RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『高野聖』泉鏡花 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

魔と夢が交錯するエロスと幻想の世界!飛騨から信州へ、峠をたどる旅の僧が、美しい女の住む山中の一軒家で一夜の宿を乞う。その夜……。


ジャン=ジャック・ルソーの著作を発端として西洋で活発化したロマン主義は、神秘的な描写でもって根本の自我を露出させて思想の広がりを見せました。その文学思潮は日本でも起こり、文明開花に合わせるように封建的な社会からの自我の目醒めを呼び起こして、自我の主張が多く溢れた「浪漫主義」として世に受け入れられました。『舞姫』などの森鴎外初期の作品群や、評論家である北村透谷の著作などが当てはまり、本作を生み出した泉鏡花も含まれます。


石川県の金沢で、加賀藩の白銀職工を祖に持つ象眼細工や彫金を生業とする錺(かざり)職人の父と、能などで演じられる大鼓方の葛野流(かどのりゅう)の家柄を持つ母のもとで生まれました。父母ともに芸の才に恵まれた血縁で、泉鏡花はその血脈を受け継いでいます。しかし、その母が次女の出産時に命を落とします。小学生の鏡花は悲嘆による強い衝撃を受けました。この悲しみは終生続き、「母恋い」の思いで摩耶信仰を続けました。十八歳のときに擬古典主義として知られていた尾崎紅葉に惹かれ、その門下生を目指して上京しますが、いざ訪問するとなると足が竦んで勇気を失い、一年ほど放浪します。そして1891年にようやく訪問すると、紅葉は快く受け入れて世話になることになりました。


鏡花の激しく神経質な心は多くの言動が裏付けており、彼の文学への姿勢にも強く影響を与えています。彼は何より文字を高尚なものとして捉え、大切に接しました。箸入れなどに文字が書かれていると捨てずに取って帰ることや、豆腐の「腐」という字を好まなかったために「府」と置き換えることなど、特異とも言えるほどの神経質さを見せていました。文学は文字の美的構成によって作られているという考え方は生涯変わらず、彼の生み出す神秘的で夢幻的な作品の持つ性質をより強めています。また、異常心理的作家とも呼ばれることのある鏡花の目線は、その豊かで敏感な感受性が幾度も不幸に見舞われたということに起因しているといえます。母鈴の死、重い脚気の療養、父清次の死、実家の貧困、これらによる精神の危機は、鏡花の神経質で脆い感情に傷を与え、屢々神経を衰弱させていきます。心は常に陰鬱であり、魔が襲いくる不安に駆られ、朦朧とした意識で日々を過ごして、遂には池への身投げまでも決意するほど追い詰められていました。


この窮地にあった精神を救った人が紅葉でした。紅葉の喝で精神を平静に維持することができ、文学で前向きに生きていこうと思い直します。文壇に立つ手助けだけではなく、精神面での良き理解者、そして指導者であった紅葉を、鏡花は彼の死後も崇拝し続け、日夜感謝を失いませんでした。1903年の紅葉の急逝は幾度の不幸にも劣らぬ悲しみを与えましたが、後に妻となるすずの存在に支えられ、執筆活動はより旺盛に続けました。その執筆力をより増幅させた一つの要因として、鏡花と決して相容れない自然主義運動の隆盛が挙げられます。島崎藤村『破戒』、田山花袋『蒲団』などを代表とする露骨な描写を特徴とする文学運動は、鏡花の創作意欲を煽り、次々と浪漫主義の作品を生んでいきます。この興奮状態は、主義迫害的な脅迫体験も影響して離人症状を来すに至ります。それでも破綻の無い作品を描き続けた鏡花の精神は独自の次元へと視野を高めて、その目線で現実を見るという特異な「鏡花世界」を創り上げました。神秘、幻想、艶美、脱俗、非合理といった浪漫的、超現実的な境地は読者に強烈な印象を与えます。

