RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『雨のしのび逢い』マルグリット・デュラス 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

若い未婚の女性は結婚に憧れている。だが、若い女性たちの夢見ているほど、安定したものだろうか。また純粋な状態のものだろうかーーこうした疑いを抱いた方はこの小説を読まれるといい。この小説の主題は、現代の『ボヴァリー夫人』の悲劇である。あるいはもうひとつの『菜穂子』である。そして、若い娘たちの大部分にとって、将来待ち伏せている不幸なのかもしれない。この小説は、読みおえて数年たって、はじめて深刻な意味をもつだろう。 「特に若い女性へ」中村真一郎(帯より)

マルグリット・デュラス(1914-1996)は第一次世界大戦争が勃発した年に、当時はフランスの植民地であったインドシナ(現在のベトナム)のサイゴンで生まれました。父は現地の学校長で、母も同じく教師でした。両親は白人入植者として住人たちを蔑視するだけでなく、人種や性についても差別していました。兄が二人おり、長男は粗暴で頑強、次男は穏やかで病弱でした。この長男は母の価値観における「男らしさ」を兼ね備えており大変甘やかして可愛がりました。


病気による父の早逝後、十五歳のデュラスは華僑の青年男性に性的に買われます。母は人種差別による屈辱、貧困による苦しさでデュラスを叱咤しました。しかしペドファイルの買春行為を、金銭目的と割り切り認め、本来持っていた女性蔑視の価値観で「致し方ない」と考えます。固定された「娘の価値」は母にとって生涯変わらず、どれほど作家として成功してもデュラスを決して認めませんでした。彼女自身、著作にて「わたしが書いたものを母は好きではなかった」と話しています。


長男のみを愛した母に育児放棄されてもなお、デュラスは母の愛を求めます。1938年、母の教職定年を延長出来ないかという思いを叶えるべく、精通していた現地の言語を活かして植民地省へ入省します。そこで保守派の政治指導者ジョルジュ・マンデルに文才を見出され執筆を始め作家の道を歩み始めます。

マンデルは対ナチス派を牽引し、休戦を拒否し続けドイツや親独派を否定します。フランスはドイツに支配され、傀儡であるヴィシー・フランスが発足すると国内から反発運動が徐々に増加し始めました。そして打倒を掲げるレジスタンスが結成され、この運動にデュラスは参加します。参加者には、サルトルコクトー、ジュネなども共に居ました。

マンデルの牽引による対ナチス反発運動は激化し、ヴィシー・フランスへ激しい交戦を仕掛けるレジスタンス活動が目立ち始めます。フランス警察署長ジョセフ・ダーナンドは見せしめのため、マンデルへの射殺命令を出しレジスタンス活動の鎮静化を図りました。デュラスも例に漏れず逮捕され、解放された時には心身ともに疲れ果てていました。しかしそれでも左翼的運動は変えず、共産党に入り反体制の姿勢を継続し続けます。


この頃から執筆活動は大成し始め、1958年に本作『雨のしのび逢い』が五月賞を受賞し、ヌーヴォー・ロマンの代表的な作家として認められていきます。この作品はピーター・ブルックにより映画化もされています。そして第七芸術において独自の表現が出来ないかという思いから、自身で脚本や映画さえも手掛けます。

1984年には著作『愛人 ラ・マン』にて異例のゴングール賞を受賞します。前述の華僑男性に買われた物語は社会問題である「ペドファイル」に抵触し、この関係を純愛であると示したのでした。

フランスにおける左翼はカトリックの伝統的な性道徳に懐疑的で、女性の自由恋愛を提唱していました。これは女性の権利尊重が発端となっていますが、結果として数多の性癖を容認するあまり「ペドファイル」自体をも純愛として受け入れたのでした。


雨のしのび逢い』(moderato cantabile)は西海岸の港町を舞台に、製鉄所長の妻アンヌが顔見知りの工員ショーバンに情欲を燃やし、互いに惹かれて愛を交わす物語です。

対話を中心とした駆け引きは、余計なものをすべて剥ぎ取った文章で描写され、時に駆け足に、一足飛びに進展します。そこには具体的な性を交わす表現が全く無く、心情さえ汲み取ることが困難な場面もあります。

こうした対話に含まれるフラストレーションは、読者に向けて二人の心を苦しめる表現として用いられます。出会うことさえ困難な彼らは、その苦しさを具体的な会話で伝え合いません。それだけでなく、明確な性描写が無いことからもプラトニックにさえ感じられることもあります。

対話について訳者の田中倫郎さんは解説でこのように述べています。

本書における会話の扱い方は、話者それぞれの内在律をもった音列を結び合わしたポリフォニックな音楽技法を想わせる。論理的に平気で錯綜し、ほとんど無意味に近いアンヌとショーバンの会話の裏側に、何かを探ろうとする試みはむだである。そこには何もない。重要なのは関係であり、読者が想像力を働かすことを要求されているのは空白においてである。この操作によって読者もまた、登場人物と並行して、みずからの空洞を意識し愕然とする。そして、登場人物と読者の空洞が完了に照応し合った時、両者の間に真のコミュニケーションが成立しうるかもしれないーー作者のねらいはこの一点にある。


しかし、この愛は成就されません。ショーバンに「君は死んだほうがいい」と突き放され関係の終わりを告げられます。アンナは絶望感に包まれ、ただひたすらに「恐怖」を感じます。何度も「こわい」と言う彼女に歩み寄ることなく、ショーバンは立ち去ります。この瞬間にアンナの心は、愛を消されると同時に死んでしまうのでした。


「本性的な愛」を求める姿が物語を通して印象的に残ります。また、それはデュラス自身が生涯を通して求め続けたものであり、生の本来性こそ「愛」であり、原動力は「情欲」であると訴えます。そして得られない恐怖が対比して描かれ、「死」に至るほどの絶望であると受け取ることができます。こうした訴えは、文章に性描写が見られない点からも、デュラス自身の価値主張に潔白さを表しているように見受けられます。


愛を与えられず、愛に不自由を感じ、愛に自由を求めたマルグリット・デュラス。一心不乱に愛に呑み込まれる物語は、鮮烈な印象を与えます。

未読の方はぜひ。

では。

riyoriyo.hatenablog.com

 

『チャリング・クロス街84番地』ヘレーン・ハンフ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

ニューヨークに住む本好きの女性がロンドンのチャリング・クロス街84番地にある古書店マーク社にあてた一通の手紙からはじまった二十年にわたる心暖まる交流。ここで紹介される〝本好き〟の書物を愛する心、書物を読む愉しみ、待望の書物を手にする喜び、書物への限りない愛情は、「手紙」の世界をこえて、読む者を魅惑の物語のなかに誘いこむ。

第二次世界大戦争により硬く結ばれた英国とアメリカの関係性は「特別な関係」と言われます。共通言語、血族の起源、軍事協力、貿易交渉、文化交流など、他国と一線を置く緊密な関係を継続しています。この雄々しい外交的側面からは見えづらい各国民が支える経済状況は印象と異なる部分が多くありました。


戦後ロンドンの経済状況は、食糧難に陥るほど落ち込んでいました。当時のイギリス経済政策で印象的なものは、「揺りかごから墓場まで」といわれる福祉政策であると言えます。

この政策基礎に置かれたものは1942年に発表された「ベヴァリッジ報告」です。概要は、「五つの悪」(窮乏、疾病、無知、不潔、怠惰)に対抗するため、イギリス国民全員に最低限の生活水準を保障すること、そしてその財源を労働者と雇用者が保険料によって負担するというものです。

しかし側面では、産業国有化政策が進められていました。国の主要となる大きな利益を生む産業の優良企業を全て国有化し、国益の維持を図ろうとします。ところが、国営企業同士では資本主義的競争は行われず、設備の進歩も見込めず、貿易業が赤字へ転落してしまいました。ポンドの価値は見る影も無く、国民の大きな税負担と相まって所得は非常に少ないものとなってしまいました。また労働組合の激しい気質が原因となりストが横行。資本家は国内には投資せず海外へ目を向け、国内資本は消え去りました。

こうして当時のイギリス経済は「イギリス病」「老大国」と揶揄され、1970年代に行われる「サッチャー革命」まで、この苦しい貧困経済の時代は続きました。


一方、第二次世界大戦争後の約二十年間で米国は爆発的な経済成長を遂げます。世界中で最も豊かな国として見られ、国内では中流階級と自認する国民が増加しました。国土を戦場とすることが少なかったことが国民へ与える凄惨な印象を弱めたことも原因です。

この成長のきっかけは、戦争特需とも言える大規模な公共支出が経済に影響したことです。そして成長を維持させた原因の一つが復員軍人向け低金利住宅ローンが住宅ブームを起こし、建設に連なる家具、水回り、鉄鋼などの産業が湧き上がります。また、国民の所得が潤うことで自動車生産台数は伸張し、大きな利益をこの産業にも与えました。

アメリカの産業変化は国民全体の生活を変化させ、工場労働者や農作業者が減り、サービスを提供する「ホワイトカラー」労働者が増えました。この環境下では当然のことながら、労働組合の活動はおとなしいものとなり、国民所得による階級差は薄れ始めました。


当時のアメリカに住むヘレーン・ハンフは、台本校正の仕事の傍ら、自身で執筆して文筆家を目指していました。砂壁が剥がれ落ち、中古のソファにくつろぎ読書するという、まさに下積み生活の中に居ました。参考資料としてだけではなく、愛する書物を手元に置きたいという想いと裏腹に、広大なアメリカでは彼女の求めるような優れた古書店は近くに無く、悩みと不満を抱えていました。そんな中のある日、新聞広告で英国の絶版専門古書店を見つけます。求めてやまない愛する書物を手にできるかもしれない、そんな思いで注文書とともに一筆を添えて送付しました。

