RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『死刑囚最後の日』ヴィクトル=マリー・ユーゴー 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

ヴィクトル・ユーゴー『死刑囚最後の日』です。
フランスのロマン主義第一人者で、『レ・ミゼラブル』を著しています。

自然から享けた生命を人為的に奪い去る社会制度=死刑。その撤廃をめざし、若き日のユーゴー(1802-85)が情熱をもやして書きあげたこの作品は、判決をうけてから断頭台にたたされる最後の一瞬にいたるまでの一死刑囚の苦悶をまざまざと描きだし、読む者の心をも焦燥と絶望の狂気へとひきずりこむ。

 

1829年に世に出されたこの作品は「著者の名前なし」で出版されました。ノンフィクションかフィクションか、その見極めは読者に委ねるとして冒頭に数行記載されたのみでした。死刑囚が裁判で判決を言い渡され、投獄され、執行されるまでの六週間が描かれています。心理描写の細かさが、刻一刻と迫る執行時間を恐れさせ、心情の生々しい焦燥感を表現するため、読後に手がじっとりするほどの感情移入をさせられます。

 

人はみな不定期の猶予つきで死刑に処せられている。

判決後は比較的冷静に状況を理解し、「終身懲役より死刑のほうがましだ」とさえ考えていた主人公が、日を追うごとに「生への執着による焦燥」と「死への恐怖」が徐々に、ですがしっかりとした速さで増していきます。ページを捲る手が止まらなくなります。また罪状は明らかにされず、先入観を持つことなく「死刑を待つ心情」に集中して読まされることになります。

 

ユーゴーは当時ロマン派の詩人として徐々に名声を上げており、フランスにおけるロマンチック運動の先頭に立ち、戯曲でも受け入れられるようになっていました。そして1830年、フランス七月革命においてロマンチック運動の勝利へと導きました。

彼のロマンチシズムは詩・小説・戯曲に盛り込まれ、社会のあり方を世に訴えています。彼は理想主義者でもあります。特に人道的・正義的な側面で熱が高く、この『死刑囚最後の日』は顕著な例と言えます。

 

その後、1832年に『死刑囚最後の日』の序文を発表しました(こちらも本書に収録されています)。これが政治的・道徳的な見地で大きく議論されることになりました。
彼は人道的正義の人であったので、「死刑制度」を「司法的執行といわれるそれら公の罪悪の一つ」と言い放ち、またこれを目の当たりにする事で大変苦悶しました。
当時の死刑執行は「見世物のようだ」と描写しています。民衆が見やすい席を買い、罪状概要を1スーで売りさばき、婦人達が罪人の乗る馬車を覗き見る。「死刑執行」は誰のための何のためか。そこに苦悩し、死刑制度そのものの撤廃の意思を固めていきます。

 

社会共同体からすでにその害となりなお将来害となりうる一員を除くことは大事なことだと。--しかしそれだけのことであったら、終身懲役で十分だろう。死が何の役にたつか。

「罰すること」と「処刑すること」は別であり、「処刑」は「社会の復讐」であると述べています。罪を罰するのに「死の意味」がどこにあるのか、強い疑問符で世に問うています。

 

また併せて、罪を犯す動機の質にも言及しています。

「被告は情熱によって行動したかまたは私欲によって行動したか」

この「情熱による行動」がこの当時における政治犯・思想犯に該当し、この論は七月革命で成った「自由思想」をより活性化させる意図であると見られます。革命前の王政復古により怯えきった民衆の思想を、多く解き放ちたかったのです。

ユーゴー磔刑台ではなく十字架で罪を罰することができないか、そのように問い、締めくくっています。

 

死刑の不道徳性や不要性を、当時の社会と照らし出したこの作品。一気に読み進んでしまう筆致をぜひ体感してください。

では。

 

『シーシュポスの神話』アルベール・カミュ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』です。
2005年改版です。

神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。--本書はこのギリシャ神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追求したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。

『異邦人』『ペスト』『カリギュラ』などで知られるアルベール・カミュの哲学論考エッセイです。表題のシーシュポスの神話における論考は8ページ程度ですが、そこにいたるまでに「不条理の哲学論考」が200ページにわたります。また、カフカ文学に関する論考も付録として添えられています。

 

カミュと不条理について

カミュの幼少期に父が戦死し、大変苦しい環境下で育つことになりました。彼は新聞記者となり、第二次世界大戦時に「反戦記事」を書き注目され、原発投下における非難を行った第一人者でした。これは自身が受けた不条理、またその不条理が繰り返されていることに対する非難であり警告でした。彼は博愛の人であり、自由を尊重する平和主義者であったのです。
その彼だからこそ、「不条理が引き起こす自殺」に悲しみを覚えます。これを乗り越える哲学を確立すること、論証することが、彼にとっての使命となり情熱を注ぎます。

人生が生きるに値しないからひとは自殺する、なるほどこれは真理かもしれない、--だが、これは自明の理というかたちの論理なのだから、真理とはいっても不毛な真理である。

彼はこの真理の否定からスタートします。

 

不条理な論証

不条理の定義としてまず語られます。形而上学的な意味での世界と、精神面における個人を結ぶ、筋道の通らない理を「不条理」と位置づけます。
この世を作り上げる要素(万物)のあらゆる全てを人間は理解することはできない。
人間は、生まれて理性が発達するとあらゆる全てを理解しようと試みる。
これが叶わないことであり、それを知ることによる絶望状態を「不条理」と呼ぶ。


この状態で人間は二つの選択を迫られます。
不条理な世界より逃避する(自死
不条理な世界を受け入れる(生きる)


この「生きる」を選択する必要性、あるいは手段を説いていきます。全能の神を存在させ、そこに生命を委ねる宗教的な解決や、世界を理解することは不可能だと断定し諦める選択は、すべて「哲学上の自殺」であると断じ、強く否定します。人間はもっと強いものであると。

