
こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。
将校の子でありながら家を出て叩き上げで家具職人となった父親と、一代で財を成した染物業者の一人娘である母親のもとに、マクシム・ゴーリキー(1868-1936)は生まれました。安定した生活でしたが、ゴーリキーが僅か三歳のときに父親がコレラで亡くなったため、母親は実家へと戻ることになりました。しかし、その家の環境は劣悪で、女性や子供への暴力が当然のように繰り広げられ、ゴーリキーと母親も常にその被害に遭い続けました。罵詈雑言の飛び交う、憎悪や残忍さで充満した家庭環境は、彼の心に「重く澱んだ不快感」を与えます。八年間ものあいだ、このような環境を耐えることができたのは、深い愛情を注ぎ続けてくれた祖母のお陰でした。憎悪の渦のなかで、懸命に彼を守り、純粋な愛情を注ぎ続けた祖母の行為が、その後の過酷な人生に耐える強さを与えます。
母親が結核で亡くなると、ゴーリキーは祖父から家を追い出され、十一歳で文字どおりに「世の中」に放り出されます。ニジニ・ノヴゴロドの荒んだ貧民街へと足を向けたゴーリキーは、靴屋や製図工の徒弟、船乗りの使い走りや芝居の端役など、五年間を「失神するほど」働き続けました。労働は早朝からに深夜までおよび、その多くに体罰が付いてまわりました。
明かりの無い絶望とも言える生活のなかで、ゴーリキーを救う唯一のものは読書でした。はじめは娯楽のような冒険小説や推理小説を読んでいましたが、やがてイングランドやフランスの文学を読み始め、プーシキンをはじめとするロシア文学も読んでいきます。文学に込められた「芸術」は彼の心に多くの刺激と感動を与え、「自分はこの地球上で一人ではない」という確信を持ち、文学の持つ「強さ」を深く理解します。ゴーリキーが最も感銘を受けた「自分以外にも現実の社会に嫌悪感を抱いている」という点は、彼に「社会を救いたい」感情を与え、文学は未来への希望であると認識させるに至ります。豊かな社会と愛情に満ちた生活は、やがて彼自身が求める「希望のかたち」へと形成していきます。
しかしながら、現実が苦しい生活のなかにあることには変わりなく、浮浪者や娼婦が住まう貧民宿に暮らし、商店の小間使いを転々としていました。現実と希望の乖離に鬱屈とした感情を募らせながらも、生きるために彼は働き続けます。そのようなとき、彼に転機が訪れました。或る雇われたパン屋が、革命家アンドレイ・ステパノヴィチ・デレンコフの商う店でした。彼は当時禁止されていた豊富な図書を所有し、社会の革新を求める若者を集め、彼らに資金援助をし、当時禁止されていた思想を持つ文学を多く与えました。このような環境に入り込んだゴーリキーは、与えられる文学の思想や哲学の衝撃によって憂鬱症を患い、銃による自殺を実行します。幸い、弾は左肺を貫いたのみで一命を取り留めましたが、その後もゴーリキーは人民主義を求める若者たちと、集会に参加して多くの議論を耳にしました。しかし、ゴーリキーは彼らの語るロマン主義的社会思想に懐疑的で、人民が正義であるとする考えの根幹に賛同できませんでした。彼が身をもって感じてきた人民とは、憎悪や残忍、狡猾で愚鈍、残虐で利己的な存在であり、英雄的な片鱗は欠片も見られなかったためです。
1889年の春、同居していた学生革命家を警察から庇ったために、ゴーリキーは逮捕され、ニジニの監獄へ入れられてしまいます。彼自身が革命家であったわけではないため、あらゆる本を読む奇妙な男とだけ判断され、約ひと月で釈放されました。しかし、この後にゴーリキーが革命に関心を寄せることも要因となり、彼は常に監視下におかれて、何度も逮捕されることになります。この数年間は働く傍らで執筆を行っていましたが、満足のいく作品は完成させられませんでした。働き疲れ、執筆もうまくいかず、自殺という行為の愚劣さを理解したゴーリキーは、心身ともに疲れ果てていました。また、社会の残酷さや無関心にも疲れを助長させられ、魂の救済とも言える解放的な行為を求めて、放浪の旅へと向かいます。現在のウクライナやドナウ河口にまでも足を向かわせた放浪は、彼の豊かな感受性を刺激し、多様な社会や価値観の存在を理解させました。このようにして得た知見は、彼の過酷な人生経験と掛け合わさり、文学作品として結晶化していきます。彼の描いた社会の現実性は、ロシアの国民に大きな感銘を与え、異様なほどの人気で国民に受け入れられることになりました。