私は貧乏作家で、古本好きなのですが、ほしい書物を当地で求めようといたしますと、非常に高価な稀覯本か、あるいは学生さんたちの書込みのある、バーンズ・アンド・ノーブル社版の手あかにまみれた古本しか手にはいらないのです。

書籍リストを同封し、条件を「一冊につき五ドルを越えないもの」で「よごれていない古書」としました。


それに対してマークス社の顧客窓口フランク・ドエルは丁寧な返事と注文の本を幾冊か送ります。ここからやり取りが始まり、実際に交わされた手紙が往復書簡形式で綴られます。

ヘレーンのアメリカン・ユーモアと嫌味を含んだ冗談で溢れた手紙に、フランクの慇懃で愉快な皮肉を混じえた手紙が返され、徐々に互いの壁を崩していきます。そして書物に関して大変に博識な二人の文通は、版の違い、訳者の違い、言語の違い、出版社の違いなどの溢れ出る知識が、やがて名作文学案内の様相を呈し始めます。


彼女の書物に対する愛は大変強く、時に強い表現で記されます。

毎年春になると書棚の大そうじをし、着なくなった洋服を捨てちゃうように、二度とふたたび読むことのない本は捨ててしまうことにしています。みんなこれにはあきれていますが、本に関しては友人たちのほうが変なのです。彼らはベストセラーというと全部読んでみますし、しかもできるだけ早く読み通してしまうのです。ずいぶん飛ばし読みをしているのだと思います。そしてどの本もけっして読み返すということがないので、一年もたてばひと言だって覚えていません。それなのに、友人たちはわたしが紙くずかごに本を捨てたり、人にあげたりするのを見ると、あきれかえります。それを見守る彼らの目付きときたら、本というものは買って、読んだら、書棚にしまって、生涯二度とひもとかなくていいの、でも、捨てたりなんかしちゃだめよ!まして、ペーパー・バックでない本はだめ!と言ってるようなの。なぜいけないのかしら。世の中に、悪書や二流の書物ほど軽蔑すべきものはないというのがわたしの意見です。

また、訳者の江藤淳さんはこのように述べています。

ここにはまたヘレーンの現代文学や新刊書への嫌悪が根強く暗示されていて、私は共感をそそられる。つまり、新しく、単に消費されるためにのみ存在してうたかたのように消えて行く書物や仕事に対する、絶望と嫌悪である。


彼女は「イギリス文学のイギリス」に憧れる英国崇拝家(アングロファイル)です。ジェーン・オースティンの著作を特別視する辺りからも親英家である事を窺うことができます。

友人から前述のような英国の経済状況を伝えられ、驚き、少しでも力になろうと「新たな友人たち」へできる限りの支援(主に食糧)を施します。アメリカドルが強い時期とは言え、彼女自身がさほど豊かではない経済状況を踏まえると、その真心の強さは一層強く伝わります。


ヘレーンの執筆努力は実を結び始め、台本校正の仕事から脚本家へと日の目を見始めます。彼女は豊かになるにつれ、淡く抱いていた「新たな友人たちの元へ訪れる」という夢が色濃くなり、具体的に計画を立てていきます。その旨を伝える手紙は大変に歓迎され、読者の心をも昂らせます。しかし、時期が、巡り合わせが、仕事が、距離が、何度も夢の視界を遮ってしまいます。

そして、この二十年に渡る往復書簡は「フランクの死」によって突然に終わりを告げます。遠く離れた心のみを通わせた親友は出会うことなく天へと旅立っていきました。


1970年、アメリカで出版された本作は爆発的な成功を収め、英国でも出版されます。勢いは止まらずにドラマ化、ブロードウェイ、そして映画化されます。この大成功を引っ提げ、ヘレーンはついに英国チャリング・クロス街へと赴きます。街の全ての書店は示し合わせ、ショーウィンドウに『チャリング・クロス街84番地』を掲げ、彼女の訪問を歓迎しました。


顔の見えない顧客の注文書と添えられた手紙に真摯に向き合い、心を込めて誠実に接したからこその美しい繋がりは特殊な価値を持った変え難い財産となったと受け取ることができます。

同じ英語圏ながら育った国や環境による気質の違いがある交流は、英米ならではであると羨ましくすら思います。

 

It takes a man to suffer ignorance and smile
Be yourself no matter what they say

紳士は笑って無知を受け流すんだ
誰が何と言っても、自分らしくいよう

Sting「Englishman In New York」


フランクの慇懃で穏健な態度には、顧客に対する姿勢だけでなく、本質的に心に根付いていた紳士の心が感じられます。

また、受け取ったヘレーンも英国らしさを彼から常に感じていたからこそ、フランクの死後に彼が届けてくれた書物に囲まれ、「イギリス文学はここにある」と言えたのだと考えられます。

 

読書が好きな方にはぜひ読んでいただきたいこの作品。
未読の方はぜひ。

では。

 

『クリスマス・カロル』チャールズ・ディケンズ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

ケチで冷酷で人間嫌いのがりがり亡者スクルージ老人は、クリスマス・イブの夜、相棒だった老マアレイの亡霊と対面し、翌日からは彼の予言どおりに第一、第二、第三の幽霊に伴われて知人の家を訪問する。炉辺でクリスマスを祝う、貧しいけれど心暖かい人々や、自分の将来の姿を見せられて、さすがのスクルージも心を入れかえた……。文豪が贈る愛と感動のクリスマス・プレゼント。

1830年代にスティーブンソンの蒸気機関実用化で鉄道が世に普及され、交易による流通が活発化しました。この交通革命は紡績、織布を発端としてそれに連なる工業に必要な機械の需要も比例して高まり、製鉄用の鉄や石炭の消費が爆発的に高まりました。すでに資本主義へ傾倒していたイギリスでは、この産業革命により国益の基盤を農業から工業へと大きく移行します。これが影響し、人口の都市集中(マンチェスターリヴァプールなど)を起こし巨大な新興都市をいくつも作り上げます。

ヴィクトリア女王による統治は世界的経済効果を生み出し「世界の工場」として他国へも強く影響を与えます。この圧倒的な工業力に必要となる膨大な原料を求めて、1877年にはインドを植民地化し大西洋奴隷社会を築きます。農業から工業へと変革したイギリスの国益自由貿易へと移行してヨーロッパに留まらず、アメリカ、アジアへと足を伸ばします。

 

世界を巻き込んだ経済効果は恐ろしく大きなものでしたが、同時に国内で深刻な問題を引き起こします。資本主義社会に必ず発生する「格差社会」です。都市部では貧困を起因として心身ともに病む者が増え、犯罪が多発して都市そのものが鬱屈した空気に呑まれていきます。

当時の資本主義社会では資本家が圧倒的に有利であり、さらに無権利であったことに加えて法による保護さえも無かったために労働者は抗うことができず、不利な条件下で勤労するしか道はありませんでした。都市部の労働者が住まう地域は次第に荒みスラム化していきます。治安が乱れ、女性子供までもが炭鉱へ出向き教育さえも受けることができない環境でした。

 

チャールズ・ディケンズ(1812-1870)はこの英国で中流階級の息子として生まれ育ちます。両親は金銭に対して杜撰な感覚の持ち主で遂には破産に至ります。家族が抱えた借金のため、彼は親戚が経営する靴墨工場へ僅か十二歳にして勤めに出されます。苦しみ疲れ果てた心には大きな傷がのこります。この受けた傷は彼の社会に対する観察眼を鋭くし、世に広がる社会問題を事細かく見据え始めていきます。そして自身も感じる労働者の苦しみをジャーナリストとして明るみに出そうと思い至ります。

新聞記者として労働者階級の苦しい実態を取り上げていた彼は、仕事の合間にエッセイを書き上げます。この文筆作品が「マンスリー・マガジン」に認められて作家へと転向します。雑誌「ベントリーズ・ミセラニー」の編集長となったディケンズは、同誌に初めての長編小説『オリバー・ツイスト』を発表すると忽ちベストセラーとなり、現在にまでその名声を響かせています。

 

ディケンズ中流階級から労働者階級へ、そして執筆の成功による富と栄誉を手にします。「持たざる者」から「持つ者」へと変化しても、彼の志は終生変わらず、格差社会に苦悩し、国や社会へ向けた風刺を込めた訴えは生み出す作品に込められ続けました。

連載と出版に忙しくしている中でも彼は取材に勤しみます。ロンドン北部にある慈善事業として運営されていた貧民学校に訪れます。福音主義者(プロテスタント)が貧民救済を目的としたもので、ディケンズが関心を持ったのでした。しかし実態は惨憺たるもので、スラム街を凝縮したとも言える劣悪な環境下で運営されていました。窃盗や暴力、そして売春に至るまで、まだ幼い子どもたちが哀しい小さな社会に閉じ込められている様子を目の当たりにして一つの決意をし、執筆に取り掛かります。

 

「持つ者」の慈愛の心、思いやる心こそが「持たざる者」の救済となる。この救済の精神こそ格差社会を緩和し、そして与える者へ暖かい幸福をもたらす。ここで唱える精神を世に拡げ、荒んだ社会を変えようと想いを込めた作品こそ『クリスマス・カロル』でした。

強欲に描かれるスクルージは「持つ者」、スクルージの薄給書記ボブ、障害を持つその子供ティム坊は「持たざる者」として描かれています。

含まれる想いは、強欲な精神で取り囲まれてしまう侘しさや苦悩、そして不幸な死後を悔やみ改心すべきという説教ではありません。改心した事で、生あるうちに言動を見つめ直し改め、周囲が変化して自身に与えられる幸せをこそ求める、もしくは得ることができるという一つの意思です。人を思いやり、人に優しく、心を通わそうと努めることが確実に人に伝わり、人は変わり、人は幸福を与えてくれます。そして本作の想いは心に素直に入り込み、自らの周囲に対する思いやりを見直し、改めたくなります。

