RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『あの大鴉、さえも』竹内銃一郎 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

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劇団「秘法零番館」や、佐野史郎との演劇ユニット「JIS企画」、そして最後の演劇団体とする「キノG-7」と活躍を続ける傍ら、後進の育成にも力を注ぐ劇作家の竹内銃一郎。彼の代表作のひとつ、岸田國士戯曲賞受賞作品『あの大鴉、さえも』です。

マルセル・デュシャンの「大ガラス」、ポーの詩集「大がらす」の二つをテコに、不条理な世界のなかへあえて踏み込んでいく三人の男の心情を、秘法零番館旗揚げへの思いと重ね合わせて描く竹内銃一郎の代表作(岸田戯曲賞受賞作)。他に、「劇薬」を収めた。

 

1960年代に激化した学生運動をはじめとする安保闘争は、国政により鎮静化させられ、学生達の怒りと主張は圧死させられました。この闘争の熱は徐々に下火となり、世間感情の正常化が図られたかに見えました。しかし、実際的には半投げやりな感情と、半絶望的な感情が入り混じり、「しらけ世代」とも言われる若者達を生み出す事になりました。無気力・無関心・無責任、この「三無主義」の世代は、経済苦とも合わさり、活力のない鬱屈した行動が散見されたと言います。

 

しらけ世代」を助長させた無力感は、若者達の向上心や使命感を削いでいきます。しかし、本能的な情欲、金銭欲、名誉欲は高まり、そして満たされない負の感情が溢れます。この満たしたい気持ちとそれを叶えるための行動を、「世間が与えた無力感」という大義名分のような言い訳を盾にして、自ら行動を起こしません。そしてその何も得られない結果を「不条理性」に置き換え、社会に責任を着せて不満を募らせます。登場する三人の独身者はこのような「しらけ世代」の属性を帯びています。

 

この作品には、デュシャンの「大ガラス」、ポオの「大鴉」、ベケットの「ゴドーを待ちながら」、これらの持つ不条理性や情欲が盛り込まれています。

 

要素:「大ガラス」

「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」

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通称「大ガラス」と呼ばれるこの作品は、男と女という原理的存在の欲望によって動く器官(装置)を表現したもので、人間の持つ根源的な観念である性の欲望をエロティックに表現しています。

この作品は二面で構成され、上部が「花嫁」、下部が「独身者」と分けられています。デュシャンにとって女性は聖なる存在であるため、男性よりも上部に設けられています。

聖なる花嫁は下部の男性独身者の欲望を刺激し、独身者はチョコレート摩砕機を始めとする器官を動かしてそれを吸い上げます。雲のような花嫁の欲望は独身者たちの情欲によって巻き取られ裸にされます。しかし、花嫁と独身者は交わりながらも隔離されています。

この作品そのものが装置であり、性欲の中に「聖性」と「不条理」が混在していることを感じることができます。デュシャンは「独身者の装置」という観念を、遺作に至るまでこのテーマを追い続けました。

 

要素:「大鴉」

この詩はポオを偉大な詩人として決定づけることになった作品で、死の四年前に執筆されました。信仰心の強い語り手が苦悩混じりに吐き出す言葉に、大鴉は「nevermore」と繰り返し答えます。

この大鴉が恐怖や悲しみを司る「非理性的存在」であるのに対し、語り手はギリシア女神の信奉者で「理性的存在」と言えます。大鴉が部屋に侵入し、「nevermore」の返答を繰り返すことで、語り手の理性が構築している秩序に保たれた世界が崩壊していきます。この不条理な結末へ導くように「nevermore」と答え続けます。

 

要素:「ゴドーを待ちながら

どこから来てどこに向かうのか、何のために、なぜ待つのか。何を待つのか。目的や手段、それどころか存在意義さえ疑いを抱いてしまう「ただ待つ者たち」の不条理演劇です。

本作では独身者三人がガラスを素手で運んでいますが、目的地はハッキリせず、届け先と思われる場所の入口は開かないなど、『ゴドーを待ちながら』を思い描かされる(劇中でもオマージュされる)演劇となっています。

 

フラットな演劇

背景に多くの要素、もっと言えば「陰鬱さ」とも言える要素を含んでいながら、劇中は軽妙で笑いさえ随所に散りばめられています。岸田國士戯曲賞を受賞した要因とも言える、ガラスを運ぶ「体(てい)」で三人の独身者が芝居をする演劇的な愉快さはもちろん、五百円で大喧嘩に発展する滑稽さや、自身の嗜好に執着する人間らしさ、コメディかとも思えるほどの息のあった三人の短い台詞の掛け合いなど、つい物語の本筋を忘れ、おかしなやり取りに笑ってしまいます。

しかし、経済苦であった当時の貧民層の抱いた世間に対する苦しさや、耽美的とも言える三条はるみ(ルミ)を塀の外から覗くデュシャンの「大ガラス」的な描写は、気付いた途端に脳内を電気が走ります。そして何より、最後の三人の独身者が短い台詞で掛け合うシーンはポオの詩のような音楽性が存在して、一気に最後まで意識を走り抜けさせます。

 

この作品について、竹内銃一郎さんは以下のように述べています。

M・デシャンの通称「大ガラス」を作品に取り込もうと思ったのは、物語化を可能にするための苦肉の策だった。パリのポンピドー・センターで、「デシャンの部屋」を見たのは、多分、この作品を発表した10数年後だ。P・センターの一画にあるその部屋に入ると、彼の幾つかの作品(オブジェ)が紐に吊られて宙に浮いていて、そのあまりの<軽さ>にわたしは感動し、「これでしょ」と思ったのだった。押しつけがましさがまるでない。わたしもこんな作品を作りたい、と。

竹内銃一郎のキノG語録

 

背景に含んだ多くの重いテーマ性を、実に軽妙な筆致で描ききった本作は、観る側に自由さえ感じさせる「軽快さ」を備えた演劇作品として仕上げられています。
非常に読みやすく、そして楽しく読むことが出来る作品です。

未読の方はぜひ。

では。

 

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