不条理に反抗しつづける意思
ーー理解できないことであっても理解しようと意識を継続する
死を理解することで得る自由
ーーかならず訪れる「死」を受け入れ、だからこそ「生」を自由にする
生存中の経験を吸収する熱情
ーー得た経験から少しでも多くを理解しようと熱情をかける
これらの三つの帰結で、「不条理が誘った死」から「不条理が存在するからこその生」へと転換させました。

ーーそうしてぼくは自殺を拒否する。

 

不条理な人間

この章ではドン・ファンの社会における在り方、ドストエフスキー『悪霊』スタヴローギンの信仰と、それぞれにおける不条理性について書かれています。

ドン・ファンが行為として現実化するのは、量の倫理学であり、質に向かって努める聖者とはまさに正反対である。物事の深い意味を信じない、これが不条理な人間の特性だ。

 

不条理な創造

「哲学と小説」における不条理の創造をかなり強烈な主観と口調で書かれています。主としてドストエフスキーの作品における不条理性と潜む哲学、そして芸術性に関してです。

ドストエフスキーの小説では、人生の意義如何という問いは、極限的な解答、--人間の生存は虚妄であるか、しからずんば永遠であるか、そのどちらかだという極限的な解答しかありえぬほど激烈な調子で提起される。

 

シーシュポスの神話

あらすじは冒頭の紹介文どおりです。ここではシーシュポスの心情を読み解いていきます。与えられた不条理で彼は何を見出すのか。
彼は、自分こそが自分の日々を支配している。つまり彼の目に見えるもの、感じるもの、これらを元に彼の運命を自分自身でまた作り上げていく。現在置かれている状況を理解して受け入れ、そこから自身の継続された生を運命として創造していく。カミュは最後にこう締めくくっています。

頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。

 

カミュは「不条理による自死」を少しでも無くしたかった、そのように感じる論考です。叙情的な表現でさえも断定的に強く訴える論調は、何が何でも生きるべきだと聞こえてきます。
与えられた不条理から逃避せずに受け入れることで、そこから人生が自由になり、世界を主観で捉えられるようになる。自分が個として存在し、世界の事象を自分の解釈で得ることが自分の意識の幸福に繋がっていく。「生」が「幸福」に繋がる。

 

彼は生涯、災禍やテロ、そして戦争など「多くの不条理」と戦い続けていました。
1957年に「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に関して」ノーベル文学賞を受賞しています。

1960年、彼は友人の運転する車の助手席でパリに向かう途中、事故死します。この事故にはさまざまな説が交わされています。

 

現代でも自死は増加しています。人生観を見つめ直すきっかけとして本書をぜひ読んでみてください。

では。

 

『カフカ寓話集』フランツ・カフカ 感想

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こんにちは。
RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

フランツ・カフカカフカ寓話集』です。
30の短篇・中篇集です。

カフカ伝説」といったものがある。世の名声を願わず、常に謙虚で、死が近づいたとき友人に作品一切の焼却を依頼したカフカーー。だが、くわしく生涯をみていくと、べつの肖像が浮かんでくる。一見、謙虚な人物とつかずはなれず、いずれ自分の時代がくると、固く心に期していたもの書きであって、いわば野心家カフカである。

前回に引き続きカフカです。その記事でも触れましたが、彼は執筆と仕事の両立を果たしていました。健康を損なうほど。執筆自体は生前は泣かず飛ばず、といった程度。しかし仕事においては大変優秀で、さらに上司部下にも好意的に思われ、そして細やかな気遣いをまで見せていたようです。これは彼のデリケートな気質が影響します。この気質は母親譲りのものでした。父との確執がありましたが、喧々諤々ではなく、間に母親が入り父の思惑を彼に諭していました。この神経質さと、ある意味不健全な父との関係が、彼の作品に影響したように思えます。

 

寝る間を惜しんで執筆に励んでいたカフカですが、彼の作品には常に「不条理」が付きまといます。周囲からの迫害、自己の内に湧き上がる不道徳、突然迫る恐怖、理由のない迫害、など。こういったものを「書く動機」になりうる感情の元は何か。仕事は上手くいっていたようですので、そこで生まれる程度のストレスが寝る間を惜しんで執筆するほどの感情には至らないはずです。当時の時代や土地を考えますと、やはり「ユダヤ人の子孫である」ことに起因するように思えてなりません。

 

当時のチェコスロヴァキアは、元々住んでいたチェコ人、侵略したドイツ人、そして故郷をなくしたユダヤ人で構成されていたと、カフカの伝記作者であるパーベル・アイスナーは表現しています。ユダヤ人は双方から疎まれていました。チェコ人からは「よそ者」として、ドイツ人からは「成り上がり者」として。民族としての迫害は年齢性別を問いません。カフカの幼い頃の友人は迫害により失明までしています。
このような「民族としての迫害」を幼少より肌で感じながら、その土地で生きていくことには多くの「自意識への抑圧」をかけなければなりません。この抑圧によるストレスが社会人になり多感になり、それらを晴らす手段が執筆であったのです。

 

では、何の為に「執筆」をしたか。もちろん鬱憤晴らしの側面もあったと思います。それよりも、世に伝えたいという思い、他者に理解されたいという思いが多分にあったはずです。しかし、ノンフィクションのような表現方法では迫害を助長させるばかりか、家族にまで迷惑を掛ける恐れがあるため、「文学」という芸術表現で執筆を続けたのだと考えられます。
神経質であった彼は日々刻々、「不条理」を感じていたはずです。その感じた不条理をいかに抽象的表現、間接的表現で表し、且つ、物語として成り立たせるか。このような執筆手法であったからこそ、短篇、中篇、長篇、入り混じった作品が出来上がり、その全てが「不条理文学」として形を成したのであると思います。

