RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ドグラ・マグラ』夢野久作 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

日本の三大奇書と言われる内の一冊です。
ドグラ・マグラ」は、昭和10年1500枚の書き下ろし作品として出版され、読書界の大きな話題を呼んだが、常人の頭では考えられぬ、余りに奇抜な内容のため、毀誉褒貶が相半ばし、今日にいたるも変わらない。〈これを書くために生きてきた〉と著者みずから語り、10余年の歳月をかけた推敲によって完成された内容は、著者の思想、知識を集大成する。これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。
 
ドグラ・マグラ」の意味は、作中では「戸惑う、面食らう」や「堂廻り、目くらみ」が長崎の方言で訛ったものと極簡単に説明されている、というより、説明する気は殆ど無いように思えます。この作品は探偵小説として発表されており、記憶を失った青年の目線で物語が進んでいきます。目覚めると精神病院、自分は精神病患者なのか、自分が何者かを突き止めることはできるのか。この作品は夢野久作が脳溢血で亡くなる前年に発表されました。

10余年の歳月をかけた推敲によって完成された内容は、著者の思想、知識を集大成する。

 

輪廻転生を科学的視点で証明しようとする試みや、メタフィクショナルな表現は、現代では頻繁に使用される設定ですが当時では全てが斬新でした。また作中に挿入される資料「脳髄論」「胎児の夢」などは、断片的な観念の刷り込みのように強制的に脳へと取り込まれて、物語の世界に幅を広げて圧倒させられる要素となっていきます。

 

「脳は電話交換所に過ぎない」という発想は、夢野久作が送った禅僧時代の教えが反映されています。自身の存在そのものは輪廻の中に存し、過去の業と共に廻り、今を生き過ぎていくという考え方です。いわゆる「宿業」であり、これを「自身を作り上げる存在全て」が背負っていると見ています。物理的存在である細胞の一つひとつに漏らすことなく精神が張り巡らされ、過去の善悪の記憶を宿し、いまここに在るとしています。生命や脳という概念以上に、魂や精神が主存在であり、今を生きる意識は虚構とも言える薄い存在として考えられています。

 

しかし「宿業」を背負った存在は、定められた「宿命」をも背負っていると言え、抗うことのできない「過去の所業や苦楽」に伴う対価を現在が支払わなければならないという苦しみが滲んでいます。これはアンポンタン・ポカンが二人の「呉」に背負わされた苦悩を秘めた未来を歩まされる「虚な苦しみ」として描かれています。自己発見の為に進められる物語は「宿業」を明らかにして苦しむだけでなく、「ブウウ・ンンン」に挟まれた輪廻の一端を垣間見ただけという「虚空の生」に打ちひしがれることになります。

 

遺伝子に記憶が留まり、輪廻転生を「細胞から」感じるという理論は狂人的な発想と言えるかもしれません。しかし、その遺伝子に残る記憶を新たな胎児の形成に伴い母の腹の中で夢という形で見続けているとするならば、記憶上の輪廻転生は成り立っているとも言えます。これこそが「宿業」の具現化であり根源思想ではないでしょうか。

 

出版された昭和十年、ヒトラーベルサイユ条約を破棄しました。世界は破滅的な情勢へと急展開していきます。そのころ日本では各地で「流行性脳炎」が蔓延していました(後に「日本脳炎」)。そして対中、対米へと軍事的行動が激しくなっていきます。

世界情勢の不安定さの中で、日本では自身の脳さえ信用できない暮らしでした。取り巻く多くの不安が元となり、狂人の定義もままならない中、「自分は狂人か否か」という問いを日々、民衆が自問していたとしてもおかしくなく、またこのような作品が世に出る事は必然だったのかもしれません。しかし夢野久作はこの作品で虚しさだけを表現していたのではなく、「宿業」に対する善行による救済を図ることで徳を積み次の輪廻転生を良くするという「禅的思想」が含まれていたのではないかと感じました。

 

少し癖のある文体ですが、都度都度気味が悪く感じる擬音などで楽しませてくれる作品です。

今読んでも色褪せていませんので、ぜひ読んでみてください。

では。

 

 

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