RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『遊戯の終わり』フリオ・コルタサル 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

肘掛け椅子に座って小説を読んでいる男が、ナイフを手にした小説中のもう一人の男に背後を襲われる「続いている公園」、意識だけが山椒魚に乗り移ってしまった男の変身譚「山椒魚」など、崩壊する日常世界を、意識下に潜む狂気と正気、夢と覚醒の不気味な緊張のうちに描きだす傑作短篇小説集。短篇の名手コルタサルの、夢と狂気の幻想譚。


二十世紀ラテンアメリカ文学を牽引した作家のひとりフリオ・コルタサル(1914-1984)は、ベルギーのブリュッセルで生まれました。彼はアルゼンチン大使館で働いていた父親の都合で四歳までをヨーロッパで過ごし、その後、アルゼンチンへと入国しました。アルゼンチンへと帰国した父親は、家族を捨てて蒸発し、幼いコルタサルへ厳しい衝撃を与えます。彼は少年期を文学と共に過ごし、自らも詩や小説を書き始めました。とくにフランス文学を好んだコルタサルは、ジュール・ヴェルヌ、ヴィクトル=マリー・ユーゴー、エドガー・アラン・ポオなどを熱心に読み、その若い感性は独自の成長を遂げていきます。また、それらの作品から受けた影響で、彼は夢と現の狭間に入り込み、独特の時間感覚をもって過ごすようになっていきました。


教師の道へと進んだ彼は、持ち前の知識を活かしてフランス文学の教授となりました。しかし、1943年にアルゼンチンではフアン・ペロンを首謀者とする独裁政権打倒の軍部クーデターが起こります。これによって樹立したペロン政権に反対の意を示したコルタサルは、1951年にフランスのパリへと移り住みました。(ペロン主義は謂わば「労働者待遇改善」を推し進めるもので、教職にあったコルタサル等の公務員たちは「欧州文化至上主義者」であり、思想が正反対に位置していたため、彼は反対の意を示したと考えられます。)フランスに渡った彼は、執筆を精力的に行いながらも、アルゼンチンを筆頭としたラテンアメリカの政治に対しても関心を持ち続け、作品にも彼の思想は大きく反映されました。


短篇を中心に代表作が挙げられるコルタサルですが、共通して述べられる特徴は「日常と非日常の曖昧さ」であり、その筆致には幻想の探求とも言える独創性が込められています。『動物寓話集』『石蹴り遊び』などが代表作ですが、本作『遊戯の終わり』も、そのひとつです。1956年に同名の短篇集にて発表された本作ですが、この短篇集(概ね本書の内容)は彼の作風が一挙に進化し、そして確立した、転機的な位置付けの作品となっています。その後に生み出された多くの作品に取り入れられる「未成年期に体験する社会」と、その内に生ずる幻想性が、本作『遊戯の終わり』で大きな主題として描かれています。


コルタサルラテンアメリカ文学の隆盛を牽引したひとりで、ガブリエル・ガルシア=マルケスマリオ・バルガス=リョサ、カルロス・フエンテスなどとともに、この文学運動の代表者として知られています。現実と幻想の境界が曖昧な彼らが生み出した作品群は「マジックリアリズム」と呼ばれ、主にスペイン語の文学を再定義したことでも世界的に影響を与えました。また、コルタサルの文学性は、フランス文学が彼の基盤に影響しており、その筆致からはシュルレアリスムの印象も包含しています。


本作『遊戯の終わり』は、母親と叔母、妹のオランダとレティシアという少女とともに暮らす「私」の物語です。レティシアは身体に障害があり、行動が制限され、痛みを訴えることもあります。この少女三人は、特殊な遊びを楽しんでいました。家の傍にはアルゼンチン中央鉄道が通っており、車窓から景色を楽しむ乗客へ「彫像遊び」で楽しませていました。彼女たちは電車の通る時間になると「装身具」を籤で選び、或るテーマに則った姿勢を作って乗客へ見せるという遊びです。或る日、電車から一枚の手紙が投げられました。彫像の遊びを理解し、それを見て褒めた内容で、署名も添えてありました。アリエルという手紙を投げた少年に、三人は強く興味を持ちました。その後も手紙は投げられ続け、遂に電車を降りて会いに来るという話になりました。彼が訪ねてくる前夜、レティシアは手紙を認めてオランダへと託します。そして、アリエルはレティシアの居ない二人のもとへと訪ねてきました。レティシアに会えなかったアリエルは残念な様子を見せましたが、多くの話を交わして別れました。次の日、レティシアは叔母の宝石などを身に付けて、より一層に気持ちを込めた彫像遊びを、これを最後として披露します。そして、アリエルの乗る列車が向かってきます。