物事は公平に公明正大に立派に調整されている。病気や悲しみが伝染する一方、笑いと上機嫌もまた世の中でこの上なしの伝染力を振るうものである。

 

啓蒙作品とも言える『クリスマス・カロル』は出来後一週間で六千部を売り上げるベストセラーとなりました。ディケンズが当時の社会を変えようと書き上げたこの作品は、手に取る読者の心へ次々と影響を与え、多くの賛同の心を得ることができました。労働者階級だけではなく、資本家を中心とした「持つ者」たちの意識を大きく揺さぶります。こうした有力者たちの変化は社会に影響を及ぼします。世間では作中の「メリー・クリスマス」という挨拶が流行します。また国内の寄付金額は急増し、貧困に苦しむ人々への慈愛心が形となって現れはじめます。「持つ者」たちの意識を変え、彼らは暖かい幸福に囲まれるよう生まれ変わろうとしたのでした。

英国におけるクリスマスは、階級や環境に縛られず、誰もが人に対して暖かい心で接する季節へと変わり、互いに思いやる心が互いの心を幸福にする季節へと変わりました。

現在の英国では当たり前のように交わされるクリスマスカードの習慣や、クリスマスツリーの装飾、クリスマスクラッカー等の菓子類や、七面鳥を囲んだ食事、クリスマスプディング、これらは全て『クリスマス・カロル』が与えた社会変化の一つです。

あとがきにて訳者の村岡花子さんはこのように述べています。

彼は笑いの中に涙の露を光らせる。彼の作品を構成するものは涙と笑いである。光と影が交錯している。ディッケンズの人物の持つ哀感(ペソス)は時としてはあまりにも芝居がかって来ることもある。が、つまるところ、彼は役者であり、彼の演劇の終局の目的はヒュマニズムであったのだ。

 

心を入れ替えるにはきっかけが必要である、実際に本作を読むことによってそれを成したディケンズの功績は計り知れません。何より、執筆へと決意をさせた原動力は彼自身の慈愛であり、苦しい時代に培われた鋭い観察眼であったことに感嘆させられます。

 

読後は穏やかな気持ちが膨れ上がり、心を込めて「メリー・クリスマス」と言いたくなる作品です。そして自身と周囲の幸せを願うからこそ、思いやりを強く持とうと考えさせられる作品とも言えます。

とても優しい作品、未読の方はぜひ。

では。

 

『死霊』埴谷雄高 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

1895年、日本は日清戦争終結し台湾の統治権を得ました。以後の約五十年間、日本の植民地として扱われました。日本の統治を阻む台湾住民は五年のあいだ抗います。そして一万人以上の現地人が虐殺されました。

埴谷雄高(1909-1997)はこの台湾で生まれ育ちます。家庭内で穏和な親が現地の人間に向ける蔑視に不快と矛盾を感じながら過ごします。

「日本人が嫌い。でも自分も日本人。だから自分も嫌いになる。」

こう語る埴谷さんは徐々に哲学へ造詣を深めていきます。

 

社会の矛盾を感じて存在論を深掘りする中で、日本に移住すると矛盾を強く感じるようになります。学生時にウラジーミル・レーニン『国家と革命』で記される「国家の消滅」に希望を抱き、革命構想を拡げ始め、マルクス傾倒主義となった彼は日本共産党へ入党し思想を描く中心的人物へと頭角を現していきます。

全農全会派(小作人を中心とした独占資本及び国家への対抗運動組織)が行う地下活動で活躍していましたが、警察に張り込まれ治安維持法(思想犯取り締まり)により逮捕されます。

 

閉じ込められた独房にて彼は思考を奥の奥へと沈めていきます。

この荒涼たる部屋ーーそこに凝っとしていると不快に呻く気配がそこに聞えてくる部屋。そのなかに凝っとしていること、それだけですでに、俺が或るものになっているのだ

不合理ゆえに吾信ず

「(刑務所の)壁を見ていると無限を考えざるを得ない」

国家或いは世間に対して行う直截的な活動を阻まれた事で違う手法を模索し、ついに筆を取る事に考えが至ります。時間、空間、自己にとらわれないものを書きたい、世界を拡げに拡げて俯瞰し無限の果てを描こうと考えます。一度自身の精神意識を霧散させて感情の外から存在を見ようと試みます。こうして辿り着いた存在とは、引力、時間、空間に左右されないもの「死霊」であり存在論をこの目線で描いていきます。

「日本はうんと殺して、うんと死んだ。」

生き残ったものは同等のエネルギーを一冊に込めなければならないとする決意および使命感により埴谷さん自身だけでなく、『死霊』の登場人物たちにも多くの霊を背負わせて観念の権化と見られる人物像を創造します。

「精神のリレー、死んだもののリレー」

獄中で強くドストエフスキーに感銘を受け、カントの哲学を吸収していきます。ギリシア哲学まで遡り、現在に至るまで手渡され続けてきた思想のリレーを、埴谷さんは戦争と革命を経て構築した新しい宇宙論および天文学を踏襲した新たな存在論で受け取り、次代へ紡ごうと決意します。

1933年に獄中で診断されたことを初めとして、結核療養のため入退院を繰り返します。長いあいだ病室に閉じこもった彼は、孤独に無限、存在、虚無を考え続けます。

 

1959年に端を発する日米安全保障条約への対抗学生運動安保闘争」で埴谷さんは再び政治への関わりを強めます。『不合理ゆえに吾信ず』をはじめとした著作は学生運動参加者に広く読まれるようになりました。学生運動の派閥が分かれ、非共産党学生運動の内部紛争が起こったとき、双方を諫めようと声明を出しました。目的を同じくする者を敵視することは政治に踊らされている、敵を生み出し敵を討てと煽る者こそ政治であると、本来見据えるべき相手を諭します。

安保世代とされる当時の若い世代にとって埴谷さんは雲の上の存在で、彼の思想に強く惹かれていました。文筆家として新人作家の発掘、安部公房北杜夫倉橋由美子、らを育成し日本の文壇に大きく影響を与えました。

 

『死霊』(死靈)は観念的議論が長広舌で繰り広げられる日本において初めての形而上小説とされています。

1935年ごろの彼が体感した左翼からの転向期を時代背景として、刑務所から出てきた三人の青年を中心に数人で繰り広げられる作品です。物語のような形式では描かれていますが、精神に左右された背景描写と、登場人物たちの観念の鬩ぎ合いと言える対話を中心として、意識存在から無限存在、存在から虚在へと精神の自由を求めて説き合います。この特性を受けて日本における唯一の思想小説とされています。1976年に『死霊』(定本全五章)は日本文学大賞を受賞しました。

埴谷さんは晩年、『死霊』が未完に終わるであろうことを随所で述べています。本作は五日間の出来事を描くと予告されていますが、三日目の昼で記述は終わっています。しかしながら最終章をもって「虚体」の思索を終とする意思が章題「《虚体》論ー大宇宙の夢」と命名されていることからもわかります。

 

主題「自同律の不快」は埴谷さんが終生において囚われ続けた命題です。

存在が存在であること、私が私であることの法則を自己の唯一必然な法則であると認めたがらないところのこの種の情熱的で逸脱的な姿勢は、さて、その姿勢の徹底化がもたらす思いもやらぬ《異った思惟形式》の凄まじい一点に到達して、見らるる限りの自然の、また自己のなかの自然の、思いがけぬ種類の忽然たる変革をもたらさねばやまないことになるのでしょう。

不合理ゆえに吾信ず

自己(現自己)と自己自身(本自己)に差異が生じることによる不快感は「自分も嫌いになる」の発言を根源として深い深い心の底へと考えを及ぼして辿り着いた一つの考えです。現在の自己は時を経るに伴い心身ともに社会や環境や人に影響されて構築された精神であり、経験による心の正負を含めた感情の成長で形成されています。本来の生まれ持って所持していた自己は、資質的な先天的な能力の可能性によるもので本質的な精神の核とも言えます。双方の自己がちょうど合致することはまず無いと想像できますが、不一致であることで感じる不快に自己精神が持つ譲れない価値観が存在すると解釈できます。

 

また、安保闘争にて読み拡げられた革命論も、実際に起きた共産党リンチ事件を帯びさせて述べられています。

ーー革命を自らのために利用することのないところの真の革命家なるものは、これまでも、これからも、革命の装われた歴史の表面に絶対に現われてくることはない。輝かしい歴史についに報われることのないもの、それが真の革命家であり、革命の歴史に現われる革命家のすべては、必ず、革命の簒奪者となり、革命の自らへの利用者にほかならなくなるのだ。

作中『自分だけでおこなう革命』

「社会革命だけではダメだ、存在革命でなければならない」

組織である以上、社会性が生まれる。社会性は単独者を霞ませる。『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』にて描かれる「個別の十一人事件」で語られた「単独者による組織が起こす革命」の思想のように、社会性が生まれると地位が存在し、各単独者の尊厳が薄まってしまう。だからこそ、単独者が単独者内で意識の革命を行い「自分だけで革命をおこなう」価値観を持つ必要があると説いています。人の手に頼らず、自分自身だけで革命を起こすにはどうすればよいかとの問い掛けです。しかし、各単独者の尊厳を尊重するという点を誇張して読み手に捉えられたために、学生運動の参加者たちは分裂してしまいました。

 