 

この数々生み出した作品群を、彼は死の間際に友人へ「すべて焼却」するように依頼しました。これは謙虚さ、羞恥、或いは後悔からと受け取ることもできますが、別の見方をすべきだと考えます。依頼した友人は詩人マックス・ブロートで、当時すでに文名が知れ渡っており出版業界に顔が利く存在でした。カフカはブロートが「自分の死後に出版することを確信」していたと思われます。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスが自身の『バベルの図書館』にカフカの『変身』を盛り込む一冊の序文にこう記しています。

「ほんとうに自分の著作の消滅を望む者であれば、その仕事を他人に依頼したりはしない」

 

この寓話集は30のうち28が人間以外を主に描いています。「寓話」と名付けられたのはこのあたりが理由であると思います。その為、強制的に表現は比喩的には感じますが、物語中の社会や主人公の描写は「より現実的」で、「より直接的」に描かれています。30の作品それぞれに存在する「不条理」から得られる教訓は「寓話でありながらさほど無く」、社会への「民族としての迫害」を感じさせる訴えが随所に現れ、また苦悩として細やかに描かれています。

われわれの生活にあっては、少し走りまわったりしだして世の中の識別をはじめるやいなや、子供はすでに一丁前の大人としてことを処していかねばならぬ。

『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族』の中の一文です。この作品は特に上記の要素が顕著です。二十日鼠族の置かれた状況が、まるでユダヤ人に当てはめているかのように。

 

『異邦人』や『ペスト』を世に出したアルベール・カミュが「不条理文学作家」としてのカフカを以下のように述べています。

カフカが宇宙全体に対して行う激烈な訴訟〔審判〕の果てにぼくが見いだすのは、まさにこのごまかしの道なのだ。そして、かれの下す信じがたい判決とは、もぐらまでが鼻をつっこんできて彼岸への希望をいだきたがるこの醜態で衝撃的な世界なのだ。

 

この寓話集には『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族』以外にも、『巣穴』『ある学会報告』という中篇や、有名な『断食芸人』も収録されており読み応えも充分な一冊です。
カフカの「不条理文学」を多面的に感じることができますので、興味のある方はぜひ。

では。

 

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『変身』フランツ・カフカ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

フランツ・カフカ『変身』です。「不条理文学」としてあまりに有名な作品です。ですが、著者が亡くなってから広まった為、明確な解釈は未だに出ておらず、現在も研究が続けられています。

ある朝目覚めてみると、青年ザムザは1匹のばかでかい毒虫と化していたーー。確たる理由もなく、とつぜん1人の青年に悪夢のような現実が襲いかかる。それにともない、ザムザへの家族の態度にも変化のきざしがあらわれはじめ……。カフカ(1883-1924)はその過程を即物的な筆致でたんたんと描き切った。

カフカチェコプラハで生まれたユダヤ人でした。彼の作品は実存主義を軸として描かれ、比喩を用いて主張する内容が多く存在します。この作品も例に漏れません。

 

家族の為に懸命に働いてきた主人公に突如として不条理が降りかかります。彼の家族は心配と恐怖が入り混じりながらも「彼」として接します。ですが数ヶ月に及ぶこの物語が進むにつれ、徐々に家族側の接し方に変化が起きます。そして「彼」から「これ」に変わり、主人公の尊厳など元々存在しなかったかのような周囲の認識に変化します。

 

チェコで生まれたカフカですが、ドイツ語を使用していました。この「毒虫」は原著では「Ungeziefer」と書かれています。訳は「害虫」です。この物語においてはもちろん「毒虫」の表現が最適です(毒虫の詳細な描写もあります)。ですが、「害虫」を比喩として用いたと考えますと、さまざまな憶測をめぐらせることができます。

 

カフカは労働と執筆を両立させていました。しかし家族、とくに父親にはあまり良くは思われていませんでした。学生時代に哲学を専攻しようとした彼に父親は「失業者になりたいのか」と笑われたほど、思想に違いがありました。もちろん、父親の実働を求める姿勢は「ユダヤ人」としての生きる手段や苦労が背中に掛かっていた為、ある種当然な反応でした。

ですが彼は、ユダヤ人排斥による苦痛、故郷のないユダヤ人の苦悩、理解されない思想における絶望、家族の理解を得ることができない孤独、これらをひとつの心に留めながら執筆を行いました。

 

この「害虫」は彼自身だったのではないでしょうか。普通の人間として扱われない苦痛、行き場の無い苦悩、意思を理解してもらえない絶望、家族に戻ることができない孤独。家族に害虫と思われていると思い込んだとしたのなら、想像もできないほどの息苦しさを感じながら日々を過ごしたと考えられます。

しかしながら「毒虫」になっても彼はなお、仕事に行かなければならないと考えます。それは仕事に行くことは家族の為であるからです。彼は心の奥底では「家族愛」を欲していたのではないでしょうか。

 

主人公は徐々に物語が進むに連れ「毒虫らしく」なっていきます。これは彼自身の心境の変化、行動の変化ではなく、むしろ家族側の変化が原因となっています。つまり周囲が「毒虫」と扱うようになっていくからこそ、彼は「毒虫らしく」なっていくのです。

自己の認識は周囲の行動が大きく影響するのであり、不条理を受けたものに対する周囲の接し方は、これまでのような無償の愛を与えることは困難になります。

 

彼は「家族愛」を欲しましたが、家族は彼の思想を「不条理」と認識し無償の愛で接することが困難になっていたのではないでしょうか。
この状況さえも彼は理解し、体感していながらも世に問いたいという思いでこの作品を執筆したのではないかと感じます。

 

