RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ツァラトゥストラ』フリードリヒ・ニーチェ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

無限にゆたかな生命の海にふかく見入って、意志の哲学を思索し、「永劫回帰」の戦慄に耐えて存在の実相に徹する人間像への希望をうたうニーチェ。近代の思想と文学に強烈な衝撃を与えた彼の、今日なお予言と謎にみちた本書で、ツァラトゥストラは何を語るかーー

 

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)はプロイセン王国ザクセンで神に使える両親の元で生を受けます。信仰心を生まれてすぐに持つことになりました。音楽の才能に恵まれ、学生の頃には仲間に即興演奏を披露するなど有能なピアニストでした。哲学、芸術に関心を寄せてショーペンハウアーに傾倒します。

1848年に「ドイツ三月革命」でブルジョワジー(産業市民階級)が台頭し、表面的な民主化、実態的な保守権力の支配強化が進められ、その後に連なる宰相ビスマルク軍国主義推進による普仏戦争へと続いていきます。この戦争の勝利でドイツの資本は強化され、帝国主義を推し進め、ウィルヘルム二世が起こす第一次世界大戦争へと繋がっていきます。

 

没後、ニーチェ哲学はナチズムに悪用されます。

第一次世界大戦後の混迷した世相のもとで、自由な知的教養という理念の無力さが暴露され、この欠を補うものとして、全体主義の政治権力が台頭してくるにつれて、ニーチェの権力意志説がにわかに脚光をあびて登場する。たとえばアルフレット=ローゼンベルクやフリッツ=ギーゼなどという、ナチスの御用理論家(イデオローグ)たちによって、ニーチェは、ドイツ「第三帝国」の危機を救済するための全体主義権力を合理化する、反動理論の提供者に仕立てあげられもしたのであった。

ニーチェ Century Books 人と思想』

 

ニーチェの生涯に影響を与え続けた人物がいます。19世紀ヨーロッパにおける文化人の中心人物、ロマン派歌劇で「楽劇王」と呼ばれたリヒャルト・ワーグナーです。父親と同じ歳であるという親近感や、ショーペンハウアーに傾倒した哲学、そして文才も備えた芸術性に惹かれ、ニーチェは理想を共有し、良き理解者として肩を寄せます。家族絡みでの交遊が続き、互いの才を高めていきました。

生の哲学に関して、二人はショーペンハウアーのように「人生の本質は悲劇的なもの」であるという考えを根底に置き、それを受けてなお生きる為に行う内面努力の救いに芸術の価値を強調します。この人間意志の尊重は、互いの手法で表現されていきます。ワーグナーは音楽と文化全般において、ニーチェは新芸術を用いた文化の活性化において、それぞれ世に放ち理解を求めます。ニーチェワーグナーの音楽を、ソクラテスの合理主義の支配と戦うための新しいディオニュシアン芸術(陶酔的・激情的芸術)と捉えて、救いにおける最良の希望だと称賛します。

 

しかし、徐々に亀裂が入り始めます。ワーグナーの圧倒的な利己主義や反ユダヤ主義に基づく言動に違和感を覚えます。そして1876年、ワーグナーを中心としたバイロイト音楽祭が開催され、著名人たちと熱烈に交わす挨拶や、浅薄な祝いの儀式に辟易し、ニーチェは途中で会場を立ち去ります。この出来事を境に、ニーチェワーグナーを「大衆に迎合する音楽家」という見方を強くし、芸術の本質を見失っていると疑問を抱くに至ります。そして彼はワーグナーの音楽を退廃的で虚無主義的であると見做すようになり、救いにおける希望ではなく、人間の生きる存在の痛みを和らげる薬であると考えるようになりました。

