RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『遊女の対話』ルーキアーノス 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

遊女たちの手練手管や、うつつをぬかす男たち……。都会的な才人ルーキアーノス(120-195頃)は、今も昔も、どこにでもありそうな社会の裏がわを軽妙に描く。

シリアのサモサータで生まれ、アテーナイで活躍した風刺作家のルーキアーノスは、自身で執筆した作品を朗読して地域をまわり、金銭を得る弁辞家でした。ギリシア、イタリア、小アジアなど各地を渡り歩きましたが、アテーナイで腰を下ろし、弁辞家から作家へと転向します。彼の作風は対話篇でありながら、哲学に重きを置かず、実社会を切り取って皮肉を込めて描きます。

 

本書に収録されている『ペレグリーノスの昇天』は代表的な作品ですが、これにはキリスト教徒が持つ信仰の強さと危険性を描いています。これは非キリスト教徒から見たキリスト教を描いた最初の一つとして有名です。しかし、これは教訓的なものを説くことが目的であったわけではなく、没落期にあったキュニコス派犬儒派)の極端な自作主義を槍玉に上げ、当時の社会に向け、風刺を効かせて世に放ちました。

 

ルーキアーノス自身が哲学を持っていなかったわけではありません。哲学一派であったキュニコス派の思想が世の生活体系にまで浸透し、「徳」を積む概念が奇抜な行為を呼び起こすようになった社会に疑問を抱きます。ソクラテスの思想を本流としているキュニコス派は、「清貧を求める実践道徳」を掲げて習慣化を図ります。徐々に社会に浸透していくと世間の風俗性を嫌悪し、変化を強要し始めます。そして「清貧の中にこそ徳がある」という考えが極論化し、奇妙な行動を起こしはじめます。

世に浸透してしまっている哲学に対抗する意見は、哲学者よりも風刺作家の方が世に訴えやすかったように思えます。

 

本作『遊女の対話』はルーキアーノスの晩年に執筆されました。男性中心であった当時の社会において、女性目線で社会を切り取られたことは非常に斬新でした。年頃の女性を都市で見かけることなど滅多にないような社会で、女性の内の声を赤裸々に語ります。彼の観察眼の鋭さは、対話形式でより一層に伝わってきます。

 

この男社会において当たり前のように会話を成し、重宝されたのがヘタイラ(高級娼婦)と呼ばれる職業婦人です。彼女達は地位を超えた存在で、どのような軍隊長とも対等に会話します。もちろん失礼の無いように、思わせぶりな言葉を吐き、上手く繋ぎ止め金銭をせしめます。しかし、男性は夢を抱き独占しようと悩み、疑い、争います。彼女たちはそれらの男性の感情を一蹴し、丁重に弄びます。

 

こういう軍人のお客のお情をうけると、こういうことになるんだよ、打たれたり、裁判沙汰になったり。ほかの時にゃ将軍だ、千人隊長だなんて言ってるくせに、お金を下さいって言うと、「待て」と言う。「給料を貰うまで。貰ったらなんでもしてやるから。」あんな法螺吹め、くたばってしまうがいい。このわたしは、だから、あの連中は全然受けつけないのよ。当り前だわ。漁師や船乗やお百姓、わたしと同じ身分の人がいい、お世辞はあまりよくはないけれど、うんと貢いでくれて。兜の前立を振りかざして戦のことを話すあの連中、口先だけさ、ねえパルテニス。

 

考えさせられるのは、現代にも通ずる男女の対話であることです。十五の断章は脈絡も無く、断片的に切り取られた場面の対話です。そこに描かれる人間の性欲や本能が、現代に至ってもなお全く変わらず存在していることに驚かされます。嫉妬、欺瞞、浅薄、およそ男女の仲で交わされる感情の動きが何世紀経っても変わっていません。

 

本作の内容自体は非常に読みやすく、情景も浮かびやすいため、あっという間に読み終えてしまいます。

また、本書に収録されている『嘘好き、または懐疑者』に出てくる「擂木に水を汲ませる魔法」はディズニー映画「ファンタジア」でミッキーマウスが演じている場面の原作の元ネタです。

未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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