RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ 感想

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こんにちは。 RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

名刺の住所は「旅行中」、かわいがっている捨て猫には名前をつけず、ハリウッドやニューヨークが与えるシンデレラの幸運をいともあっさりと拒絶して、ただ自由に野鳥のように飛翔する女ホリー・ゴライトリー。彼女をとりまく男たちとの愛と夢を綴り、原始の自由性を求める表題作をはじめ、華麗な幻想の世界に出発し、多彩な作風を見せるカポーティの作品4編を収める。

1918年に迎えた第一次世界大戦争の終結から、アメリカではロシア革命に端を発するボリシェヴィキズム(暴力革命を掲げる過激派共産主義)が広がり、統制の取れた革命思想を持つ労働者たちが無政府共産主義的な運動を政府に向けて起こし始めます。戦後の物価高による労働者の反発、人種差別による他民族の反発が、この気運によって拍車を掛け、「赤の恐怖」(Red Scare)と呼ばれる激しい労働運動の恐怖が大衆に広がっていきます。しかし、国として見た側面では戦後の特需と貿易の発展により徐々に景気が回復し始めたため、労働運動も1920年には落ち着きを取り戻し始めました。数年間続く好景気に政府は保守的な態度を取り続け、民間企業への支援を中心に経済維持を図ります。これにより、実際に経済の多くを支えていた海外貿易の利潤は軽視され、ヨーロッパ諸国に対してアメリカに有利な貿易条件を提示し続けます。健全な貿易は発展せず、株式市場が不活性化して、遂には貿易利潤も崩壊して世界恐慌へと導かれていきます。


第二次世界大戦争を経て、アメリカはまたも戦争特需に見舞われます。甚大な被害を受けることのなかったアメリカは発展に特需を充当することができました。復員兵援護法(GI法)を皮切りに多くの大衆は恩恵に与り、中流階級の潤った生活を取り戻します。しかし、恩恵に与ることができなかった人々は、やはり労働運動を発起します。そこに国際的に拡大していた共産主義運動が労働運動に手を貸す形で蔓延し、再び「恐怖の赤」が再燃します。共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーは自身も被害を受けたことから共産主義に対して反対姿勢を声明し、共産主義者を排斥しようと尽力します。メディアを活用して国民の理解を募るなか、右翼を煽って共産主義排斥運動「赤狩り」を押し進めます。ロナルド・レーガンウォルト・ディズニーなどの右派から密告を受け、次々に過激な排斥行動をとっていきました。党として国民の支持を得るために共和党マッカーシーの言動を露出させていましたが、国民はやがて行き過ぎた煽動者と見るように変わり、党もろとも失脚を免れない状況に陥りました。国民感情は過激派労働運動から、本質的な権利の主張へと変遷し、アメリカン・アナーキズムは無政府平和主義へと形を変えていきます。そして1960年に入ると民主的社会を目指す学生を中心としたニューレフト(新左翼)が活性化し、言論主義、環境保護、性差別撤廃、人種差別撤廃など多くの主張が高まりました。この主張手段として文化や芸術を用いたことからカウンター・カルチャーへと発展していきます。


1958年に発表されたトルーマン・カポーティ(1924-1984)の中篇小説『ティファニーで朝食を』の中で「いやな赤」という表現が幾度も繰り返されます。舞台は1943年の秋、第二次世界大戦争の真っ只中。語り手の「私」が翻弄されながらも親愛を深めていく魅力的な女性、ホリー・ゴライトリーが二人の会話の中で発する言葉です。

ダイヤなんて、ほんとうに年をとった人がつけないと、ぴったりしないもんよ。それに危険でもあるし。マリア・オウスペンスカヤみたいに。皺だらけで、骨ばって、白髪頭だと、ダイヤもひきたつのね。あたしそんなになるまで待てないわ。あたしがティファニーに夢中になっているのは、宝石のためじゃないの。よくきいて。あんただって、あのいやな赤がはびこった頃のことおぼえてるでしょ?