ニーチェは、はじめ、〈ヴァーグナーはその芸術をつうじてわずかにおのれと語り、もはや「公衆」ないしは民衆とは語らない〉と信じていた。ところが、現実のヴァーグナーはどうであったのか。ニーチェは言っているーー〈あわれなヴァーグナー!どこへ彼は落ちこんだというのか!せめて少なくとも豚どものなかへと乗りこんでくれたらよかったのに!ドイツ人のなかへとは!〉。要するにヴァーグナーは反時代的人間として〈非民衆的〉であるどころか、その芸術は〈選りぬきの大衆芸術〉にほかならなかった。

『偶像の黄昏 反キリスト者』解説

 

思想の決裂とも言える衝撃は、ニーチェの哲学を加速させ、視界を広げます。成熟から晩年に該当するニーチェ哲学第四期は、『ツァラトゥストラ』から始まります。本作はそれまでニーチェが唱え続けた理想を、哲学思想として直截的に大衆へ啓蒙し、価値転換から創造した「超人思想」の理解を求めるものです。そして過去に囚われていた病とも言えるワーグナー哲学から解放され、克服した昂る気持ちを織り込んでいます。

この作品は、ニーチェの生涯における一つの高揚した瞬間を、つまりヴァーグナーに対する勝利を、象徴しているのだ。思想上の主著ではこの作品は断じてない。

『生成の無垢』解説

ニーチェバーゼル大学教授としての同僚であり、生涯の友人であるオーフェルベックに宛てた手紙でこのように伝えています。

ツァラトゥストラ』は、当分は、私の〈心を引き立て鼓舞する書〉であるというまったく個人的な意味しかもたないーーとにかく誰にとっても曖昧で隠されていて笑うべきものなのだ。

 

本作『ツァラトゥストラ』は、宗教の呪いとも言える神信仰の危険性や粘着性を説き、人生の苦難から信心へ逃避する行動を否定した「永劫回帰」説を展開します。

ニーチェは宗教の何を嫌ったのか。おしなべて宗教というものが彼岸に、すなわち神とかあの世とか無限性に道徳の尺度を求める態度を押しつけようとするからだ。そうではなく、もっとこの世に生きている人間の道徳が必要だとニーチェは考えたのだ。よって、ニーチェの思想は「生の哲学」と呼ばれることになった。

超訳 ニーチェの言葉』

 

ニーチェキリスト教に包まれた世界(当時のヨーロッパ)において訴える、必要な自己超克を三段階で精神的展開を提示します。「駱駝」「獅子」「小児」の比喩で精神的「三様の変化」を『ツァラトゥストラ』冒頭で語ります。

「駱駝」は尊敬と学びにより得たものを重荷として抱え、義務と禁欲を意味します。

「獅子」は尊敬と服従から解放され、自由意志の元での自己の尊重を意味します。

「小児」は無垢であるが故の忘却であり、新しい開始、或いは創造としての「然り」を意味します。

しかし独りになったとき、ツァラトゥストラはこう自分の心にむかって言った。「いったいこれはありうべきことだろうか。この老いた超俗の人が森にいて、まだあのことをなにも聞いていないとは。神は死んだ、ということを」

「神の死」はニーチェ哲学の根本思想で、人間存在の救いたる神的存在は、実際的な救いではあらず、「人間はなにゆえに?」の答えにはなり得ないという「駱駝」の精神否定を表します。しかし、「獅子」になることによる信仰からの自由と引き換えに、これまで信心より与えられていた人間存在の意味を失い、必然性を失った無価値の偶然とする虚無を確認させられます。

ニヒリズムを確認した上で、人間存在の価値をどのように構築するのか。彼は「然り」という語を「聖なる発語」として定義し、「小児」に必要な特徴は(囚われている)過去の忘却、(無から有への)新たな価値の創造であると説きます。偶然による無価値の人間存在であることを「然り」と受け止める、そしてその無価値の存在に新たな価値を創造する。

つまり、人間存在の価値を構築する為に生きるのであり、その模索が人間価値の創造に繋がると示しています。これを具現化する者を「超人」と呼び、この思想を「超人思想」と呼んでいます。

 