これらの内容を観念の掛け合いとして描かれる登場人物たちの言動や対話から汲み取ることができるように、彼らからは血や肉や骨を感じることが出来ません。「太りに太った身体」「しみだらけの頬」等のくどい程の形容はむしろ非現実的な発言や表現に受け取られます。つまり現実的肉体を持たない存在「死霊」を連想させ、登場人物たちの発言は霊魂から発せられる観念の主張として聞こえてきます。

自分はもう死んでいるということ、埴谷さん自身が「自同律の不快」を感じることから辿り着いた思考の土壌。その中で自身の観念のみ存在する意識世界で思考を巡らせ続けた動機とも言える理由は、やはり自分は戦後に生き延び、生き続けているということを自分自身で許す行為であるように感じ取ることができます。突き詰めると、人生を意味付ける意味での欲は持たず、自身で自己を許すことのみに特化した思考が本作を生む原動力となったと言えます。

 

詩人である吉本隆明さんは『死霊』の現在的意味について、このように述べています。

その意味合いというものは何かと考えていきますと、やはり現在というのは、みなさんが実感的にわかるわけで、まじめならばよく感じているわけだと思いますけれども、つまりまじめじゃなくてもいいんですけれど、実感していると思いますが、要するにどこにも心棒がないということがあるでしょう。

『死霊』の登場人物には肉や骨が無く「観念」が意識を持ったように創造されているとしたうえで、登場人物たちがそれぞれ弁舌を交わす場面を「観念同士」の論議、つまり埴谷雄高の脳内思索と受け取っています。それは、全ての登場人物は埴谷雄高の中にある複数の観念であるという見方ができます。中心的観念は「自同律の不快」を抱く者でありますが、周囲を取り巻く観念同士の主張のどこに読み手が影響を受け心棒を立てるか、ということに本書が与える意義が存在していると考えられます。

 

私達がいまそのなかにある暗い悪徳のすべてはやがて必ず克服されるだろうというのがそのぼんやりした、しかも恐ろしいほど確信された予感なのであって、そして、そこでまず克服されるだろうものの第一を挙げれば、殺人ということになるらしい。

『墓銘と影繪』

数千年の歴史を経た現在は、過去の悪徳による悲劇は必ず克服されてきた結果の積み重ねであることから、現在に蔓延する深い悪徳の闇は必ず晴れると根拠なく、若しくは過去の結果を根拠として予覚され、明るい未来が必ず訪れる予感を埴谷さんは確実に信じていたと感じ取ることができます。

 

日清戦争後の植民地を発端として、二つの大戦争による被害を垣間見ながら国家への不信と宗教への疑念、そして孤独に孤独を重ねた末に無限における存在論へと辿り着いた思想は、虚体という形而上的な概念に執着するものの、一方で世が好転するという希望を無自覚に抱いていた観念が残した前向きな思想を次の世代へのバトンとして精神のリレーを託そうとしたのだと考えてしまいます。

 

苦痛から生まれた先人たちの論考は、現在にまさに生きている者が受け取り、感じ、思考を巡らせて自己意識を見直す必要があると思います。

古書でも入手しづらくなっていますが、電子版もあるようですので、ぜひ一読ください。

では。

 

『パリ左岸のピアノ工房』サド・E・カーハート 感想

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こんにちは。RIYOです

今回はこちらの作品です。

 

記憶の底からよみがえる、あの音。鍵盤の感触、どこでピアノのことをわすれてしまったのだろう?愛情あふれるパリの職人に導かれ、音楽の喜びを取り戻した著者が贈る、切なくも心温まる傑作ノンフィクション。

 

アイルランドアメリカ、二つの国籍を保有しているカーハート。アメリカ空軍将校の息子として生まれ、幼少期をアメリカ、フランス、東京などで過ごしました。大学では人類学を修め、のちに国務省の通訳として従事します。カリフォルニアではエンターテイメントビジネスのコンサルタントとして活躍。以後ヨーロッパに渡ってApple社にて勤務しますが、五十歳を機にフリーライター兼ジャーナリストへと転身しました。

 

デビュー作である『パリ左岸のピアノ工房』は、人物設定に多少の脚色はあるものの実話であり、二十四章の物語として描かれています。

Apple社ではヨーロッパを股にかけたコミュニケーション部門を担当していました。ライターとして出発する際、繋がった縁を元にアプローチをかけていた出版社のひとつであるChatto&Windus。連載記事のアイデアとして持ち込んだものが本書の発端でした。著作として出版された本作は英国、米国で忽ちベストセラーとなり、現在では十二以上の言語で翻訳されています。

ここからは推測ですが、ファツィオーリという新鋭ピアノメーカーを取材した章が収められていますが、これこそ持ち込んだアイデアだったのではと思います。その内容はジャーナリストらしい細かな取材魂が感じられる章となっています。

 

本作ではフランス地元の関係性や人物の慎み深さを丁寧に、とても丁寧に描かれています。カーハートが感銘を受け、感動し、感激した深い思いが強く、優しい筆致で描かれています。

パリに住んでいると、シャンゼリゼ通りやルーブル美術館を訪れることは多くありません。それらは日頃見る景色に大きな印象を与えていますが、現地人の生活はそこではない場所で繰り広げられています。そして、この「そこではない場所」は、実際的にパリの隠れた場所であり、観光客が訪問する場所と同じくらいの魅力を持っていますが、そこではない場所へ訪れることは非常に難しい。巨大なドアがあり、中庭を抜けた先に聳える高い壁の奥には、途方もなく魅力的なパリが存在します。強い絆で結ばれた隣人、昔から培われた古風な人と人との結び方が今でも存在し、独自の関係性が大切にされています。

彼はインタビューでこのように答えています。信用や信頼で長い時間をかけて構築された関係性が街いっぱいに広がっており、ひとつの風土として完成された地域性に魅力がたっぷりと詰まっています。ひとたび中に入ってしまうと、魅力の渦が次から次に連なって、二度と抜け出す事ができない。そんな「そこではない場所」を多くの会話や出来事で楽しく切なく描いています。

 

『パリ左岸のピアノ工房』の作品名通りにピアノの職人が登場し、カーハートとの対話の中心に存在します。まさに職人気質で、繊細で頑固で見る目のあるリュックはピアノの売買を生業としています。そこにはピアノへの愛と尊敬が常に言葉に含まれています。

ピアノはフルートやヴァイオリンみたいに押入にしまっておく楽器じゃない。あんたはピアノといっしょに暮らすことになるし、ピアノのほうもあんたといっしょに暮らすことになる。ピアノは大きいから、無視することはできない。家族の一員のようなものだ。だから、ふさわしいものでなければならないんだ!

 

ピアノが現在の姿に至った時期はごく最近です。十八世紀前半までは、ピアノの前身であるクラヴィコードハープシコード鍵盤楽器として存在し、バッハやヘンデルなどはこれらの楽器で曲を作り上げていました。クラヴィコードは3〜5オクターブで強弱を奏でることはできましたが非常に音が小さな楽器でした。ハープシコードは4〜5オクターブで大きな音を出す事が出来ますが強弱はつけられませんでした。1709年にイタリアのハープシコード技師バルトロメオ・クリストフォリが現在のピアノの原型「ピアノ・エ・フォルテ」を製作します。ハンマーアクションを備えたことにより、大きな音に強弱を鍵盤でつける画期的な楽器が生まれたのです。5オクターブ半まで広がった音域の中でモーツァルトは作曲します。やがて機械的な進化と改良を重ね、7オクターブまで広がった音域でベートーヴェンショパンシューベルト、リストなどが多くの楽曲を生み出します。それでも音楽家は表現性を追求して、ピアノ技師に要望します。もっと音の表現を豊富にしたい。現在の八十八鍵に至るまでには、音楽家の情熱と技師の努力が想像もつかないほど注がれた結晶であると言えます。

 

これほどまでに広がった表現性を持つ八十八鍵の音域でも、ピアノでは表現が困難である側面もあります。制限されている音による無限性の困難さです。ドはドであり、レはレである点です。弦楽器のようにドとレの間を表現出来ない為、和音や奏法で多くの音色を表現します。

これは偉大な音楽家が生み出した楽曲の解釈にも通じます。演奏者の発想記号の受け取り方で全く違う楽曲に聴こえることもあります。

そして本書で何度も登場するメーカーによる音の違い、時代による音の違い、個体による音の違い、環境による音の違い、などが合わさり同一の演奏が生まれることは無いと言えます。寧ろ、これこそが個性であり、醍醐味であるのだと感じます。

何世紀をも経てたどり着いた技術の結晶である其々のピアノと、何世紀にもわたって残されてきた偉大な楽譜に込められた芸術性に、現代の演奏者が表現する努力と進歩の結晶は、常にただ唯一の音楽として奏でられます。

 

2007年、老舗ベーゼンドルファーが日本企業のヤマハに買収されました。当時、この決定を受けてオーストリアでは指揮者のニコラウス・アーノンクール、ピアニストのルドルフ・ブッフビンダーなどが強く反対しました。「音が変わることは免れない」不安と恐れから出た意見でした。しかしながら、経営面を中心とした企業改善を行なったことにより現在は黒字化。さらに両社の技師同士は交流さえ無いほど互いの技術は守られているため、大きな損失は起きていないようです。

現在においてもピアノは変化を続けています。新しい音が生まれ、消えていっています。良いものを残そうとする専門家の努力は情熱によって支えられています。

 

蘇る音楽から与えられる感動と、聴くものが感じる共通性は、感性と感性が繋がり合って共有する大切な価値観が出来上がります。一台のピアノと演奏者を囲み、身体を寄せながら同じ空間で共有した記憶は人と人とを結びつけます。