『ロリータ』を書いたナボコフはこの作品で、主人公が天才であり、家族が凡庸であるという芸術家的な見地でこの作品を捉えています。
読む人の境遇や、心境により見え方が変わる作品ですので、どのように見えるか試してみてください。
では。

 

『地下室の手記』フョードル・ドストエフスキー 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

フョードル・ドストエフスキー地下室の手記』です。

極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の小世界に閉じこもった小官吏の独白を通して、理性による社会改造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであることを主張する。人間の行動と無為を規定する黒い実存の流れを見つめた本書は、初期の人道主義的作品から後期の大作群への転換点をなし、ジッドによって「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」と評された。

処女作である『貧しき人びと』からも感じられるような「人道主義的文学」を描いてきた彼の作品は、1864年に発表されたこの作品から「実存主義的文学」へ大きく転換しました。人間への信頼や希望といった表現は消え「希望を見出せぬ生」を描く〈悲劇〉が主テーマとなっていきます。

 

この作品には「共産主義の否定」が含まれています。

人間がしてきたことといえば、ただひとつ、人間がたえず自分に向って、自分は人間であって、たんなるピンではないぞ、と証明しつづけてきたことに尽きるようにも思えるからだ。

ドストエフスキー共産主義を「個人の破壊」「個性の犠牲」と解し、説いています。

この作品が何故こういったテーマになったかは理由があります。

 

前回の感想記事でツルゲーネフの『父と子』に関して書きました。ニヒリズムに関して、また新時代のチカラに関して。これに対抗しチェルヌイシェフスキーが『何をなすべきか?』という作品で、新しい世代(革命を目指す者たち)へ向け「合理的エゴイズム」を掲げました。この作品では「水晶宮」という理想郷が登場します。この理想郷を作り上げるのは、全ての人間が「合理的欲望」を追求することであり、いずれ「調和と幸福」を手に入れることができるという思想の内容です。物事を合理的に考え、調和の取れた利益を追求するという「空想的社会主義」の典型的な思想であるとも言えます。

これが当時、過激派の若者のバイブルとなり、かのレーニンも愛読しました。

 

ドストエフスキーは『何をなすべきか?』に反発した内容を発表しました。それが今回の作品である『地下室の手記』です。この作品は二部構成となっております。一部は現在、二部は過去。この二部が『何をなすべきか?』の内容を大いに皮肉で包んだ内容となっています。端的に言うと『何をなすべきか?』の中で正当化された誠実な人物のことを、一刀両断に否定し思考の足りない傲慢な人物であると描いています。ちなみに一部は「西欧合理主義(合理的エゴイズム)の否定」です。

 

この「合理主義」は「理想主義」であると言えます。人間が合理的に判断し、利益計算し、正確な道を歩むことが幸福に近づく。まさしく理想的であり、誰しもが幸せになることができるように感じられます。実はドストエフスキーは本来「大変な理想主義者」でした。しかし彼の強い観察眼と道徳におけるヒューマニズムが起因し、「人間は欲求や衝動により理想的な行動だけを行うことは不可能である」と結論付けるに至ったのです。この事が彼に大きな苦悩、あるいは失望を与えます。そこで彼の中に生まれたのがシェストフの語る「悲劇の哲学」です。今まで信じてきた「理想主義の崩壊」が人間の絶望のように捉えられ、そしてその絶望の中で生きる「希望を見出せぬ生」を描くようになったのがこの『地下室の手記』であり、ドストエフスキー作品における思想の転換点となったのです。

 

また「人間の欲求や衝動」の影響こそ、人間を人間たらしめている、つまり「個としての人間らしさ」を強く主張するようになります。このチェルヌイシェフスキーへの、合理的エゴイズムへの、水晶宮への否定は、人間の複雑さを説く彼のヒューマニズムによる警告に他ならなかったのです。またその「人間の欲求や衝動」がアイデンティティとして各個人が自覚すべきものであり、共産主義者のような判でついたような人間性を否定する主張に至ったのです。

 

ドストエフスキーは絶望の中の生を描いています。つまり生の否定ではありません。
どのようにして苦悩を抱きながら生きていくか、人間としての誇りを持ちながら生きていくか、そのようなことを描くことを胸に、ここより名作を数々生み出していくのです。

 

チェルヌイシェフスキー『何をなすべきか?』は少し入手し辛いかもしれません。
ですが、ドストエフスキーの「悲劇の哲学」はこの一冊で感じる事ができます。
未読の方は試してみてください。

では。

 

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『父と子』イワン・ツルゲーネフ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

ツルゲーネフ『父と子』です。
前回の『はつ恋』の次に世に出された作品です。
テイストは大きく変わります。こちらもツルゲーネフ中期の代表作です。

「ニヒリスト」という言葉はこの作品から広まったーー自然科学以外の一切を信用せず、伝統的な道徳や信仰、芸術、社会制度を徹底的に批判するバザーロフ青年。年寄りは時代遅れで役立たずだと言い切る新世代と、彼の様な若者こそ恥ずべき高慢と冷酷の塊だと嘆く旧世代。新旧世代の白熱する思想対立戦を鮮やかに描き、近代の日本人作家たちに多大なる影響を与えたロシア文学の代表的名作。

1860年代はニコライ一世の弾圧政治を終え、アレクサンドル二世の自由主義的な政治へシフトしたように国民の目には映りました。貴族の夢想家や哲学者が幅を利かせていた世代が没落していく中、その子供世代は彼らの無気力を嘲笑しました。この新世代を大きく支持し、引率したのがディミトリー・ピーサレフという19世紀ロシアの文芸評論家です。