ニーチェの思想概念には「時間は無限、物質は有限」という考えがあり、偶然に合わさった物質で構築された世界は、また同様の偶然により、全く同じ世界の事象を時間の果てで繰り返すという「永劫回帰説」を唱えています。これは「生の肯定の最高形式」と言われ、虚無を受け入れたからこそ辿り着く生の境地として、だからこそ「今」を懸命に生きる事が人間価値に繋がり、超人となる考え方であると言えます。「これが生だったのか、よし、それならもう一度!」この価値の解放を自己の内面で起こす事が出来れば、超人への道を歩み始めることとなります。

ニーチェは、決して神に代わるものとして超人を説いているのではない。超人とは、何か固定した人間に超越的なあるものではない。人間は、「深淵の上にかかる一本の網」である。この虚無の上の渡りゆき(過渡)が、ニーチェによって超人思想となったのである。生を本来の根源性を回復した真実なものとして求めるとき、常に自ら越えつつ求められる世界である。

『概説 西洋哲学史

 

哲学詩でありながら文体は神話とも散文とも言える読みやすい描写で、ツァラトゥストラの行動や吐露する思考を追いかけながら進んでいきます。

 

ツァラトゥストラは山に篭り外界と距離を置き、孤独な生活に身を置いていました。ある時、「神は死んだ」という啓示を受け、その悟りを世に広めようと山を降ります。しかし、民衆に根付いた宗教思想(キリスト教など)は堅固で、その教えは民衆の持つ価値観の全てとまで浸透しており、ツァラトゥストラが説く思想は受け入れられません。

わずかな理解者である者たちを弟子に取り、そして自己の人間性を肯定するよう自身から突き放し、また山へ篭ります。少しの時を経て再び民衆の元へ下り降ると、弟子たちは歪んだ個性を身につけ、ツァラトゥストラの望む形には向上しませんでした。人間価値の新たな創造は「超人」の到来を待つより他はないと考えを改めて、山に戻ります。すると悲痛な叫び声が山に響き、ツァラトゥストラは声の主を探しに行きます。

世の中に辟易した高人たちが嘆きの声を上げながら、賢者ツァラトゥストラへの会合を求め入山してきたのでした。右手の王と左手の王、老いた魔術師、法王、進んでなった乞食、影、知的良心の所有者、悲しんでいる預言者、最も醜い人間、そして騾馬。彼らと言葉を交わす中でそれぞれが抱く苦悶、或いは浅薄、或いは悲嘆、或いは傲慢を感じ取り、その者たちへツァラトゥストラは語ります。こうして行われる「真夜中の酔歌」に彼らは幸せを帯び始めます。しかし、ツァラトゥストラが欲する、もしくは悟る「真昼における自己犠牲」とは相容れぬものであり、彼はこの同情を断ち、朝を迎えます。そこで「徴」(しるし)を受け、賢人たちに別れを告げて旅立ちます。

「これがわたしの朝だ。わたしの日がはじまる。さあ、のぼれ、のぼってこい、おまえ、偉大な正午よ」

 

ニーチェは、太陽は光を与えるもの、月は光を受けるものという考え方のもと、「太陽」「昼」「光」は、「生」を象徴します。「真夜中の酔歌」はその逆の印象を持ち、心地よい退廃と受け取ることができ、受動的な神待ち人という比喩に繋がります。救いを待つのではなく、自己犠牲による人間価値の創造を推進します。生はわれわれに創造や愛の喜びなどを約束してくれる。それを漫然と待つのではなく、われわれの力で実現させようと、ツァラトゥストラは語ります。

 

賢人として登場する老いた魔術師は、ワーグナーであるとニーチェは認めています。音楽の素晴らしさは認め続けましたが、人間価値の救いになり得ないという肖像を風刺的に描写しました。

ツァラトゥストラ』は四部構成ですが、一部を書き終えた日にワーグナーが亡くなりました。ここに現実的な「徴」を受け止めたニーチェは、自身の哲学に確信を持ちながら本作を書き上げていきます。