 

「そこではない場所」には多くの人が住んでいます。強い地域性が建設する大きな壁は他者を容易に近づけません。しかしながら、ひとたび糸口が開き情熱が受け入れられたとき、家族のように歓迎します。誇りや自身の感性を大切にする人々は魅力に溢れ、互いを尊敬し大切にし合います。

「家にピアノがあるからといって、アトリエに顔を出しちゃいけないってことはないんだよ」と、彼は軽く笑って付け加えた。「それから、忘れないでほしいのは、いまやあんたはわたしの客だってことだ。だから、信頼できる友人を紹介してくれてもいいんだよ」


ベーゼンドルファースタインウェイ、エラール、プレイエル。多くの国の、多くのメーカーが登場します。弾いたことも見たこともなくても、とても丁寧で細やかな筆致は、読みやすく想像を駆り立てられ、音が聞きたくてたまらなくなります。

心が暖まり、切なくなり、ひと休みできる本作。未読の方はぜひ、堪能してみてください。

では。

 

記事冒頭に触れたファツィオーリのホームページで第二十二章「ファツィオーリ」を読むことが出来ますので紹介しておきます。

m.fazioli.co.jp

 

『オンディーヌ』ジャン・ジロドゥ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

浅利慶太さんが劇団四季の運営を離れ「浅利演出事務所」として始動した初めの作品、現代フランス演劇を代表する劇作家ジャン・ジロドゥ(1882-1944)の『オンディーヌ』です。

舞台は遠い世の昔から神秘な伝説を秘めるドイツの森林地帯。近くに幽邃な湖をひかえた老漁夫オーギュストと老妻ユウジェニイの住む小屋。彼らの養女オンディーヌは水の精霊である。そこへ人間界から一人の訪問者、騎士ハンスが訪れる。彼はこの世に《陳腐でないもの、日常的でないもの、すり減っていないもの》を探し求めているが、オンディーヌに会って、遂にそれを探しあてたと思う。

 

十九世紀末より近代リアリズム演劇から脱却しようとする演劇界の動き「反近代演劇」の風潮が生まれ、第一次世界大戦争を経て多種多様な思想を含んだ演劇表現が世に登場します。象徴派、構成派、詩劇派、叙事派など、劇作家の持つそれぞれの芸術性に適した形を取った幅広い演劇作品が新しい時代として定着していきます。

これらの反写実的近代劇の目標は、「第四の壁」の幻影舞台による人生の再現 representation ではもはや表現できない、人生の奥深くひそむ意識の陰影や、意識下の矛盾懊悩、現実的実在の底にある魂の交感などを「表現」し、観客のそれらの感覚に直接訴えかけることであった。

『演劇概論』

こうした反近代演劇牽引者の一人として代表的な人物としてジャック・コポーが挙げられます。反リアリズム的な「詩」「幻想」に重きを置き、劇団主催者としてフランス現代演劇を開拓していきます。その門下として存在していたのがジャン・ジロドゥでした。

 

ジロドゥは「フランスの知性」と称される敏腕外交官でした。その言葉通りに、機智に富んだ神経質な文体と、演出家に挑むような空想力溢れる劇的情景は、現実からかけ離れた独創的な幻想世界を作り上げて読者を閉じ込めてしまいます。

 

『オンディーヌ』が上演された1939年、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦争が起こります。外交官であったジロドゥはダラディエ首相の任命により軍の情報局長官となり、ラジオでの啓蒙活動にてナチスを糾弾します。しかし、ダラディエ内閣が崩壊したことに合わせてジロドゥもこの職から解任されます。そしてパリを始めフランスをドイツ軍が占拠し、強制的な休戦協定を結びヴィシー・フランスが発足します。フランス第三共和政の崩壊の中心にいたジロドゥは、本書に収められている『ソドムとゴモラ』を執筆しました。そこには暗い失意に満ちた孤独な苦悩が旧約聖書創世記の「世界の終わり」に擬えられ、人間の根源にある不信を強調して描かれています。1943年に初演されましたが、その三ヶ月後に世を去ります。

パリでの『オンディーヌ』公演を始め、ジロドゥ作品の演出を数多く手掛けたルイ・ジュヴェはこのように語っています。

我が生涯にジロドゥを上演したこと以外に誇るべきものがなにもないとしても十分満足に感じる

ジュヴェ『演劇論』

 

本作『オンディーヌ』は、ドイツ初期ロマン派作家フリードリヒ・フーケが1811年に書いた『ウンディーネ』を基にしています。フーケはドイツ軍人でしたが、遠征先の若い身分の低い娘と恋に落ち、婚姻しました。しかしながら、周囲を含め身分の違いによる価値観の相違から離縁します。この自身の経験を含め、格差社会における揶揄を異種間による社会の差として描き、幻想的な苦悩の物語を作り上げました。

 

ジロドゥは『オンディーヌ』で人間社会の美醜を描きました。歯に衣着せぬオンディーヌの純粋無垢で直截的な感情表現は濁りのない清らかな心の表れであり、本能に従う純心そのものという印象を受けます。しかし相手であるハンス、或いは恋敵のベルタは保身、野心、猜疑、傲慢などが溢れる言動で、場面を追うごとにオンディーヌの清心と対比され、醜く描写されていきます。

唯一とも言える良心を持った王妃と対話する場面では、オンディーヌの考えや想いが徐々に読者へ伝えられて、その清い心で読み手の胸を締め付けてきます。

そんなことありません。忘れたり、考えを変えたり、許したりできるこの人間の世界って、宇宙の中で、ほんの小さな部分に過ぎないんだわ。あたしたちの世界では、……野獣やとねりこや毛虫の世界でもそうですけど、諦めたり許したりすることもないんです。

 

幻想的な世界での「愛」をテーマにした物語。悲劇であるはずの最期に、なぜか安堵が滲む不思議な読後感をぜひ体感してみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

 

『スローターハウス5』カート・ヴォネガット・ジュニア 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

時の流れの呪縛から解き放たれたビリー・ピルグリムは、自分の生涯を未来から過去へと遡る、奇妙な時間旅行者になっていた。大富豪の娘との幸福な結婚生活を送り……異星人に誘拐されてトラルファマドール星の動物園に収容され……やがては第二次大戦でドイツ軍の捕虜となり、連合軍によるドレスデン無差別爆撃をうけるビリー。時間の迷路の果てに彼が見たものは何か?現代アメリカ文学の旗手が描く不条理世界の俯瞰図。

1922年、第一次世界大戦争の三度目の休戦記念日に、アメリカのインディアナ州でドイツ系移民の子としてカート・ヴォネガット・ジュニアは生まれました。大学では生化学を学びましたが、第二次世界大戦争の勃発に伴い兵として召集されます。そして軍役の一環として機械工学を学び、斥候として戦場に駆り出されたものの、ドイツ軍に捕らえられて捕虜となります。

 

第二次世界大戦争終盤の1945年、年明け直後から連合軍は、戦争の終止符を打つことを早めるべく、ドイツへ攻め入るソビエト連邦軍に助力する形でドイツへの大規模空爆を企てます。ドイツ国家殲滅を強く押し進めるイギリスは空軍爆撃機司令官アーサー・「ボマー」・ハリスにドイツ東部の絨毯爆撃を指示します。僅か二日の間に大量の爆弾や焼夷弾が落とされ、炎と黒煙に逃げ惑う生存者を機銃掃射で追い討ちます。こうしてドイツの美しい都市ドレスデンは月面のような廃街となりました。

戦争の早い帰結という大義名分があったものの、実際的には当時すでに「戦局は明確で終息に向かいつつあった」として、爆撃投下側のイギリス国民さえ否定的な感情を抱きました。つまり、不必要な殺戮であったのではないかという風潮が広まったのでした。このような感情は連合国側の国民全体で少しずつ膨れ上がり、世の論調は国家や軍を批判するように傾倒します。その弁明を求められたアメリカの陸軍軍航空軍司令官であるヘンリー・アーノルドは「戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と反発しました。

 

この惨劇の最中にヴォネガットは現地にて大規模空襲を受けました。ドイツ系移民のアメリカ軍人が、ドイツのドレスデンアメリカを含む連合軍に襲われたのです。

一九六八年、『スローターハウス5』を書いた。わたしはこのときようやく、ドレスデン大空襲を書けるくらいに成長したといっていい。あれはヨーロッパ史上最大の虐殺だった。もちろん、アウシュビッツも知らないわけではないが、わたしにとって虐殺というのは、突然に、ごく短時間の間に膨大な数の人間を殺すことだ。一九四五年二月十三日、ドレスデンでは約十三万五千の人間が殺された。イギリス空爆隊によって、ひと晩のうちに。とことん無意味で、不必要な破壊だった。

『国のない男』

受けた被害を受け止め昇華し、半自叙伝とも言える本作を書き上げました。

 

時間を超越する手法を用いたサイエンス・フィクションで描かれます。語り手であるビリー・ピルグリムは「痙攣的時間旅行者」となり、人生の端から端までを自己の意思ではなく飛び回ります。恋愛、悲壮、不可思議、場面ごとに感じる違った感情を読者に語りかけます。そして、ドレスデンの大規模空爆へ収束されていきます。

痙攣を起こすたびに変わる場面には物語の脈絡は無く、為されるがままにビリーは過ごします。この描写は心的外傷後ストレス障害PTSD)の症状の一つである「フラッシュバック」を思い起こさせます。痙攣を起こし、時間と空間を移る際には共通させる小さな結び目が存在します。これはまさに、フラッシュバックを起こすきっかけと重なり、本作の特異なプロットはヴォネガットが生涯悩み苦しんだ症状の再現を文体で表現したと憶測できます。

 

本作は「反戦争」を掲げた内容ではありません。ですが、読み手は必ず「戦争は人が起こすもの」である事を突きつけられます。

スローターハウス5』が出来されたのは、ベトナム戦争の只中である1969年です。米軍による北ベトナムへの爆撃に対して、ヴォネガットは思いを投げかけていたのかもしれません。

 

本文では、万物の死を「そういうものだ」という言葉で繰り返し締められます。これはヴォネガットが体験した「理不尽な惨劇」による感情の憤りを消化させた、一つの結論であると見ることができます。そして悟りのような、諦めのような解釈は、究極的で退廃的とも言える境地に至ります。

今日は平和だ。ほかの日には、きみが見たり読んだりした戦争に負けないくらいおそろしい戦争がある。それをどうこうすることは、われわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間をながめながら、われわれは永遠をついやすーーちょうど今日のこの動物園のように。これをすてきな瞬間だと思わないかね?