彼は道徳や芸術が持つ威厳を全て否定し、有用性のみを重要視する「レアリスト」いわゆる現実主義者を理想像として訴えた。芸術における感傷主義・ロマン主義などを全て否定し、プーシキンの詩さえ否定しました。
ピーサレフは『父と子』の登場人物バザーロフこそ「考えるレアリスト」であり、若い世代へこの人物の言動を啓蒙し、そして彼らを「ニヒリスト」と呼び、唯物論者であるよう説きました。こうして国家・教会・家庭の一切を否定する「ニヒリズム」が確立したのでした。

バザーロフは、ロシア文学史上はじめて主人公として登場した雑階級出身の知識人で、一八六〇年台に泡のように現れて消えた変種ではなく、純粋なロシア的タイプである。

解説で工藤精一郎さんはバザーロフの特長をこう述べています。
この作品でツルゲーネフが書こうとした主題は「旧世代の貴族文化と新世代のニヒリズム」です。そして彼自身がニヒリズムである事から新世代を支持する、つまりロシア社会の改革には新世代のチカラが必要であると訴えています。そのチカラは家柄ではなく知識と意志と行動力を伴う若い世代であると。

 

この作品にはもう一人の主人公アルカージィという青年が登場します。バザーロフと友人で行動を共にします。彼もまたバザーロフの現実主義に強く共感を抱き、敬います。
舞台は彼らが連れ立ってアルカージィの実家へ帰省するところから始まります。そこで待つのは優しい父と慇懃な叔父。この叔父こそ、バザーロフの対決相手となります。
バザーロフは不遜で無礼な振舞いを高貴な叔父に披露します。やがてフラストレーションは高まって行き、思想の相違における口論が起こります。

バザーロフ側の実家へ二人で向かう場面もあります。この時のバザーロフが非常に情けない甘ったれに思えました。他者の家族には失礼千万な行いを「ニヒリスト然」としているのですが、なんと自身の父母を大切に想うことか。「彼こそ真のニヒリストだ」と言ったピーサレフの言葉は、結局若い世代に文芸を読むことでなら思想も伝わりやすいだろうという啓蒙道具に過ぎなかったのだと、そう思います。

アルカージィの言葉でこのような句があります。

いままでぼくは自分がわからないで、力以上の課題を自分に課してきたんです……ぼくの目はついこのあいだ、ある一つの感情のおかげで開かれました

ニヒリストに憧れていたアルカージィが大切な異性を持ち、家庭を築きたいと感じたその時、ニヒリズムよりも自分に大切なものを見つけました。つまりニヒリストとして国を動かさなければならないという「力以上の課題」から、異性を大切に想う「一つの感情」が彼を解き放ってくれたのです。

 

ツルゲーネフはニヒリストでありますが、作家として登場人物を、物語を、実に公平に描いています。だからこそ、彼らには生命が感じられ、感情が感じられます。このリアリズムな表現だからこそ、思想の対立・思想のあり方が鮮やかに読み手に伝わるのだと思います。

 

思想の対決シーンは緊張感が素晴らしいものです。未読の方はぜひ読んでください。
では。

 

 

『はつ恋』イワン・ツルゲーネフ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です

 

イワン・ツルゲーネフ『はつ恋』です。1800年代のロシア・リアリズム文学におけるドストエフスキーの好敵手です。

16歳のウラジーミルは、別荘で零落した公爵家の年上の令嬢ジナイーダと出会い、初めての恋に気も狂わんばかりの日々を迎えるが……。青春の途上で遭遇した少年の不思議な〝はつ恋〟のいきさつは、作者自身の一生を支配した血統上の呪いに裏づけられて、不気味な美しさを奏でている。恋愛小説の古典に数えられる珠玉の名作。

恋愛小説の古典的名作として有名です。ですが、恐らくイメージと違った内容に驚く方も多いのでは。この作品は終始「憂愁」を帯びています。

 

ツルゲーネフは「最後のロシア貴族」と表現されることがあります。彼は地主貴族の子として1818年に生まれました。農奴解放令が制定されたのは1861年です。つまり、彼は貴族として生まれ、成長に合わせてロシア地主貴族文化が廃頽していったのです。この荘園貴族文化の崩壊に抗いながら、詩的哲学を一貫して生涯を過ごしました。

思想的な立場から言えば、青年時代から晩年に至るまで、終始かわらぬ西ヨーロッパ的知性の確固たる信奉者ーーいわゆる西欧派であったのです。

解説で神西清さんはこう述べています。
この作品では特に悲哀に満ちた憂いが、どこか上品で、そして美しい文章で、内容以上の「淡さ」を持っています。これこそ「貴族の品位」と「西欧の表現」であると考えられます。


『はつ恋』はテーマと相まって「淡い文章」が、それぞれの読者が経験した「青春」を、まだ「恋」を知らぬが「恋」に焦がれる感情を、ノスタルジックな情景と共に思い起こさせ、また主人公の「青春」を覗くこととなります。

 

この物語はツルゲーネフの「半自伝的作品」です。
父親、母親、主人公、初恋相手、経験、背景。
トラウマもののこの物語が、多感な青春のこの時期に、事実として経験してしまったのならば晩年のニヒリストへ成長する事も納得せざるを得ません。

自分が恋を恋ともわからず、恋したと思い込んだのは、「初めて器量の良い異性と接近出来たから」だけだったのです。その相手は父親が浮気相手として掻っ攫ってしまいます。この時、主人公のウラジーミルは「父に憎しみを抱きません」。それを知った後も紳士的に尊敬を続けます。
ここで読者は違和感を抱きます。普通は憎むのが自然です。尊敬の念は薄れます。

 

半自伝的作品ですが、創作が無いわけではありません。つまり実際のツルゲーネフは憤慨したものの「表に出すことが出来なかった」だけなのでは。それをそのまま書くことを「貴族的自負心」が許さず、少し捻じ曲げてしまったのでは。そう感じます。

