RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『寝取られ宗介』つかこうへい 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

旅回り一座の座長・宗介は、ずっと籍を入れないままの女房レイ子と一座の若い男とをくっつける。そして、駆け落ちに破れて戻って来るレイ子をやさしく受け入れることで夫婦愛を確認していた。寝取られ亭主のマゾヒズムに快感を感じていた宗介だったが、死期を迎えた父親のため、家族、親戚、友人一同の前で、ついにレイ子と式を挙げることを決意する。しかし、その直前またしてもレイ子は駆け落ちを宣言。「もう帰って来ないよ」と言い捨て出て行ってしまう……という一座の舞台裏と呼応した劇中劇(若き日の徳川家宣と青砥芸者お志摩の許されぬ恋)が進行する。つかこうへいが、24歳当時に書き上げた人情喜劇の傑作。

 


第二次世界大戦争後、日本の演劇はアメリカの商業主義に煽られて、本来持ち得ていた反体制の思想が薄められていきました。興行収入を中心とした配役や演出が重視され、一つの大衆娯楽への様相を強めていきます。その風潮を食い止めようと、1960年台の安保闘争、或いは学生運動の畝りと重なり合い、反体制の色を強めたアングラ演劇が隆盛します。御三家と呼ばれる、唐十郎佐藤信寺山修司たちの演劇運動は、演劇の構造そのものを変革させました。物語を追う戯曲というだけでなく、劇場そのもの、上演される形態や役者たちの演技というものにも注目し、根幹から「演劇」に変化を与えます。こうした上演における反体制の思想は、その表現方法の変化から各々の作家の個性分析へと移り、独自の表現方法の追求へと向かっていきます。そのようなアングラ演劇ブームが思想から個性へと観客の目線が変わり始めたとき、つかこうへい(1948-2010)が現れます。


彼の演劇は、役者と必要最低限の大道具のみで繰り広げられます。何よりも「役者自身」で表現しました。それは、リアリティの追求によるものでした。作品は、作り上げた戯曲台本の登場人物だけでなく、舞台に立つ役者の中にこそあり、その役者の体調、心情、機嫌、不満、不安、歓喜などさえも考慮して演劇を作り上げます。役者がフィクショナルに表現しようとする、その根源のノンフィクショナルな部分にこそ、人間としての核があり、それらの交りが「一回きり」の演劇を完成させるという考え方です。こうして舞台に立つ一人ひとりの役者たちが「一つの演劇を形にしようとする意識」を持つことで、戯曲に込められた反体制的な思想が初めて訴える力を持つとしています。だからこそ、大仰な舞台装置や大物俳優を使うことなく、力強い演劇が成立します。

 

劇場空間というのは、現実の鏡であるけれど、現実そのものではない。ある意味、現実から一番遠いところである。そういう劇場で、現実を越えることの解明や、希望、道徳をみつけていかなくてはいけないんだよ。けれど今の若い演劇人たちはそこんとこをいとも簡単に芝居にしてしまっているという感がある。

『つかこうへいの新世界』


反体制的、或いは反商業主義的な考えは、どの演劇でも貫かれています。美しい物語性や一辺倒の恐怖や驚嘆を延々と与え続ける作品ではなく、いま現実社会が直面している問題とは何か、またはその原因は何か、ということを真剣に現実的に捉え、その解決策を「考えようとしなければならない」という大切なことを訴えます。耳障りの良い言葉、目に心地よい美しさを逃避的に与えるのではなく、直面しているリアリティを突き付ける強い信念を観客は感じさせられます。「芝居がお天道様の下、大手を振って歩きはじめたらダメなんだ」という、つかこうへいの言葉からも伝わるように、演劇だからこそできる訴えを放棄して、商業主義的に走ることを強く嫌悪していることが、彼のどの作品からも感じることができます。


当時の日本は、国策による高度経済成長の時期でした。「思想や道徳よりも資本である」という社会のもと、省みるべき家庭環境を見失い、暴徒化する学生運動で思想を見失うという時代に、何が問題であるか、という数分でも考えればわかることを当時の社会は理解できませんでした。利益が上がった、収入が増えた、そのような感情が先走り、真に人間に必要なものを見失っていました。そして、その必要なもの「愛情」に欠落を感じ、満たされない心は「絶対的な愛情を求めて犯罪を犯す」という、道徳を完全に失った事件が多発する時代へと移行していきます。こうして動機が「情」によって引き起こされる犯罪が増えていきました。つかこうへいの演劇には、「情の濃さ」が至る所で見られます。それは人間が最も大切にし、最も大切にしなければならないものであり、資本などに目が眩んではならないもので、人間性の構築に不可欠なものであることを教えています。そして、現実社会のような風潮にさせている国策に対して、反体制的に演劇で訴えています。

 

履き違えた民主主義の中で、いま、その尊厳を守り抜く可能性があるのは、なににも権力を介入されずに叫べる演劇だけなのかもしれない。だから、商業に走ったり、安易なあり方に逃げたりしちゃいけないんだよな。

『つかこうへいの新世界』


劇作家の堀内謙介は、つかこうへいの演劇を「人生の応援歌」だと語っています。人間は誰しも、頑張ることができない時がある、また、頑張らなければいけない時にも頑張ることができない。そんな人間像を生々しく登場人物として舞台に立たせ、そのなかで「少しでもがんばろう」という、背中を押すような言葉が含まれています。本作『寝取られ宗介』では、この人間としての生々しさにフィクショナルな「情の濃さ」を兼ね備えた登場人物が主人公に据えられています。舞台裏ごと見せる大衆演劇の世界は、劇中と舞台裏が行き来して、目紛しくも登場人物と役者(舞台上の)の心情が重なり合い、濃厚な物語となって突き進んでいきます。失われつつある旅回りの大衆演劇の世界を題材にしていながら、現実社会で失われつつある人情論を、荒唐無稽ながらもどこか共感せざるを得ない強制性をもって演じられます。これは、つかこうへい作品に込めらている「前向きのマゾヒズム」と称されるもので、前向き以上の攻撃性を持って、舞台を席巻します。道徳や思想を失った世間に在りながら、どのようにして人々は「人間としての希望」を持って生きていくことができるのかを問い掛けます。

 

バカのお前になんの役作りだ。役作りなんて出来る頭があったら東大行って大蔵省行ってるよ。おまえらは黙ってオレの言う通りにやってりゃいいんだよ。
気持ちなし!!いいか。人間てのは男と女とサルがいるんだ。そのサルが役者だ。復唱!!


一見突き放すような言葉は、全てを守ってやろうという意気込みが含まれ、その苦労を自らが喜んで背負い込もうとしている姿勢が見えてきます。このような台詞が、劇団を題材としていることもあって、つかこうへい自身の生の言葉のように感じる場面もあり、彼が抱いていた思想が心に流れ込んできます。表現には、差別的で品性の無い台詞が多く使用されていますが、だからこそリアリティを感じる点もあり、一概に否定できません。不快に感じる方も居られるとは思いますが、非常に深く考え抜かれた作品ですので、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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