悲嘆に暮れるよりも、幸福を噛み締める時間を長く持つように心掛けることができれば、或いは心掛けて過ごすことが、今の世界と上手に付き合うことなのかもしれません。

唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。ユーモアには人の心を楽にする力がある。アスピリンのようなものだ。百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっとうれしいと思う。

『国のない男』

ヴォネガットの生涯を通したメッセージは、心に重く響きます。

 

日々を苦しく感じながら過ごしている人こそ、この作品に含まれた心の救いを見出すことができるかもしれません。

未読の方はぜひ。

では。

 

『シルトの岸辺』ジュリアン・グラック 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

著者最大の長篇かつ最も劇的な迫力に富む代表作。1951年度のゴンクール賞に選ばれたが、グラックは受賞を拒否、大きな話題を呼んだ。「この小説は、その最後の章まで、けっして火ぶたの切られない一つの海戦に向かってカノンを進行する」ーー宿命を主題に、言葉の喚起機能を極限まで駆使し、予感と不安とを暗示的に表現して見せた。

 

第二次世界大戦争加熱時の1940年、ドイツの猛侵攻により降伏したフランスは、中部に位置するヴィシーに独親政権の基盤を作り、国家元首としてフィリップ・ペタン(第一次世界大戦争時の英雄)を据え、フランス第三共和政を否定した統治権集中のファシズム体制を敷きました。実質的にはドイツに支配されており、休戦協定と言いながらも軍事協力を強制され、ナチズムに沿った反ユダヤ主義を掲げていました。

ドイツはフランス軍二百万人を捕虜とし、ドイツのキャンプで管理します。ただし、強制労働は通常の農作業で締め付けはかなり緩いものでした。彼らの食糧を始めとする管理費を莫大な金額で請求し、フランスから巻き上げていました。

 

ヴィシー・フランス発足直後は政権を支持していた国民が多勢でしたが、ドイツ劣勢の戦局情報が広まると忽ち批判的な潮流へと変化しました。

1944年に連合軍がネプチューン作戦でノルマンディーに上陸し、パリを筆頭にドイツ軍を撤退させてフランスは解放されました。そして支配者を無くしたヴィシー・フランスは解体されます。フィリップ・ペタンは責任と罪を問われ、死刑判決(のちに高齢により終身刑減刑)を受け、政府は終焉を迎えました。

 

ジュリアン・グラック(1910-2007)は、フランス北西部の地主の元で生まれ、裕福な家庭で過ごしながら、教鞭を振るうため資格取得を目指します。学生時代に触れたリヒャルト・ワーグナーのオペラや、アンドレ・ブルトンによるシュルレアリスム運動はグラックの作品に晩年まで影響を与え続けます。

 

グラックは第二次世界大戦争に徴兵されフランス北部のベルギー国境付近で行軍します。そして戦局に従い、前述のドイツ軍捕虜となりますが、結核と疑われる病症を理由に捕虜を解放されます。帰国後、療養に努めながらも教職に就く準備を進め、やがて高校教師となり、長くこの職を全うします。本作『シルトの岸辺』も教職の合間に書かれた作品です。

彼は「反ヴィシー」主義であり、彼の論文や散文にその思想が見え隠れします。特に起因となった性格は「徹底的な個人主義」であり、国政に対する批判や国家を束ねる者への糾弾と、個人の自由意志の尊重が目立っています。ドイツに迎合し、やがて破滅へ至ったヴィシー・フランスに対する否定は、間接的比喩で作品に描写されます。

 

その筆致に大きな影響を与えているのが「シュルレアリスム運動」です。『シルトの岸辺』をアンドレ・ブルトンに捧げている事からも垣間見得ます。シュルレアリスム運動自体には参加していませんが幾人かとの親交があり、ブルトンからも処女作『アルゴールの城にて』を「暗黒小説の伝統とシュルレアリスムとの確固たる結合を示した」と絶賛されます。

 

シュルレアリスム」(超現実主義)は1924年ブルトンによる『シュルレアリスム宣言』から始まるものであり、ダダイスムから派生した主義です。新しい芸術の在り方を提唱し、多くの芸術家が模索して構築しました。「超現実」は「突き詰めた現実」或いは「突き抜けた現実」とも言え、無意識による想像を求めた作品が、幅広い芸術において数多く生み出されました。

 

グラックは『シルトの岸辺』において、「主観を遮った写実描写」でシュルレアリスムを踏襲しています。作中の大部分を占める情景描写は、緻密な筆致で物事を複数の角度で描き、読者へ明確な景色の想像を促します。そして作品内でのアクセントとして効果を及ぼしているのが「対話」です。美しい情景描写の大きくて緩やかな物語の流れが、対話が始まることにより激しく停止します。そして方向を定めるようにその場で回転し、対話を終えると同時に緩やかに流れ始めます。また夥しいほどの比喩で表現された描写に、直截的な対話が鮮やかな印象を残します。

シュルレアリスム言語の諸形態がいちばんよく適合するのは、やはり対話である。そこでは二つの思考がぶつかりあい、一方が心をうちあけているあいだ、他方はそれにかかずらわる。だが、どんなふうにかかずらわるのか?相手の思考を自分に合体させるのだと仮定することは、しばらくのあいだその相手の思考によって完全に生きることが可能だと認めることになろうが、そんなことはおよそありえない。

シュルレアリスム宣言』

 

作品のアクセントである対話は、リヒャルト・ワーグナーがオペラ作品に含めた「予感動機」(示導動機)を意識して書かれています。現代では「ライトモティーフ」として括られますが、オペラや交響詩などで人物などの言動や心情変化を、短い動機を繰り返すことでアクセントにしながらも音楽の統一性を崩さない効果の事を言います。大きくて緩やかな物語を多くの比喩で奏でながら、予感動機である対話で物語のテーマを紡いでいきます。

 

『シルトの岸辺』の舞台は架空のオルセンナ国で、海に面した国境警備の要塞に青年貴族が配属され、停滞している海を挟んだ三百年続く戦争相手ファルゲスタンに抱く湧き上がる熱意と踊らされる宿命、そして生き物のように浮かび出す国家の予感が描かれています。

ヒロインであるヴァネッサは野心と誇りと情熱に溢れた熱情家ですが、主人公であるアルドーの熱意を焚きつけ、事を成す前後で描写が強く変化します。明から暗への変化と言えます。外観的な特徴や言動が快活で幼さの残る無垢な印象であったのに対し、事件後は、落ち着き払って暗鬱な印象に変わっています。これが与える印象は、生と死、繁栄と滅亡、安寧と抗争、など種々の要素を連想させます。そして事件をヴァネッサは期待していたのであり、叶ったのです。この滅亡を望む姿勢は、(オルセンナ国の)宿命に沿わせる使命感であるという確信と覚悟であり、それを成した達成感と虚無感をヴァネッサという女性が一連の描写で表現されています。

「知らない。知ろうとも思わないわ。私に興味があるのは、後ろにあるものじゃなくて……その先にあるものなの」

 

この大変美しい作品は、1951年にゴンクール賞受賞作に選ばれました。しかし、グラックはこれを拒否し、賞金も拒絶します。理由は明確で、そして堅固な意思で貫きました。

無数の文学賞を目あてに小説が量産される現代の文壇的状況を痛烈に批判していた。だから彼にしてみれば、自分のかねてからの主張の筋を通しただけのことだったのである。

訳者の安藤元雄さんは訳者あとがきでこのように述べています。

 

この架空の国の、架空の出来事は、事細かに写実的に描写されているにも関わらず、時代的描写があまりに曖昧です。しかし、だからこそ時代背景に囚われる事なくテーマである「宿命と予感」をより鮮やかに感じ取ることができます。反時代的シュルレアリスムとも言える作風は、国が「時間」を理由としない変化、概して「人間」「世間」が及ぼす国へ与える効果の「予感」をとても強く表現しています。そして普遍的に捉えられる国家は、「治めるものは人」という危険性を浮き彫りにさせます。

ただ、来るべき時を早めるだけのことだったのだ……。世界というものはね、アルドー、誘惑に負ける人びとによって栄えるのだ。世界そのものの安全が絶えずゆさぶられることによってのみ、世界は正当化されるのだ。

 

流麗で美しい文体は、情景を様々な角度で浮き上がらせて、次々と連想させる描写はただ感嘆させられるばかりです。そしてオルセンナ国に沸き立つ宿命と予感は、ヴィシー・フランスと重なり、破滅へ導いたのはやはり「人」であると痛感させられます。

 

美しさで包まれた「宿命と予感」の物語。未読の方はぜひ味わってみてください。

では。

 