少女の目を通した語りは、未成年期における社会の目となり、そこに生まれる友情や嫉妬、さらには恋愛などといった複雑な感情を、直截的に読み手に感じさせています。これは大人社会の縮図とも言え、彼女たちは、その経験値の無さから新鮮さと不安が同居する独特の感情を抱いています。また、物語の舞台をアルゼンチンの郊外に設定していることで、(アルゼンチンの)読み手は実際の日常的な情景を思い描き、それらの空間を構築する「見慣れたもの」によって現実性を、前述の未成年期の複雑な感情によって幻想性を体感させられます。語り手の「私」と物語を追い掛けることで、読み手は「未成年期の社会」に腰を据えて周囲を眺め、そこで起こる事象に未成年期独特の「新鮮な不安」を感じることができています。そして読み手は、経験不足による「無邪気さ」と「大胆さ」によって登場人物たちが抱く繊細な感情を汲み取り、そこに新たな人生経験を心に刻む瞬間に立ち会います。少女たちの言語化に至らない感情の機微を、語り手の幼い思考で語られる様は、読み手自身の経験とも重なり、郷愁的な気持ちが湧き起こります。

レティシアの身体の脆さと精神の強さは葛藤を伴った行動として顕著に表れ、宝石を身に付けて彫像となる行為は彼女の勇気と自己肯定の体現であり、訪問日に参加しないという行為には不安と自己否定が表現されています。叔母に優遇される行為と身体に生ずる痛みは、アリエルとの幻想的な交際の夢を現実に引き戻し、彼女に訪れた恋愛感情の芽生えを摘み取ってしまいます。未成年期特有の経験は彼女の昂った感情によって「日常と非日常の曖昧さ」となり、彼女の心情として作品に映し出されています。


題名の「遊戯」は彫像遊びだけでなく、未成年期のメタファーとしての意味も兼ね備えています。彼女たちの異性を媒介とした「純真の喪失」や「経験による精神の成長」によって、本作が「未成年期(遊戯)の終わり」を表現していると理解できます。無邪気な遊びとして始まった「彫像遊び」は、アリエルという異性の存在によって「遊びの意味」が変化し、彼女たちの精神的な成長に合わせて、遊戯そのものを終わりへと導いていきます。異性への関心が目覚めた反応は、彼女たち三者三様の相違が見え、状況や性格が現実的に描かれています。レティシアの宝石を身に付けるという行為は顕著なもので、少女から女性へと精神が移行していく様子として受け止めることができます。そして、レティシアは自身の身体を思い、芽生えた恋が困難であると自覚してしまい、気持ちが砕かれることを恐れてアリエルと会わないように決断しました。このような感情の動きにこそ、異性を意識した精神の成長が見られます。

 

夜になっても、わたしたちはいつものようにしゃべらなかった。母さんは怪訝そうな顔で、どうかしたの、ねずみに舌をかじられでもしたのかいと尋ねると、ルトおばさんの方にちらっと目をやった。なにかいけないことをして、気が咎めているにちがいないと母さんたちは考えていた。


列車が線路の途中で停止しないように、未成年期の成長も同様に止めることはできません。通り過ぎるアリエルは、「重い記憶」となって彼女たちの脳内に滞在し、三人の少女の心に大きな経験として刻まれます。幻想的な描写が物語の経過につれて現実的となり、成長として未成年期の終わりを表現し、そこに一種のメランコリーを纏わせている点は、実に見事であると感じました。心にゆっくりと重みを与える、フリオ・コルタサル『遊戯の終わり』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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