帝呼ばれる所以はここにあります。


ストア哲学は「物理学」「論理学」「倫理学」の三部分に分かれています。物理は、自然(宇宙)と我々人間の位置を理解するためのもので、広大な宇宙の、僅かな地球の、僅かなローマ帝国の、僅かな生活に身を置くものであり、そしてその僅かなものに神は生きる術と意味を与えた、という考えです。次に論理は、自然(宇宙)に従った生き方として、人間として生まれ、人間として生きるため、何を目的としているか、或いは何を目的とすべきか、を考えます。そして倫理は、宇宙は一つ、神は一つ、物質も一つ、それらが制約と変化をもって時を経るなか、どのような精神を保ち、どのような思想をもって暮らすべきであるか、を説きます。

これらを繋ぐ考えとして、自分の中に宇宙の一部(もしくは神の一部)が存在して、その宇宙は人間の行動による因果によって変化し、徳が善悪に傾きます。これらを善に導こうとする意志こそが必要であり、そのためには人間がどのようにして成り立っているかを考える必要があります。ストア哲学においては、人間は肉体、霊魂、指導理性(叡智)から成る、と考えられており、自身の心によって左右できるものが指導理性であるとしています。この指導理性こそは、宇宙の一部、神の分身である「ダイモーン」と定義されています。これは、人間が人間であるためのものであり、内に住まう神の存在と言えます。


これらの信条(ドグマ)より、神を敬う自身、社会における自身、自己を律する自身を明かし、どのように生きねばならないかという義務が現れます。それぞれの目線(立場)の自身の根源はダイモーンの存在であり、無視することはできません。不死の絶対的な神を確信し、人類を生かす世界を構築する一部となり、そのなかで人間が神の一部であるダイモーンを指導理性をもって、神の意向に沿う生き方を目指さなければなりません。つまり、生命を与えられた時から生命の義務は与えられており、神に創られた目的を果たすことこそが根本的な生きる目的であると言えます。人間は、自然(宇宙)を受け入れ、肉体的衝動や名誉欲などに振り回されてはならず、人間として果たすべき目的を見失わないようにしなければなりません。そして、やがて来る死は生を終えるものであり、恐怖を抱くものではなく、受け入れて自己を恐怖から解放しなければなりません。生への執着は自身の驕りであり、神の与えた目的に反しているとします。


また生きるうえで、自身のなかの悪徳を制御し、外部(他人、社会、自然)はどうにもならないこととして理解し、疾病、貧困、不名誉などを欲に結びつけないことを求められます。病苦も神が与えたもの、貧苦も神が与えたもの、名誉などは死すれば何の意味も持たないもの、そのような達観とも言える徹底さをもって人間としての生を全うすることを求めます。常に、欲を抱いても忍び、決して求めないことが必要で、生きている現在を、どれだけ徳に溢れた過ごし方ができるか、ということを意識しなければなりません。自身の心によって外部からの影響をどうにでも解釈できることとして受け止め、ダイモーンを(神の意向である)指導理性によって導き、神に与えられた目的を果たそうとする使命を抱いて、穏やかな心の平穏を保つことが重要です。そして、これこそが人間の幸福であり、身に付けた徳により精神の平穏が与えられるという考え方です。


このように宇宙の自然を受け入れ、平穏な心を守り抜くことで、自身を不動の心(アタラクシア)への到達を目指すことが到達使命であり人間の幸福な姿であるとしています。しかしながら、現実においては当然、外部から超えがたい障害が襲い掛かってきます。それらをどのように外部(どうにもならないこと)として理解し、湧き起こる悪徳による欲望を排除し、神が与えた自然として受け入れ、死を恐れず、不動心を保ち続けることができるか、またそれを信念として抱くことができるか、そのように自身を律し、幸福を目指さなければなりません。


マルクス・アウレリウスはこれを徹底追究し、遂行して人生を歩みました。ローマ帝国激動の時代に皇帝として据えられ、哲学者として生きたいという心を押し込め、幾戦もの戦いのなかで自身を律し、最後までストア哲学を守って生き抜きました。そのように生きた彼の著作『自省録』は、場所もさまざま、状況もさまざまな環境で、瞑想し、自身を律するために綴り続けた手記です。断片的に綴られる幾つもの言葉は、彼の思考運動を読み取ることができ、そのなかから滲む苦悩や憤怒は、読む者へ痛切に響きます。異人による侵略、川の氾濫による洪水、各地での疫病の蔓延など、在位中に次々と起こる問題に対して誠実に向き合う彼には、腰を据えて机に向かう時間は限られていました。ただ人間として生きるだけでなく、皇帝としての荷を抱え、それらを自身の哲学に則って多くの悩みと対峙しました。どれほど身体が疲れ、心が疲れても、その哲学は曲げず、人間の幸福と人間たちの幸福を求め続けました。そして彼は心の内にこそ善の泉があり、それは求めるだけ溢れ出るという真理に辿り着きます。