極端なものを少しも極端と思わず、むしろ、ある限界的な状況において発現する人間の最も貴重な真率な特性と見なしてしまう、鏡花固有の認識法にほかならない。

泉鏡花『外科室・海城発電』川村二郎 解説より


十一歳のときに母鈴を失ったことは、母性的な女性への慕情を描き続ける原因となったと考えられます。当時の不自由に囲まれた社会を生きねばならない女性たちへ、深い同情の眼差しを向けて、それを尊重する意思が強く根付いています。代表作である『外科室』でも、夫と子を持つ女性が抱き続ける胸に刻まれた深い愛と、死を恐れない烈しい情熱の共存が、妖しく美しく夢幻的に描かれています。


紅葉の存命中の1900年に世に出された本作『高野聖』は、鏡花の作中で、最も妖しく幻惑的な世界を描いた作品であると言えます。熱心な信心家の父親に連れられて幼時にお寺詣りによく連れられた経験が、超現実的な世界を脳内に抱き、二つの超自然力である「観音力」と「鬼神力」を信じて文学へと昇華させます。鬼神力は妖怪変化のようなもので、前述の「魔が襲いくる」という恐怖も、この鬼神力が精神に及ぼしたものでした。それに対する「観音力」は、自身の信心による絶大な神仏の加護を表し、度々の寺への訪問や紅葉への崇拝の念が裏付けています。この信仰心と文学の芸術的極致が融合して独自の幻惑的な世界を成り立たせています。作中において、功利主義の俗衆が美女を襲おうと企むことで獣へと変身させられるという超現実は悪に向けられた「鬼神力」として示され、主題に込められた「美女崇拝の念」が、作中全てに貫かれて存在しています。鏡花にとって女性が生における最高の主題であり、女性に対する二つの超自然力を持った強烈な魅惑の感情を抱いていたと感じ取ることができます。


鏡花は「観音力」において、その文言だけではなく、伝える調子や伝え方に大きな意味と効果があると信じていました。誰がどのように伝えるかで、その効力は変化して魔に打ち勝つ強さを得られるというものです。本作でも語り部の「高野聖」は、常に自身の信心に背かないよう思考を巡らせて、行動に責任を持って「観音力」を発揮します。美しく妖しい女性の魅惑的な言動にも、決して欲望に溺れることなく、修行の身であることを心に刻んで己の感情を抑えます。美女の誘惑的な行動の裏に潜む「鬼神力」は、抱き続けた「観音力」によって守られて、終幕でお上人(仏道を修行した住職以外の僧侶)の言葉に事情を聞かされて事なきを得るという幕引きは、描かれた超次元的な世界からの帰還を感じさせて、読者を不可思議な安堵へと導きます。鏡花は、このような「観音力」を文学へと昇華させようと試みていました。不思議な世界を描くことが目的ではなく、現実に存在すると信じている超自然力を筆に込めた結果、「鏡花世界」と呼ばれる特異な独自世界と魅惑的な女性を生み出すことになりました。

 

そこで文章の死活がまたしばしば音調の巧拙に支配せらるる事の少からざるを思うに、文章の生命はたしかにその半以上懸って音調(ふしがあるという意味ではない。)の上にあることを信ずるのである。故に三下りの三味線で二上りを唄うような調子はずれの文章は、既に文章たる価値の一半を失ったものと断言することを得。ただし野良調子を張上げて田園がったり、お座敷へ出て失礼な裸踊りをするようなのは調子に合っても話が違う。ですから僕は水には音あり、樹には声ある文章を書きたいとかせいでいる。

泉鏡花『おばけずきのいわれ少々と処女作』


鏡花の描く夢幻的な世界は、当時でも賛否を生む衝撃を与えましたが、現代の多岐にわたる超次元的な小説と並んでも、決して見劣ることはありません。恐怖や歓喜を全て凌駕する「鬼神力」と「観音力」で描かれる作品は、読者へ主題だけではなく強い独自の余韻を残して幕を引きます。唯一無二と言われた「鏡花世界」を未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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