RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『阿片常用者の告白』トマス・ド・クインシー 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

トマス・ド・クインシー『阿片常用者の告白』です。舞台は1800年前半イギリスおよびウェールズ。阿片常用者であるド・クインシーが世に「阿片が与える快楽と苦悩」をそれぞれの編にて告白するという内容。

英国ロマン派屈指の散文家による自伝文学。幼少期の悲哀、放浪の青春から阿片常用の宿命の道程を描く。阿片の魅惑と幻想の牢獄を透徹した知性と感性の言語によって再構築した本書は、ボードレールはじめ多くの詩人や作家たちの美意識を方向づけた。新訳。

 

英国ロマン派詩人のワーズワース、コールリッジなどと親交があり、大変な純文学の才があり、また、批評家として活躍しました。また、紹介文にもあるようにボードレールから大変賞賛され、訃報を聞きつけた際「世界の端から端まで、すべての文学論争において道徳の仰々しい狂気が純文学の地位を簒奪してゆく」と嘆いたほどの傾倒ぶりでした。

 

生来頭脳明晰で多才であった事から「阿片常用者の告白」をしないような生き方であれば、違った人生を歩んでいたのかもしれません。ド・クインシーが「快楽」を求めたきっかけは切々丁寧に記述されていますが、それ以前に心を傷つける出来事が、重なり起こります。生まれてから8年間の間に、父と姉が二人亡くなります。本作ではこれらの生い立ちにはあまり触れていませんが「トラウマ」としては存在していたはずです。

 

まだ年端もいかない少年時代に与えられた古傷は癒えることなく精神に潜んでいたものと考えます。そこに心を砕かれるような大きな悲しみがあったとするならば、また貧困の最中にあり高価な葡萄酒に心身を委ねることができなかったとするならば、「阿片の快楽」を求めたことは極めて自然であったのかもしれません。

 

本作では先に「快楽」が述べられます。葡萄酒による酩酊との比較や、享楽の悦楽が増幅するといった内容です。なるほど阿片はそのように作用するのだろうと読むことが出来るのですが、後にボードレールは「詩的精神の過剰」により阿片が引き起こす快楽であると説いています。あくまで本来的に持っている「精神の具現」を「拡大鏡」によって増幅させうるものであり、個人によってその効果は雲泥に変わる、と。ド・クインシーの「詩的精神の過剰さ」と、「頭脳の明晰さ」と、「幼少期の不幸によるトラウマ」がない交ぜに作り上げた「精神の具現」を「拡大鏡」により増幅させたものが、彼にとてつもない快楽を、逃れられない快楽を与えた。そのように解釈できると思います。

 

後の「苦痛」の記述は、幻視と悪夢と肉体的苦痛を主に描かれています。抽象的な表現が続くかと思えば、現実か幻惑かも曖昧な表現に変化したりと統一性がありません。まさに苦痛の中を「感じたまま」表現したように受け取ることができます。

慇懃なる読者よ、小生がここ諸君の前に捧げるのは、わが生涯の非常なる時期の記録である。

この一文で始まる本作は、1822年までの「告白」です。この後、妻と息子二人を亡くします。阿片の苦痛に起因した貧困も続きます。壮絶です。そして彼は、「トマス・ド・クインシー」は1859年に亡くなります。享年七十四歳。

幻惑の快楽を追い求めたが故の不幸か。
あるいは不幸から救済を願ったからこその快楽か。

「阿片服用者が人類にたいして実際的な奉仕をなにひとつしなかったからといって、それが一体なんだというのか。もし彼の書物が美であるならば、彼に感謝すべきではないか。」

ボードレールの言葉です。この言葉を向けられた者には「幸福」を与えられています。
ド・クインシーが「快楽」ではなく「幸福」を求めていれば、このような「告白」は生まれていなかったかもしれません。

 

テーマは重いですが、素晴らしい文才により軽妙に読み進むことができます。時代背景を想像しながら読むと情景がありありと浮かび上がります。

 

興味のある方はぜひ読んでみてください。
では。

 

 

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