『ツァラトゥストラ』フリードリヒ・ニーチェ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

無限にゆたかな生命の海にふかく見入って、意志の哲学を思索し、「永劫回帰」の戦慄に耐えて存在の実相に徹する人間像への希望をうたうニーチェ。近代の思想と文学に強烈な衝撃を与えた彼の、今日なお予言と謎にみちた本書で、ツァラトゥストラは何を語るかーー

 

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)はプロイセン王国ザクセンで神に使える両親の元で生を受けます。信仰心を生まれてすぐに持つことになりました。音楽の才能に恵まれ、学生の頃には仲間に即興演奏を披露するなど有能なピアニストでした。哲学、芸術に関心を寄せてショーペンハウアーに傾倒します。

1848年に「ドイツ三月革命」でブルジョワジー(産業市民階級)が台頭し、表面的な民主化、実態的な保守権力の支配強化が進められ、その後に連なる宰相ビスマルク軍国主義推進による普仏戦争へと続いていきます。この戦争の勝利でドイツの資本は強化され、帝国主義を推し進め、ウィルヘルム二世が起こす第一次世界大戦争へと繋がっていきます。

 

没後、ニーチェ哲学はナチズムに悪用されます。

第一次世界大戦後の混迷した世相のもとで、自由な知的教養という理念の無力さが暴露され、この欠を補うものとして、全体主義の政治権力が台頭してくるにつれて、ニーチェの権力意志説がにわかに脚光をあびて登場する。たとえばアルフレット=ローゼンベルクやフリッツ=ギーゼなどという、ナチスの御用理論家(イデオローグ)たちによって、ニーチェは、ドイツ「第三帝国」の危機を救済するための全体主義権力を合理化する、反動理論の提供者に仕立てあげられもしたのであった。

ニーチェ Century Books 人と思想』

 

ニーチェの生涯に影響を与え続けた人物がいます。19世紀ヨーロッパにおける文化人の中心人物、ロマン派歌劇で「楽劇王」と呼ばれたリヒャルト・ワーグナーです。父親と同じ歳であるという親近感や、ショーペンハウアーに傾倒した哲学、そして文才も備えた芸術性に惹かれ、ニーチェは理想を共有し、良き理解者として肩を寄せます。家族絡みでの交遊が続き、互いの才を高めていきました。

生の哲学に関して、二人はショーペンハウアーのように「人生の本質は悲劇的なもの」であるという考えを根底に置き、それを受けてなお生きる為に行う内面努力の救いに芸術の価値を強調します。この人間意志の尊重は、互いの手法で表現されていきます。ワーグナーは音楽と文化全般において、ニーチェは新芸術を用いた文化の活性化において、それぞれ世に放ち理解を求めます。ニーチェワーグナーの音楽を、ソクラテスの合理主義の支配と戦うための新しいディオニュシアン芸術(陶酔的・激情的芸術)と捉えて、救いにおける最良の希望だと称賛します。

 

しかし、徐々に亀裂が入り始めます。ワーグナーの圧倒的な利己主義や反ユダヤ主義に基づく言動に違和感を覚えます。そして1876年、ワーグナーを中心としたバイロイト音楽祭が開催され、著名人たちと熱烈に交わす挨拶や、浅薄な祝いの儀式に辟易し、ニーチェは途中で会場を立ち去ります。この出来事を境に、ニーチェワーグナーを「大衆に迎合する音楽家」という見方を強くし、芸術の本質を見失っていると疑問を抱くに至ります。そして彼はワーグナーの音楽を退廃的で虚無主義的であると見做すようになり、救いにおける希望ではなく、人間の生きる存在の痛みを和らげる薬であると考えるようになりました。

ニーチェは、はじめ、〈ヴァーグナーはその芸術をつうじてわずかにおのれと語り、もはや「公衆」ないしは民衆とは語らない〉と信じていた。ところが、現実のヴァーグナーはどうであったのか。ニーチェは言っているーー〈あわれなヴァーグナー!どこへ彼は落ちこんだというのか!せめて少なくとも豚どものなかへと乗りこんでくれたらよかったのに!ドイツ人のなかへとは!〉。要するにヴァーグナーは反時代的人間として〈非民衆的〉であるどころか、その芸術は〈選りぬきの大衆芸術〉にほかならなかった。

『偶像の黄昏 反キリスト者』解説

 

思想の決裂とも言える衝撃は、ニーチェの哲学を加速させ、視界を広げます。成熟から晩年に該当するニーチェ哲学第四期は、『ツァラトゥストラ』から始まります。本作はそれまでニーチェが唱え続けた理想を、哲学思想として直截的に大衆へ啓蒙し、価値転換から創造した「超人思想」の理解を求めるものです。そして過去に囚われていた病とも言えるワーグナー哲学から解放され、克服した昂る気持ちを織り込んでいます。

この作品は、ニーチェの生涯における一つの高揚した瞬間を、つまりヴァーグナーに対する勝利を、象徴しているのだ。思想上の主著ではこの作品は断じてない。

『生成の無垢』解説

ニーチェバーゼル大学教授としての同僚であり、生涯の友人であるオーフェルベックに宛てた手紙でこのように伝えています。

ツァラトゥストラ』は、当分は、私の〈心を引き立て鼓舞する書〉であるというまったく個人的な意味しかもたないーーとにかく誰にとっても曖昧で隠されていて笑うべきものなのだ。

 

本作『ツァラトゥストラ』は、宗教の呪いとも言える神信仰の危険性や粘着性を説き、人生の苦難から信心へ逃避する行動を否定した「永劫回帰」説を展開します。

ニーチェは宗教の何を嫌ったのか。おしなべて宗教というものが彼岸に、すなわち神とかあの世とか無限性に道徳の尺度を求める態度を押しつけようとするからだ。そうではなく、もっとこの世に生きている人間の道徳が必要だとニーチェは考えたのだ。よって、ニーチェの思想は「生の哲学」と呼ばれることになった。

超訳 ニーチェの言葉』

 

ニーチェキリスト教に包まれた世界(当時のヨーロッパ)において訴える、必要な自己超克を三段階で精神的展開を提示します。「駱駝」「獅子」「小児」の比喩で精神的「三様の変化」を『ツァラトゥストラ』冒頭で語ります。

「駱駝」は尊敬と学びにより得たものを重荷として抱え、義務と禁欲を意味します。

「獅子」は尊敬と服従から解放され、自由意志の元での自己の尊重を意味します。

「小児」は無垢であるが故の忘却であり、新しい開始、或いは創造としての「然り」を意味します。

しかし独りになったとき、ツァラトゥストラはこう自分の心にむかって言った。「いったいこれはありうべきことだろうか。この老いた超俗の人が森にいて、まだあのことをなにも聞いていないとは。神は死んだ、ということを」

「神の死」はニーチェ哲学の根本思想で、人間存在の救いたる神的存在は、実際的な救いではあらず、「人間はなにゆえに?」の答えにはなり得ないという「駱駝」の精神否定を表します。しかし、「獅子」になることによる信仰からの自由と引き換えに、これまで信心より与えられていた人間存在の意味を失い、必然性を失った無価値の偶然とする虚無を確認させられます。

ニヒリズムを確認した上で、人間存在の価値をどのように構築するのか。彼は「然り」という語を「聖なる発語」として定義し、「小児」に必要な特徴は(囚われている)過去の忘却、(無から有への)新たな価値の創造であると説きます。偶然による無価値の人間存在であることを「然り」と受け止める、そしてその無価値の存在に新たな価値を創造する。

つまり、人間存在の価値を構築する為に生きるのであり、その模索が人間価値の創造に繋がると示しています。これを具現化する者を「超人」と呼び、この思想を「超人思想」と呼んでいます。

 

ニーチェの思想概念には「時間は無限、物質は有限」という考えがあり、偶然に合わさった物質で構築された世界は、また同様の偶然により、全く同じ世界の事象を時間の果てで繰り返すという「永劫回帰説」を唱えています。これは「生の肯定の最高形式」と言われ、虚無を受け入れたからこそ辿り着く生の境地として、だからこそ「今」を懸命に生きる事が人間価値に繋がり、超人となる考え方であると言えます。「これが生だったのか、よし、それならもう一度!」この価値の解放を自己の内面で起こす事が出来れば、超人への道を歩み始めることとなります。

ニーチェは、決して神に代わるものとして超人を説いているのではない。超人とは、何か固定した人間に超越的なあるものではない。人間は、「深淵の上にかかる一本の網」である。この虚無の上の渡りゆき(過渡)が、ニーチェによって超人思想となったのである。生を本来の根源性を回復した真実なものとして求めるとき、常に自ら越えつつ求められる世界である。

『概説 西洋哲学史

 

哲学詩でありながら文体は神話とも散文とも言える読みやすい描写で、ツァラトゥストラの行動や吐露する思考を追いかけながら進んでいきます。

 

ツァラトゥストラは山に篭り外界と距離を置き、孤独な生活に身を置いていました。ある時、「神は死んだ」という啓示を受け、その悟りを世に広めようと山を降ります。しかし、民衆に根付いた宗教思想(キリスト教など)は堅固で、その教えは民衆の持つ価値観の全てとまで浸透しており、ツァラトゥストラが説く思想は受け入れられません。

わずかな理解者である者たちを弟子に取り、そして自己の人間性を肯定するよう自身から突き放し、また山へ篭ります。少しの時を経て再び民衆の元へ下り降ると、弟子たちは歪んだ個性を身につけ、ツァラトゥストラの望む形には向上しませんでした。人間価値の新たな創造は「超人」の到来を待つより他はないと考えを改めて、山に戻ります。すると悲痛な叫び声が山に響き、ツァラトゥストラは声の主を探しに行きます。