本作『どん底』は、まさにゴーリキー自身が体感した憎悪、残忍、愚鈍といった「重く澱んだ不快感」を中心に据えた戯曲です。明確な主人公は存在せず、明瞭な起承転結のない物語は、社会の一場面を切り取ったような印象で、そこで繰り広げられる登場人物の言動が「社会の表情」であるように感じられます。二十世紀初頭のロシア資本主義社会は、多くの「資本を持たない者」を生み出しました。他者の利己主義に敗れ、社会から爪弾きにされた人々は、人生の希望を取り上げられ、安賃宿でその日を堕落とともに生きています。職人、役者、巡礼、堕落した貴族、盗人、病人、娼婦など、さまざまな「資本を持たない者」が集い、酒と喧嘩が毎日のように繰り広げられています。彼らから滲み出るものは貧困と不幸であり、原因が社会であることから希望が断たれ、無気力に日々を過ごしていることが伝わってきます。
帝政末期のロシア資本主義社会では、秩序が不安定な状態にありました。資本を持たない「生のどん底」にある人々は、社会へ背を向け、腐食が社会に侵食し、希望と幸福を幻へと変化させ、秩序を崩壊へと畝りを帯びて導いていきます。この負の秩序からの解放や魂の救済を、社会を切り取るかたちで提示した作品が本作『どん底』です。
ゴーリキーは解放の手段として、二つのものを対置的に提示して、その効果を登場人物の言動によって表現しています。ひとつは、巡礼ルカーによる「慰めの嘘」です。人間は社会を思い通りに変化させることはできない、そのために自分が社会に適応する必要があるということを、ルカーは真実を憐れみによって覆い隠し、魂を守護する嘘によって「何も解決しない救い」を与えていきます。ルカーに欺瞞はなく、純粋な憐れみをもっての行為であるが故に、その幸福は瞬間的な快楽となっています。つまり、ルカーによる「慰めの嘘」によって真に救われる者は、死を目前にした者だけであると言えます。
静かで、安らかで……だから、おとなしく寝ておいで!死は、いっさいを休らわせてくれる。……わたしたちを、あやしてくれる。……死は安息なり、というが……これはほんとのことだよ!だって、この世のどこに、人間の休む場所があるものかねえ。
もうひとつは、サーチンを代表に見られる「救いの真理」です。人間はその存在として独立し、真実を求め、尊重されるべき存在であるという主張をもって、社会を変えていく必要があると説きます。ルカーの「憐憫の哲学」を真っ向から否定するもので、非常に力強い熱量が感じられます。
たった一つ、感じてることがある──それは、生活を変えなきゃならねえ──ってことだ!もっとましな生活をしなくちゃならねえ!自分で自分が尊敬できるような……そんな暮しをしなくちゃいけねぇ……
ゴーリキーは、ルカーの「慰めの嘘」を通して、これまでのロマン主義を求める受動的ヒューマニズムを否定しています。誰かが、国が、社会が自分たちの暮らしを変えてくれるといった考えを、彼は「人間とは素晴らしいものだ」という思いで行動に移す必要性を訴えていたのだと理解できます。ルカーの「慰めの嘘」は、薄い毒を盛られるようなもので、何度も受けると「素晴らしい人間」は消滅してしまいます。この対比は、ゴーリキーの過ごした苦しい人生経験があるからこそ、根本の本質を捉えることができているのだと考えられます。
前述のとおり、本作では明確な筋や主人公が居ないことから、劇は演じる舞台によって如何様にも変化します。サーチンではなく、ルカーに焦点を合わせたならば、印象が大きく変わるかもしれません。登場人物たちの美醜は、演じ方で大きく左右されますから、場合によっては異様に不気味な舞台もあり得ると思います。ロシア帝政末期の爪弾きたちが繰り広げる物語、ゴーリキー『どん底』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。