 

身体、霊魂、叡智、身体には感覚、霊魂には衝動、叡智には信念。感覚を通して印象を受けることは家畜どもにも見られる。衝動の糸にあやつられることは野獣や女のような男やパラリス(ファラリス)やネーロー(ネロ)でもやる。また義務と思われることに向って叡智を導き手となすことは、神々を否定する者や、祖国を見棄てる人間や、戸を閉めてから万事を行う連中でもやることだ。
さてもしすべて他のことは以上のものに共通だとすると、善い人間に特有なものとして残るのは、種々の出来事や、自分のために運命の手が織りなしてくれるものをことごとく愛し歓迎することである。また自分の胸の中に座を占めるダイモーンをけがしたり、多くの想念でこれを混乱させたりせずに、これを清澄にたもち、秩序正しく神にしたがい、一言たりとも真理にもとることを口にせず、正義に反する行動をとらぬことである。そして自分が誠実に、謙遜に、善意をもって生活をしているのをたとえ誰も信じてくれなくとも、誰にも腹を立てず、人生の終局目的に導く道を踏みはずしもしない。その目的に向って純潔に、平静に、何の執着もなく、強いられもせずに自ら自己の運命に適合して歩んで行かなくてはならないのである。


「生きることを読む」という体験は、非常に貴重な時間です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『海の沈黙』ヴェルコール 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

ナチ占領下のフランス国民は、人間の尊厳と自由を守るためにレジスタンス運動を起こした。ヴェルコールはこの抵抗運動の中から生まれた作家である。ナチとペタン政府の非人間性を暴露したこの2篇は、強いられた深い沈黙の中であらがい続け、解放に生命を賭けたフランス国民を記念する抵抗文学の白眉である。


1940年、第二次世界大戦争の初め、攻勢の著しいドイツはフランスへと侵略し、パリを占拠して降伏させました。フランス北部にヴィシー・フランスというドイツの傀儡政権を樹立し、第一次世界大戦争時の英雄フィリップ・ペタンを据えて国民への理解を示そうとします。しかしドイツの支配は勢いを増し、フランス国民に対する締め付けを強化していきました。1942年、ヴィシー政府はドイツの軍需支援を目的とした労働者を募る強制旅行局STO(Service du travail obligatoire)を設置します。フランス人捕虜の代わりにドイツへの労働を目的とした派遣募集でしたが、拒否した者には食糧配給を停止するなど、強制的なものであったため免れることはできませんでした。この義務協力労働から逃れようとした人々は、山岳地帯へと籠って反ヴィシー政府を掲げたレジスタンス(マキ)として組織していきます。その一つの山岳地帯がヴェルコール山塊という場所でした。1943年、シャルル・ド・ゴール将軍などのドイツ支配を拒否した亡命者を受け入れた英国は、レジスタンス側への援助として特殊作戦執行部(SOE)を送り込み、ドイツ軍へと抵抗をより強めていきました。衝突が激しくなり、レジスタンスの勢いが増していくとナチス側も見過ごすことができなくなっていきます。そして1944年7月、全面的なレジスタンスの掃討に乗り出すと、ドイツ軍は上空からの爆撃や機銃掃射などを行い、このヴェルコールの地は民間人の被害を多く出しながら制圧されてしまいました。


一方で、義務協力労働によって若く活力のある人材がドイツへと向かったため、フランス国内では成人に満たない者や歳を重ねた者だけで暮らす家庭が増加しました。これはフランスの戦力を削ぐという意味合いもありました。フランスのパリをはじめ、駐留するドイツ軍人たちは、それらの住む家屋へ住まい、生活を始めます。暴力を振るわれる者、給仕のように扱われる者、性的な被害を受ける者、何もされない者、そこに住まうドイツ軍人の性格によって、様々な扱いを受けました。