当時のアメリカに根付いた共産主義の象徴的意味合いを持った「赤」ではあるものの、ホリーの発言からは「押し付けられた主義」のような印象を受けます。単純に共産主義を拒否する感情ではなく、自己を失うことから逃れたいという願望が見えてきます。これは当時に活性化していた女性の社会進出、権利保護といった気運さえも彼女は「思想の束縛」と捉えて、それらもやはり拒否しようとする姿勢が見られます。


ティファニーで朝食を食べる」という表現も、ティファニーにダイニングなど無かったことから、彼女の希望の象徴表現であると言えます。「ティファニー・ブルー」というブランドカラーは駒鳥の卵の色から発想を得ています。イギリスでは春を告げる駒鳥を「幸せを呼ぶ鳥」と言い、真実や高潔の象徴とされています。

「いやな赤」から逃れて自由を求め、「ティファニー・ブルー」の自身にとっての真実の幸せを夢見る、そのような憧れが込められています。この一貫した志を持った女性としてホリーを捉えながら読み進めると、奔放で身勝手で自虐的な言動も一つの主義のもとに行われていることが伝わってきます。


また、飼い猫に名前をつけない、或いは鳥籠に小鳥を入れることを許さないという信念は、ホリーの束縛を拒否する意志表現です。そして属するものを持たないように人から離れることも、家族という束縛から逃れようとする考えからと受け止められます。世間から見た「当然の幸福」さえも、彼女の自我にとっては枷でしかなく、本能とも言える個の意志を尊重しようと行動していきます。郵便受けの名刺に記されたトラヴェリング(旅行中)という文字は、安住を拘束と捉えている彼女の主張に他なりません。

映画スターになることと、大きな自我を持つこととは並行するみたいに思われてるけど、事実は、自我などすっかり捨ててしまわないことには、スターになどなれっこないのよ。といっても、あたしがお金持になり、有名になることを望まないというんじゃないの。むしろ、そうなることがあたしの大きな目的で、いつかはまわり道をしてでも、そこまで達するようにつとめるつもり。ただ、たとえそうなっても、あたしの自我だけはあくまで捨てたくないのよ。ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。


カポーティは女性の社会進出ではなく、女性の「真の解放」を求める姿勢を本作で描いています。男性の補助的な立場、家庭内で務めを果たす存在といった風潮は、市民運動が活性化しても大衆の持つ女性に対する印象を劇的に変化させることは困難でした。目に見えない「個としての束縛」から逃れようと自己を持ち続けて、ただ思うように生きようとした姿がホリーの言動に投影されています。映画女優としての成功、上流階級の妻となる幸せ、安息を得られる機会を悉く逃すように見える彼女の奇行は、心に抱く個の尊重が齎したものとして得心がいきます。


社交界で道化のように振る舞い、世間へ話題を振り撒き続けたトルーマン・カポーティ。そしてゲイという緻密で繊細な心の持ち主だからこそ、「女性の本質的な自由」を求める希望に共鳴できたのかもしれません。切ないながらも希望を失わない物語は、読むものの心に強く響くものが含まれています。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『モンパルナスとルヴァロワ』ジャン=リュック・ゴダール 感想

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こんにちは。 RIYOです。
今回は映画作品です。

 

1954年、映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」に掲載された記事が映画界を変革するほどの大きな影響を与えました。それは、のちに自ら映画を監督することになるフランソワ・トリュフォーの文章で、既存の脚本重視の作品は「芸術としての本質」に欠けているという主張でした。「良質の伝統」を守り続けるフランス映画はリアリズムを求めている、しかし決まり文句や使い回された洒落ではリアリズムはより遠のいて行く。こう主張して「真のリアリズム」を映し出そうと模索することが必要であると説きました。脚本を元に監督が脳内でイメージを創り上げるならば、撮影される作品がそれ以上のものと成り得ることはなく、現実を映像に収める芸術性が持つ偶然を含めた「真のリアリズム」とは対極的に掛け離れてしまうという考え方です。この考えに賛同した若手映画監督たちは、挙って多種多様な個性を用いて表現技法を模索しながら多くの作品を生み出していきました。


この頃のアメリカでは第二次世界大戦争を終えて、特需により国民の多くが中流階級の生活を味わう豊かなものでした。好景気に訪れた娯楽を求める波は映画に波及して多くの監督が成功を収めました。主流になっていたミュージカル映画は浮かれた世間を表現したような豪華さや華麗さがあり、数多くの民衆を楽しませました。しかし、バーレスクアミューズメントパークなど、他の娯楽も溢れていたことから流行が過ぎる速度がはやく、徐々に下火になってきました。そこで映画に新たな価値、或いは新たな芸術性を求めようと試みていた監督たちがいました。アルフレッド・ヒッチコックハワード・ホークスなど、新たな映像表現を試みた革命児たちです。当時のアメリカでは斬新さが受け入れられずあまり良い評価を得られていませんでしたが、物語を多角的に映し出す技法に「真のリアリズム」を求めるフランスの映画監督たちは大きく感銘を受けて議論を延々と繰り返しました。