この場面に限らず、随所にそのような「自負心」が影響されている箇所が見受けられます。特にヒロインであるジナイーダの描写は顕著です。

 

ジナイーダの女王的な振舞い、或いは高慢は、没落前の貴族的生活により培われたもの。彼女は現実を受け入れることを無意識に拒み、美貌により褒めそやされる事を貴族的扱いをされていると紛い、若さと白痴で地に足が着かないところを、年季の入った伊達男に唆される。
散々美しさを描きながら、読後に世間知らずな滑稽さを彼女の印象に残させるのは、ツルゲーネフの受けた心の傷を少しでも癒そうと、持てる文芸力を注いだ結果だと読み取ることが出来ます。

そして、ジナイーダの生の終わりを非常に無味乾燥な表現にしているところは「独りよがりな因果応報論」を押し付けているようにさえ感じます。

 

ツルゲーネフは生涯独身を貫きました。
ですが、子はもうけていました。家族を欲していながら妻を得ることが出来なかったのは、過去の心傷が原因ではないでしょうか。起因したのが自身の父であるならば、時代の流れにおける父親世代、つまり農奴解放へと導いてしまった世代、地主貴族を没落へと導いた世代とシルエットは重なり、彼の中でニヒリズムを構築してしまったのは当然なように思います。

 

中篇で読みやすい文体ですので、未読の方はぜひ読んで苦悩を体感してみてください。

では。

 

『イワン・デニーソヴィチの一日』アレクサンドル・ソルジェニーツィン 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

アレクサンドル・ソルジェニーツィンイワン・デニーソヴィチの一日』です。ソビエトの「雪解け」時代、スターリニズム批判、ノーベル文学賞受賞。
真にロシアを思い、強いキリストへの信仰心を持った文学者です。

1962年の暮、全世界は驚きと感動でこの小説に目をみはった。のちにノーベル文学賞を受賞する作者は中学校の田舎教師であったが、その文学的完成度はもちろん、ソ連社会の現実を深く認識させるものであったからだ。スターリン暗黒時代の悲惨きわまる強制収容所の一日をリアルに、時には温もりをこめて描き、酷寒に閉ざされていたソヴェト文学にロシア文学の伝統をよみがえらせた名作。

1941年、ソルジェニーツィン大祖国戦争独ソ戦)の開戦で召集され戦地に向かいます。1945年前線より友人へ送った手紙が検閲にて「スターリン批判にあたる」とされ逮捕、モスクワの収容所に連行され、懲役8年を受けることになります。
イワン・デニーソヴィチの一日』はこの時の収容所経験をモデルにした作品です。

1953年に8年の刑期を終えると、釈放されずにカザフスタン北東部へ永久流刑が決定。
投獄と追放の10年間で彼の思想に変化が起こります。マルクス主義であった彼はこれを放棄し、哲学的クリスチャンへ転向。このあたりはドストエフスキーの投獄中の思想変化と非常に似通っています。

1956年2月に第20回共産党大会においてフルシチョフ首相が「スターリン批判」の演説を行い、「雪解け」の時代に入りました。ここでソルジェニーツィンは流刑から解放されます。
1961年10月、第22回共産党大会の決議によってレーニン廟に眠っていたスターリンの遺骸を廟外へ追放。この事で一般大衆にスターリン批判が広がり始めます。期を見計らったかのように、『イワン・デニーソヴィチの一日』が1962年にフルシチョフの後押しで世に発表。ソビエトの教材に使用されるほど世に広まります。

しかし、順風満帆な作家生命ではありませんでした。
上記が原因のひとつとなり、1964年にフルシチョフ失脚。その後保守派によるソルジェニーツィン迫害が始まります。

1969年にはソビエト連邦作家同盟より「反体制的な皮肉の修正」を求められ、作品の発表を全て発行停止、最終的には反ソ的イデオロギー活動を理由に作家同盟を追放されました。1970年にノーベル文学賞を受賞するも授賞式には出席できる状況ではなく、1974年に国外追放された時に賞を授与。その後長い期間を国外にて過ごすことになります。
1985年にゴルバチョフ政権が誕生し、1990年8月の大統領令によってソ連の市民権が復活しました。

 

イワン・デニーソヴィチの一日』では、収容所内における一日の過ごし方が、とんでもないリアリズムで描かれています。体験を基にしているからこその景色・心理描写・温度など。疲れの取れない寝床、満たされない空腹、マイナス30度の酷寒で行う行軍・作業。
語り手イワン・デニーソヴィチ・シューホフの、皮肉やユーモアを交えながら、また心情を吐露しながらの軽妙な語りは、内容と相反して暗い雰囲気になりません。スムーズにページを捲ってしまいます。
8年間の収容所生活で得た経験・勘・知恵・処世術を、惜しげもなく我々読み手に教えてくれます。

足は靴をはいたまま決して火に近づいてはいけない。これはぜひとも心得ていなければならない。それが編上靴なら皮に割れめができるし、フェルト長靴なら、ジクジクしみてくる。湯気がたちのぼるだけで、ちっともあたたかくならない。そうかといって、もっと火のそばに近づければ、焼けこげができてしまう。そうなったら、春まで孔のあいた靴をはいていなければならない。かわりなんか、どうせ貰えないんだから。

実経験があるからこその描写が、その知恵の存在感に圧倒されます。
また、皮肉も随所に現れます。

「しかしですね。芸術とは、なにをではなくて、いかに、じゃないですか」
「そりゃちがう。あんたのいう『いかに』なんて真っ平ごめんだ。そんなもので私の感情は高められやしませんよ!」

ソルジェニーツィンは「なにを」書くか、「なにを」書いて伝えるかに向き合っていました。

徒刑ラーゲルのいいところはーー言論の自由が「たらふく」あることだ。

 