世の中に辟易した高人たちが嘆きの声を上げながら、賢者ツァラトゥストラへの会合を求め入山してきたのでした。右手の王と左手の王、老いた魔術師、法王、進んでなった乞食、影、知的良心の所有者、悲しんでいる預言者、最も醜い人間、そして騾馬。彼らと言葉を交わす中でそれぞれが抱く苦悶、或いは浅薄、或いは悲嘆、或いは傲慢を感じ取り、その者たちへツァラトゥストラは語ります。こうして行われる「真夜中の酔歌」に彼らは幸せを帯び始めます。しかし、ツァラトゥストラが欲する、もしくは悟る「真昼における自己犠牲」とは相容れぬものであり、彼はこの同情を断ち、朝を迎えます。そこで「徴」(しるし)を受け、賢人たちに別れを告げて旅立ちます。

「これがわたしの朝だ。わたしの日がはじまる。さあ、のぼれ、のぼってこい、おまえ、偉大な正午よ」

 

ニーチェは、太陽は光を与えるもの、月は光を受けるものという考え方のもと、「太陽」「昼」「光」は、「生」を象徴します。「真夜中の酔歌」はその逆の印象を持ち、心地よい退廃と受け取ることができ、受動的な神待ち人という比喩に繋がります。救いを待つのではなく、自己犠牲による人間価値の創造を推進します。生はわれわれに創造や愛の喜びなどを約束してくれる。それを漫然と待つのではなく、われわれの力で実現させようと、ツァラトゥストラは語ります。

 

賢人として登場する老いた魔術師は、ワーグナーであるとニーチェは認めています。音楽の素晴らしさは認め続けましたが、人間価値の救いになり得ないという肖像を風刺的に描写しました。

ツァラトゥストラ』は四部構成ですが、一部を書き終えた日にワーグナーが亡くなりました。ここに現実的な「徴」を受け止めたニーチェは、自身の哲学に確信を持ちながら本作を書き上げていきます。

 

ドイツの偉大な指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、ニーチェワーグナーを対比してこのように述べています。

二人ながらともに典型的なデカダント(退廃的)でした。しかし、彼ら二人の間にはおのずから相違があります。ワグナーは、言わば、ナイーヴであり、自分自身を信じきっています。自分のデカダントであることに気づいていません。ニイチェのほうは、しかし、彼の言うところによれば、「より正当であり、より本物である」と言っているところから見ても、それを意識しているデカダントです。が、或る一つの事実は、たとえ人がそれについて知っているからといって、この世から消えてなくなるものではありません。ただこういう知覚は一つだけ役立つことがあります。それは私自身に対して、私を別な仕方で対決せしめることです。それゆえにしばしば自分自身に対して我慢ならんというのが、デカダンスな人間の性格となります。

『音と言葉』

ニーチェワーグナーの音楽を退廃的で虚無主義であると否定する一方、自身もまた退廃的な思想であることに憤り、鏡に向かって痛罵するような感情が根源にあったと悲嘆に暮れ、そして理解していました。

 

本書に込められた哲学を交響詩として昇華した人物がいます。言葉を使わずに音楽で物語を伝える手法を取り入れた先駆者として知られるリヒャルト・シュトラウスです。当時における彼の手法は実験的とも言える新たな試みでした。もちろん批判も多く、近代音楽の色を帯びた曲は聴衆に受け入れられにくいものでした。

「真の芸術ほど最初は理解されないもの」そう自分で納得し、独自の作曲を続けていきます。彼は後世に残る大作を作りたいという強い意欲を持っており、そしてたどり着いた答えが「哲学を音楽で表現する」ということでした。本作『ツァラトゥストラ』のキリスト教を否定するニーチェの革命的な思想に影響され、作中九つの章を抜粋し、それぞれを音楽に仕上げました。

シュトラウスの解釈は「自然と人間の対立」であり、自然をロ長調ロ短調、人間をハ長調ハ短調で表現しています。この和音で響き合わない二つを交互に鳴らす楽曲の最後は、永劫混じり合わない対立を表しています。

 

ニーチェ自身が晩年の著作で『ツァラトゥストラ』についてこのように書いています。

ツァラトゥストラが昇り降りする梯子は巨大である。彼はどんな人間よりもより遠くを見たし、より遠くを意志したし、より遠くに届くことが出来た。彼、あらゆる精神の中で最も然りと肯定するこの精神は、一語を語るごとに矛盾している。彼の中ではあらゆる対立が一つの新しい統一へ向けて結び合わされている。人間の本性の最高の諸力と最低の諸力、最も甘美で、最も軽佻で、しかも最も恐怖すべきものが、一つの泉から破滅の確実さをもって迸り出ている。

『この人を見よ』

 

また、本書訳者である手塚富雄さんは訳註でこのように解釈しています。

永劫回帰の思想は、各瞬間を永遠に回帰するものとして受け取るから、各瞬間をそのまま永遠化し、あらゆる瞬間に全責任をかけて、それを生き抜くということになる。逆に言えば、永遠を愛し、永遠を求めるからこそ、永劫回帰の思想が生まれたので、その根本動機は、神なき世界における永遠への愛なのである。その愛から「充実した生」という子が生まれるであろう。

生きている現在こそ人生であり、人生の各瞬間が永劫繰り返されるのであれば、現在の各瞬間を真摯に生きようという考えは、心に強く響きます。

 

後世の芸術に幅広く影響を与え続ける『ツァラトゥストラ』。ビスマルクドイツ帝国に対する痛罵、社会主義平等論についての批判、十字軍への憐憫など、多様な比喩で描かれており、ニーチェがいかに「人類」という目線で物事を考えていたのかが伝わります。

非常に読み進めやすく、内容も理解しやすいので未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

『遊女の対話』ルーキアーノス 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

遊女たちの手練手管や、うつつをぬかす男たち……。都会的な才人ルーキアーノス(120-195頃)は、今も昔も、どこにでもありそうな社会の裏がわを軽妙に描く。

シリアのサモサータで生まれ、アテーナイで活躍した風刺作家のルーキアーノスは、自身で執筆した作品を朗読して地域をまわり、金銭を得る弁辞家でした。ギリシア、イタリア、小アジアなど各地を渡り歩きましたが、アテーナイで腰を下ろし、弁辞家から作家へと転向します。彼の作風は対話篇でありながら、哲学に重きを置かず、実社会を切り取って皮肉を込めて描きます。

 

本書に収録されている『ペレグリーノスの昇天』は代表的な作品ですが、これにはキリスト教徒が持つ信仰の強さと危険性を描いています。これは非キリスト教徒から見たキリスト教を描いた最初の一つとして有名です。しかし、これは教訓的なものを説くことが目的であったわけではなく、没落期にあったキュニコス派犬儒派)の極端な自作主義を槍玉に上げ、当時の社会に向け、風刺を効かせて世に放ちました。

 

ルーキアーノス自身が哲学を持っていなかったわけではありません。哲学一派であったキュニコス派の思想が世の生活体系にまで浸透し、「徳」を積む概念が奇抜な行為を呼び起こすようになった社会に疑問を抱きます。ソクラテスの思想を本流としているキュニコス派は、「清貧を求める実践道徳」を掲げて習慣化を図ります。徐々に社会に浸透していくと世間の風俗性を嫌悪し、変化を強要し始めます。そして「清貧の中にこそ徳がある」という考えが極論化し、奇妙な行動を起こしはじめます。

世に浸透してしまっている哲学に対抗する意見は、哲学者よりも風刺作家の方が世に訴えやすかったように思えます。

 

本作『遊女の対話』はルーキアーノスの晩年に執筆されました。男性中心であった当時の社会において、女性目線で社会を切り取られたことは非常に斬新でした。年頃の女性を都市で見かけることなど滅多にないような社会で、女性の内の声を赤裸々に語ります。彼の観察眼の鋭さは、対話形式でより一層に伝わってきます。

 

この男社会において当たり前のように会話を成し、重宝されたのがヘタイラ(高級娼婦)と呼ばれる職業婦人です。彼女達は地位を超えた存在で、どのような軍隊長とも対等に会話します。もちろん失礼の無いように、思わせぶりな言葉を吐き、上手く繋ぎ止め金銭をせしめます。しかし、男性は夢を抱き独占しようと悩み、疑い、争います。彼女たちはそれらの男性の感情を一蹴し、丁重に弄びます。

 

こういう軍人のお客のお情をうけると、こういうことになるんだよ、打たれたり、裁判沙汰になったり。ほかの時にゃ将軍だ、千人隊長だなんて言ってるくせに、お金を下さいって言うと、「待て」と言う。「給料を貰うまで。貰ったらなんでもしてやるから。」あんな法螺吹め、くたばってしまうがいい。このわたしは、だから、あの連中は全然受けつけないのよ。当り前だわ。漁師や船乗やお百姓、わたしと同じ身分の人がいい、お世辞はあまりよくはないけれど、うんと貢いでくれて。兜の前立を振りかざして戦のことを話すあの連中、口先だけさ、ねえパルテニス。

 

考えさせられるのは、現代にも通ずる男女の対話であることです。十五の断章は脈絡も無く、断片的に切り取られた場面の対話です。そこに描かれる人間の性欲や本能が、現代に至ってもなお全く変わらず存在していることに驚かされます。嫉妬、欺瞞、浅薄、およそ男女の仲で交わされる感情の動きが何世紀経っても変わっていません。

 

本作の内容自体は非常に読みやすく、情景も浮かびやすいため、あっという間に読み終えてしまいます。

また、本書に収録されている『嘘好き、または懐疑者』に出てくる「擂木に水を汲ませる魔法」はディズニー映画「ファンタジア」でミッキーマウスが演じている場面の原作の元ネタです。

未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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