RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『肉体の悪魔』レイモン・ラディゲ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

青年期の複雑な心理を、ロマンチシズムへの耽溺を冷徹に拒否しつつ仮借なく解剖したラディゲ16歳から18歳のときまでの驚くべき作品。第一次大戦のさなか、戦争のため放縦と無力におちいった少年と人妻との恋愛悲劇を、ダイヤモンドのように硬質で陰翳深い文体によって描く。ほかに、ラディゲ独特のエスプリが遺憾なく発揮された戯曲『ペリカン家の人々』、珠玉のコント『ドニーズ』を収める。

1914年6月オーストリア皇位継承者夫妻がボスニアの州都サラエボセルビア人に殺害された事件「サラエボ事件」を発端として、ドイツ・オーストリアの同盟国側、ロシア・フランス・イギリスの協商国側に分かれた世界規模の大戦争第一次世界大戦争」が勃発しました。

9月になるとパリ東部を流れるマルヌ川周辺で「マルヌの戦い」が起こります。短期決戦を目論んだドイツ軍の行軍をイギリス軍が空から発見し、フランス軍がタクシーをも動員した迅速な移動でドイツの算段を破り長期の塹壕戦へと導いた戦いです。これは第一次世界大戦争自体をも長期化させる起因となります。


長期化された戦争は双方の兵士たちを苦しめます。兵長の指揮がない限り穴倉へただ籠り続けます。穴倉の衛生面は著しく不衛生で眠りを鼠が妨げる程でした。兵長の指示で穴倉を抜け出すとドイツ軍の忍耐強い猛攻に合い命を奪われます。心身ともに希望の見えない環境は兵士たちの精神を蝕み、発狂させるに至ります。この過酷な環境の中、救いとも言える望みは愛する人を想うことでした。発狂にまで及ぶ恐怖に一縷の望みで理性を保ち、ただ戦争が終結することを願いながら塹壕で眠ります。


また、待つ側の愛される人たちも戦争の長期化で不安と恐怖で心身を疲弊させていきます。かつてない多くの国を巻き込んだ大戦争の長期化は世の破滅を想像し、出兵者たちの帰還を待つこと自体に心の苦しみを抱き始めます。

この苦悩から逃れる悪魔的な救いは不道徳にありました。恋人、婚約者、夫を待つ女性たちは疲弊した心を受け止めてくれる間近な異性へ徐々に惹かれ始めます。

本作『肉体の悪魔』は少年期から片足をはみ出そうとする男性と、出兵した婚約者を待ちながら新居の準備を進める歳上の女性との物語であり、作者ラディゲ自身の経験を下敷きにした作品です。


レイモン・ラディゲ(1903-1923)は父の蔵書を読み漁り、フランス古典文学にのめり込んでいきます。彼自身に備わった詩才は早々に作品を生み出し作家としての資質を開花させていきます。風刺漫画作家である父の伝でジャン・コクトーに出会い運命の流れを大きく畝らせます。彼に詩の才能を見出されるやいなや、自身の経験を体幹とした処女小説『肉体の悪魔』の執筆に取り掛かります。コクトーは全面的な支援を行い、大々的な広報活動に勤しみ、世に広めたこの作品の著者ラディゲをフランス文壇の寵児へと引き上げたのでした。


肉体の悪魔』の文体は徹底して視覚的な情景描写は削ぎ落とされ、心理的快楽あるいは苦痛に繋がる耽美的な心情描写に重きを置いて描かれています。その筆致は直裁的に読者へ主人公が抱く羞恥や苦悩、憐憫などを伝え、心に感情をこびりつかせます。少年期特有の背伸び、傲慢、無知などを思い起こさせ、感情を揺さぶられながらも読み進めさせられてしまいます。そして中心となる二人の男女で描かれる悲劇に込めた訴えをラディゲはこのように語ります。

この悲劇は主人公自身からよりも、四囲の状況から生れたものである。ここには、戦争が原因の放縦と無為が一人の青年をある型に入れ、一人の女性を殺しているのが見られるであろう。このささやかな恋愛小説は告白ではない。一層それらしく見えるところにおいては、とりわけそうではない。自らを責める者の誠実さしか信じないというのは、あまりにも人間的な欠陥である。

 

ラディゲの才は、当初批判はあったものの、コクトーの後押しを抜きにして文壇にも認められるに至ります。そしてコクトーは惜しみのない愛をラディゲに注ぎます。ラディゲもまた、その心を深く受け入れます。若すぎる精神へ不道徳が与えた影響は女性の暖かみを感じられなくさせてしまい、同性に心を向けさせたとも言えます。コクトーの愛は文壇への支援だけではなく、心身ともに訴えます。最愛の人である証拠としてカルティエに指輪をオーダーし揃いで作り身につけます。これが現在でも見られるカルティエ「トリニティ」です。コクトーはラディゲの才能、身体、若さ、あらゆる点に惚れ込んでいました。しかし、指輪を贈ったすぐ後の1923年12月にラディゲは腸チフスにより早逝。コクトーは打ちひしがれ阿片に溺れながらラディゲを思い続けるのでした。

従容として死に直面するということは、一人の場合でなければ、問題になり得ない。二人で死ぬるのは、神を信じない人々にとっても、それはもはや死ではない。悲しいのは、生命と別れることではなくて、生命に意義を与えるものと別れることである。恋愛がわれわれの生命であるときは、一緒に生きていることと、一緒に死ぬこととのあいだに、どんな相違があろう?


僅か二十年の人生を燃え上がるように生きたレイモン・ラディゲ。死後に出版された『ドルジェル伯の舞踏会』では、コクトーが執筆を支えただけでなく、題名の考案さえも行ったので、校正や助言も惜しみなく行ったこの作品は共作とも言えるものです。


悲劇の中で描かれる若さゆえの傲慢さや浅薄さは、戦争下における精神の不安定さからも引き起こされていると読み取ることができます。胸が締めつけられながらも過去を思い起こして読み進めさせられる本作『肉体の悪魔』。

未読の方はぜひ。

では。

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