ドストエフスキーの有名な一文「人間はどんなことにでも慣れる存在」を証明するかのような内容が起床から就寝まで始終続きます。

いつ、どんな不幸が降りかかってもおかしくない状況下で、それを跳ね除ける精神を守っているものは、自分にとっての「幸福」を理解して大切にしている心であると思います。
先日のヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』でもありましたように、「精神を守るための幸福」が生き抜く活力であり、保てないものが排除されていく社会であると改めて感じました。
作中で「家に帰りたい」という願望が垣間見られます。
その願望は心の深層に、或いは表層に常時存在しているものの、その思いを振り払おうとしている様は、「願えば遠のく夢」と確信しているとともに、叶う可能性が薄いため「精神を守るための幸福」にしてはいけないと戒めているようでもあります。

 

訳者の木村浩さんは解説で以下のように述べています。

この『イワン・デニーソヴィチの一日』は、長らくスターリンの個人崇拝という酷寒に閉ざされていたロシア・ソビエト文学の復活を告げる記念すべき作品となった。

ソルジェニーツィンの文学は、スターリニズム批判という面だけではなく、純粋な文学としても充分に愛されるものです。想像を絶する過酷な環境下における「人間性の美」を描いた「人間賛歌」の作品ではないでしょうか。
つまり、スターリニズムとは人間性の否定であって、それに抗う人間の美しさを描いた作品と言えると、そう思います。

 

ソルジェニーツィンはインタビューで以下のように話しています。

「社会が作家に不当な態度をとっても、私は大した間違いだとは思いません。それは作家にとって試練になります。作家をあまやかす必要はないのです。社会が作家に不当な態度をとったにもかかわらず、作家がなおその使命を果たしたケースはいくらでもあります。作家たる者は社会から不当な扱いを受けることを覚悟しなければなりません。これは作家という職業のもつ危険なのです。作家の運命が楽なものになる時代は永久にこないでしょう」

 

同じロシアの作家で不当な扱いを受けたウラジーミル・ソローキンも同様の覚悟を持っていました。社会へ「なにを」伝えるかを真剣に考えた作家が増えることを望むばかりです。

では。

 

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『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』です。

「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大さと悲惨をあますところなく描いた本書は、日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年、その後著者は、1977年に新たに加えた改訂版を出版した。
世代を超えて読みつがれたいとの願いから生まれたこの新版は、原著1977年版にもとづき、新しく翻訳したものである。
私とは、私たちの住む社会とは、歴史とは、そして人間とは何か、20世紀を代表する作品、ここに新たにお送りする。

フランクルユダヤ人で、オーストリア精神科医でした。
1941年、ナチス当局軍司令部より出頭命令を受け収容所へ向かうこととなります。
この出頭命令は、アドルフ・ヒトラーより出された「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」における条文「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」に則ったものでした。

この収容所内での体験を余すところ無く、また体験したからこその生々しさを描写し、且つ心理学者としての冷静で正確な分析を、わかりやすく伝えてくれています。

 

なぜ、ユダヤ人が標的になったのでしょうか。
ポーランドアウシュビッツ強制収容所において、ナチスガス室実験を行いユダヤ人を大量虐殺したことは、あまりに有名です。

ヨーロッパにおけるユダヤ人への排斥思想はナチスよりずっと以前から持たれていました。その始まりはキリスト教徒でした。キリスト教の起源はユダヤ教にあります。ですが分離ののち、キリストを救世主と認めないユダヤ人に対し敵意を持ち、迫害を始めます。またキリストを磔にしたのはユダヤ教である、とまでされたのです。

キリスト教の拡大速度はとても速く、ヨーロッパ全土に広がりました。しだいに「ユダヤ教こそが悪」という思想が浸透していきます。この思想が色濃くなるにつれ、ユダヤ人であることから、自由に職へ就くことができなくなりました。

この思想は20世紀に入っても変わらず、人々の心に根付いていました。そんな中、第1次世界大戦に敗れたドイツ国を復興させるため、国と国民をひとつに束ねるため、「反ユダヤ主義」をイデオロギーとして提唱し、利用したのがナチス党首アドルフ・ヒトラーです。

 

1938年にパリのドイツ大使館で書記官が殺害されます。犯人はユダヤ人でした。ナチスによるユダヤ迫害の復讐でしたが、これがドイツ国民の怒りに火をつけました。国民はドイツ国内のユダヤ教徒、およびユダヤ人を90人以上殺害します。これがクリスタル・ナハト(水晶の夜)です。ユダヤ人が経営する商店が破壊され、その窓ガラス片が散乱している様子から、このように呼ばれます。この時に逮捕されたユダヤ人は3万人を超えますが、収容所に送られるも国外へ移住することを条件に数週間で釈放されています。

ですが、この事件こそがきっかけとなり、ドイツにおけるユダヤ人迫害に拍車が掛かっていきます。そして1939年、ドイツがポーランドに進軍し第2次世界大戦が始まります。

 

ポーランドには何百万人もユダヤ人が住んでいました。その為、追放という手段を取ることが困難になり迫害一択となります。自由を剥奪するため、収容所を設け、そこで強制的に労働を行わせる。ここで建てられた巨大な建築物こそ、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所なのです。

その後、収容所における労働力は戦争の人員として目され、待遇が良くなったという論もありましたが、フランクルの告発によるとそれは極々一部の上層のみであったことが見受けられます。

戦争が続き、いよいよ食料難となってきた際、ユダヤ人をソ連へ追放しようという考えに及びましたが、戦線の状況により不可能となりました。そこで決定されたのはユダヤ人を「処理」することでした。この「処理」が目的である「絶滅収容所」は規模の問題もあり、アウシュビッツもそのひとつでした。