 

ドイツの偉大な指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、ニーチェワーグナーを対比してこのように述べています。

二人ながらともに典型的なデカダント(退廃的)でした。しかし、彼ら二人の間にはおのずから相違があります。ワグナーは、言わば、ナイーヴであり、自分自身を信じきっています。自分のデカダントであることに気づいていません。ニイチェのほうは、しかし、彼の言うところによれば、「より正当であり、より本物である」と言っているところから見ても、それを意識しているデカダントです。が、或る一つの事実は、たとえ人がそれについて知っているからといって、この世から消えてなくなるものではありません。ただこういう知覚は一つだけ役立つことがあります。それは私自身に対して、私を別な仕方で対決せしめることです。それゆえにしばしば自分自身に対して我慢ならんというのが、デカダンスな人間の性格となります。

『音と言葉』

ニーチェワーグナーの音楽を退廃的で虚無主義であると否定する一方、自身もまた退廃的な思想であることに憤り、鏡に向かって痛罵するような感情が根源にあったと悲嘆に暮れ、そして理解していました。

 

本書に込められた哲学を交響詩として昇華した人物がいます。言葉を使わずに音楽で物語を伝える手法を取り入れた先駆者として知られるリヒャルト・シュトラウスです。当時における彼の手法は実験的とも言える新たな試みでした。もちろん批判も多く、近代音楽の色を帯びた曲は聴衆に受け入れられにくいものでした。

「真の芸術ほど最初は理解されないもの」そう自分で納得し、独自の作曲を続けていきます。彼は後世に残る大作を作りたいという強い意欲を持っており、そしてたどり着いた答えが「哲学を音楽で表現する」ということでした。本作『ツァラトゥストラ』のキリスト教を否定するニーチェの革命的な思想に影響され、作中九つの章を抜粋し、それぞれを音楽に仕上げました。

シュトラウスの解釈は「自然と人間の対立」であり、自然をロ長調ロ短調、人間をハ長調ハ短調で表現しています。この和音で響き合わない二つを交互に鳴らす楽曲の最後は、永劫混じり合わない対立を表しています。

 

ニーチェ自身が晩年の著作で『ツァラトゥストラ』についてこのように書いています。

ツァラトゥストラが昇り降りする梯子は巨大である。彼はどんな人間よりもより遠くを見たし、より遠くを意志したし、より遠くに届くことが出来た。彼、あらゆる精神の中で最も然りと肯定するこの精神は、一語を語るごとに矛盾している。彼の中ではあらゆる対立が一つの新しい統一へ向けて結び合わされている。人間の本性の最高の諸力と最低の諸力、最も甘美で、最も軽佻で、しかも最も恐怖すべきものが、一つの泉から破滅の確実さをもって迸り出ている。

『この人を見よ』

 

また、本書訳者である手塚富雄さんは訳註でこのように解釈しています。

永劫回帰の思想は、各瞬間を永遠に回帰するものとして受け取るから、各瞬間をそのまま永遠化し、あらゆる瞬間に全責任をかけて、それを生き抜くということになる。逆に言えば、永遠を愛し、永遠を求めるからこそ、永劫回帰の思想が生まれたので、その根本動機は、神なき世界における永遠への愛なのである。その愛から「充実した生」という子が生まれるであろう。

生きている現在こそ人生であり、人生の各瞬間が永劫繰り返されるのであれば、現在の各瞬間を真摯に生きようという考えは、心に強く響きます。

 

後世の芸術に幅広く影響を与え続ける『ツァラトゥストラ』。ビスマルクドイツ帝国に対する痛罵、社会主義平等論についての批判、十字軍への憐憫など、多様な比喩で描かれており、ニーチェがいかに「人類」という目線で物事を考えていたのかが伝わります。

非常に読み進めやすく、内容も理解しやすいので未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

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