作家志望の挿絵画家であったジャン・ブリュレール(1902-1991)は、ドイツ占領下における文学の在り方に憤りを感じていました。ドイツの出版管理によって親独に背く作品は全て禁書として烙印を押され、一切の出版を禁じられました。それに迎合する作家たちが、ドイツ賛歌の作品を生み出すことに対しても疑問を抱き続けます。過去にフランスが生んだ偉大な作家、素晴らしい作品に対する冒涜であると考え、また、それらをも支配しようとするドイツに対抗意識を燃やします。そして彼は「ペンを用いたレジスタンス」を目指します。確固たる意志を築いた彼は、ドイツとヴィシーに対して真っ向から挑む形で、地下出版という手法で出版社を立ち上げます。文学の国を潰えさせないためにも、フランスの誇りを潰えさせないためにも、彼は絶対的な信念を持って戦います。そして立ち上がった出版社が「深夜叢書」(Les Éditions de Minuit)です。同時に刊行した第一作は彼自身が書き上げた『海の沈黙』でした。ヴェルコールという、レジスタンスたちの聖戦の地、或いはそれらの志を掲げた筆名で出版した本作は、真に命懸けであり、ドイツとヴィシーに対する反抗の姿でした。本作は、ドイツ軍の襲撃を受けて命を落とした詩人サン=ポル=ルーに捧げられています。


本作『海の沈黙』では、正義の心を持った元音楽家のドイツ軍将校エブレナクが、老人とその姪が暮らす家に住み込みます。エブレナクは片足が不自由でした。二人が主に過ごす居間に近付くとき、不規則な足音で彼の訪問がわかります。彼の態度はいつでも紳士的です。彼はフランスを敬い、フランス人を敬い、真に心を通わせようと試み、また彼らに対しても自分の思いを伝えようと弁舌を振います。とても穏やかで、そして熱意を持って、自分の考えを説き、フランスとドイツの親交を信じています。彼らは恐れを徐々に無くし、彼に関心を持ち始めますが、一切、その弁舌に対して返答を見せません。只管に沈黙を守ります。ある時、彼は古くからの友人の元へ会いに行くことを伝えます。期待と楽しみが入り混じった感情を見せながら、軽快に発っていきました。

二週間ほど経って、また不規則な足音が近づいてきました。そして戸口に現れた彼は別人のように打ちひしがれ、不幸を一身に背負った表情でした。彼はドイツがフランスと親交を結ぼうとしているのではなく、懐柔して屈服させようとしていることに気付かされました。彼が抱いていたフランスとの友好的な融合は夢と消え、持っていた希望は一縷も無いことを思い知らされて帰ってきました。

あの人達は焔をすっかり消してしまう。
ヨーロッパはこの光で照らされなくなってしまう。

憤りと諦めと絶望を抱えて、彼は軍に前線への異動を志願しました。「地獄だ。」という言葉は、コンラッド『闇の奥』を思わせる苦悩に満ちており、エブレナクが姿を消したことによる安堵はなく、残された者にも心を抉るような虚無感が残されます。

 

三年以上の間フランスの象徴は沈黙であった。群衆のなかでの沈黙、家庭のなかでの沈黙。真昼間ドイツの衛兵がシャンゼリゼを往来するが故の沈黙、ドイツの士官が隣の部屋に宿泊するが故の沈黙、ゲシュタポがホテルの寝台の下に録音器をかくすが故の沈黙、子供たちが空腹を訴えることができず、毎晩倒れる人質の体のために、翌朝いつも、一日が国民の喪ではじまるが故の沈黙。そしてまたわれわれの思想の沈黙、みずからを表現する力を奪われた作家たちに強制されている沈黙、世界の前での沈黙。

加藤周一 訳『海の沈黙』アメリカ版 序 M・D


ブリュレールは、本作を何よりも同国の作家へ届けようと奔走しました。自覚的、無自覚的に関わらず、ドイツへの協力(コラボラシオン)を助長させる作品を生み出している作家たちに、「文学でも対抗できる」という意思とその姿を見せ、共に同じ方向を向く希望があることを伝えようとしました。占領下の規制の中で生み出すことが「できる」作品は、フランスの文化そのものを崩壊させ、誇りとともに無に期してしまう。それを食い止めようとする強い意志が、本作のなかに何度も感じられます。作中で見られる「沈黙」という戦いは、文化を劣化させる作品を「出版しない」ということに通じ、ブリュレールがそのことに命を懸けたことは尊敬に値します。彼が発した抵抗文学は国境を越え、ロンドンのド・ゴール将軍にまで届き、さらに普及できるように支援を行いました。本作には「文学の誇り」と「人間の尊厳」が共存しています。静かな物語でありながら、読み進めるほどに高まる熱量は、ブリュレールの思いが我々に届いているように感じられました。未読の方はぜひ、読んで体感してみてください。

では。

 

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