戦時中に亡くなったユダヤ人は600万人を超えると言われています。

 

収容所における「体験記」は、凄惨な描写、救いの無い描写、人間の醜さ、存在の不明瞭さ、命の軽さ、命の重さ、生命力の強さ、精神力の弱さ、現実と夢、など想像する事さえ苦しくなる経験を詳細に描いています。ですが、この作品の主テーマは告発ではなく「生きる意味を問う」という内容にあります。

 

フランクルはこれら全てを免れる亡命のチャンスがありました。
ですが、しませんでした。両親と結婚して9ヶ月の妻だけに苦しい思いをさせることができなかったのです。
だからこその、「生きる意味」がより強く彼の心に芯として根付いていたのだと思います。いつかこの地獄から開放され、愛に溢れる時間を過ごす希望こそが「生きる意味」として。

「数え切れないほどの夢の中で願いつづけた、まさにそのとおりだ……しかし、ドアを開けてくれるはずの人は開けてくれない。その人は、もう二度とドアを開けない……。」

フランクルは一人の妹を除き、大切な家族すべてを失いました。

 

心の支え、人生の目的が、精神を保つ大きな要素であり、美しさや愛情が精神を潤す糧となる。どのような環境であっても、むしろ生きる環境の制限が厳しくなればなるほど精神を守るものは、生きる目的であり、存在意義であり、未来の希望である。

実際に、精神を病み、生きる希望をなくして肉体まで諦めかけていた同志を、この思想による精神療法「ロゴセラピー」で、幾人も救った演説のシーンは鳥肌が立ちました。「ロゴセラピー」は、精神を病んでいる人に人生の希望を見つける手助けをして、心そのものを治療する行為のことです。

 

今、塞ぎ込みたくなるこの時代にこそ、精神を健康的に保つ努力が必要ではないでしょうか。
未読の方には、ぜひとも読んでいただきたい作品です。

では。

 

『緋文字』ナサニエル・ホーソーン 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

ナサニエル・ホーソーン『緋文字』です。
1850年に出版されました。

胸に赤いAの文字を付け、罪の子を抱いて処刑のさらし台に立つ女。告白と悔悛を説く青年牧師の苦悩……。厳格な規律に縛られた17世紀ボストンの清教徒社会に起こった姦通事件を題材として人間心理の陰翳に鋭いメスを入れながら、自由とは、罪とは何かを追求した傑作。有名な序文「税関」を加え、待望の新訳で送る完全版。

 

ホーソーンマサチューセッツ州セイラムに生まれました。セイラムは魔女裁判で有名ですが、ホーソーンの先祖はその判事として名を残しているジョン・ホーソーンです。「名門」の出であったホーソーンは、税関務め、作家、領事と経験。紹介分にある序文「税関」はこの経験を語るような切り口で始まっていきます。

 

税関で勤めている風景描写から徐々に「緋文字」の序章へと繋がっていく、リアルからフィクションへ繋がっていくメタフィクションの表現は見事です。限りなくリアルに表現したかったフィクション要素は、ストーリー自体ではなく、当時の宗教と法律がほとんど一体となし、神の存在が確実に存在していた社会であったように思います。

 

また、神への使い・信者が持つ人間としての悪意・欲望などを多く皮肉った描写も散見されます。

他人に危害を加える権力を手中にしたというだけの理由で、残酷になれるという傾向ほど、醜い人間性の特質はめったにない。

「神」という本来的に曖昧な存在が、「確実に存在している」とされている社会において、神の判断が全て正義であると誰もが信じている。だからこそ、神の判断として、魔女裁判などいう恐ろしい所業が聖職者より生まれてしまった。魔女裁判を促した聖職者は、自身の中に沸く嫌悪感に左右されなかったのだろうか。


ではその「神」の使いには、人間としての悪意は存在しているのか、欲望は存在しているのか。これがこの作品「緋文字」の核として存在しています。

物語はひとつの姦通事件で始まります。遠く離れた夫がありながら他者の子を産み落とした女性、遠くからようやくたどり着いたその夫、優しい御心で神への告白を促す青年牧師、謹厳なる偉大な老牧師、日に日に大きくなる罪の子であるその少女。
この物語の登場人物には感情移入が非常にし辛い。それは、彼らはその当時に存在した「愛」「神」「心」「罪」「誇り」「義」などのシンボルとして描かれており、その社会で生きた人々がみな、欠片として持っていたものです。
登場人物をシンボル化させて、思想を伝えようとする手法はドストエフスキーのそれと大変近しいものがあり、読みやすく感じました。

 

ナサニエル・ホーソーンは「アメリカン・ルネサンス」における代表的な作家です。ヨーロッパの伝統を植民地時代にアメリカへ継承し、それらが文化として土地に根付いていきました。文学においては主に、ロマン主義・思想主義とされています。この作品でホーソーンが軸に置いていた思想は「神と悪の存在」ではないでしょうか。
悪を徹底的に排除しようとする清教徒社会(ピューリタニズム)への批判や皮肉、全ての人間に存在し得る悪意と欲望、無垢であるが故の鋭い悪への洞察力。

当時は、われわれが才能と呼ぶものはさほど重んじられず、人格に安定性と威厳を付与する重々しい要素のほうがはるかに重んじられたのである。

いかなる才能よりも、威厳や上品さ、つまり聖職者らしさが神に近い、つまり「そのように見える人こそそうなのだ」と当時を大きく皮肉っています。

 

ホーソーンは、神と人間をどう存在させるか、を問うています。自分の心から神を存在させ、その神に全てを明かし、全ての許しを請い、全てを世に懺悔する。心にどう神を存在させるかということが、本当の信心であると、そう思います。

 

物語自体はさほど複雑ではありませんので、ホーソーンの思想を汲み取りながら読んでみてください。

では。

 

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