フランス映画史において、これらの若手映画監督たちから生み出された変革運動をヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と称します。「真のリアリズム」を多角的に映し出そうとする新たな試みは、フランス映画界を大きく動かしていきます。口火を切ったフランソワ・トリュフォーはもちろん、犯罪映画を中心に退廃主義を描いたクロード・シャブロル、「演技と現実の二層構造」を構築したジャック・リヴェットなどが挙げられ、本作『モンパルナスとルヴァロワ』を手掛けたジャン=リュック・ゴダール(1930-2022)もそのひとりです。彼らは「作家主義」を主張し、それぞれの作家が抱く個性を活かした作品を生み出して、そこに多様な芸術性を込めることに熱心に取り組みました。特に共通している点は、現実世界を巻き込んだロケ撮影、そして資金不足による低予算撮影であることです。また、横のつながりを活かしたオムニバス作品が多く作られていることもひとつの特徴です。「作品など存在しない。存在するのは作家だけだ」というフランソワ・トリュフォーの言葉が全てを物語っています。

また1993年にパリで封切りされたゴダールの作品『ゴダールの決別』に合わせて行われたインタビューで、ゴダールは映画と芸術に関してこのように述べています。

〈芸術〉とは本質的にヨーロッパ的なかなり厳格な概念であり、早くからキリスト教の一部として取り込まれたものだ。〈創作=神による創造〉、〈創作者=造物主〉という概念があるように……。〈文化〉は全く別のものだ。〈文化〉とは非物質的な、あるいは精神的なものと交換可能なものなんだ。すべてが〈文化〉だ……。文化は長い間、商業だった。アメリカ人は最初から〈文化〉が国力を発揮するということをよくわきまえていた。〈芸術〉という概念は、インディペンデントの芸術家を通じてしか表現されない。その大半は呪われている。メルヴィル、ポー、フォークナーといった人々……ベートーヴェン、それが〈芸術〉だ。バスティーユオペラ座(国立第二オペラ座)で演奏される「第五」はコロンビア・レコードを通じて普及する。こうしたある種の〈芸術〉の〈普及〉の形態が〈文化〉なんだ。ヌーヴェルヴァーグとともに、ぼくたちはいつも、「映画も芸術だ」と主張した。「映画監督も芸術家であり、単なる作業員ではない優れた存在だ」とね。ドン・シーゲルシャトーブリアンと同じ集団に属するんだよ。


ゴダールの代表的な撮影手法として、フィルムの途中を意図的にカットして、映画の時間軸を不透明にする「ジャンプ・カット」と呼ばれる表現があります。ほぼ構図が変わらない中での時間のズレは一瞬にして違和感を生み出します。コラージュのように継ぎ接ぎ感を思わせて、現実の切り取りを鑑賞者へ強制的に認識させます。また、登場人物が観客に向かってメタ視点で話し掛ける表現も、ゴダールの大きな特徴といえます。超現実的視点で切り取られた現実世界の描写は「真のリアリズム」を表現していると言えます。

 

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本作『モンパルナスとルヴァロワ』は、オムニバス作品『パリところどころ』に収められている二十分とない短い作品です。1965年に上映されました。ジャン=ジロドゥのコント『勘違い』をモチーフとしており、大筋も似通っています。本作は、女性が恋人と愛人にそれぞれに手紙を送りますが、投函したあとで封筒に入れ間違えたと気付きそれぞれの元へ駆けつけるという物語です。パリ南部のモンパルナス(芸術家)、セーヌ川右岸のルヴァロワ(職人)、それぞれ象徴的な男性の登場人物で、会話や表情や仕草などで特徴が描かれています。また、カメラワークの指示は「ドキュメントのように追ってくれ」という指示のみで撮影されました。

人物たちがクロースアップでとらえられているときでさえも、そのかたわらの人生は存在している。たとえカメラは人物たちに向けられていても、この映画は彼らを中心にしてつくられているわけじゃない。ぼくがつくったのは界隈についての映画、時代についての映画なんだ。そしてその界隈というのはモンパルナスのことだ。この映画はぼくにとっては、モンパルナスについてのある観念、ぼくが絵画と人々についてもっているある観念、つまりヘンリー・ミラーふうのある観念と対応しているわけだ。


本作が発表されたその数年後、フランスでは経済発展至上主義のド=ゴール体制に向けて、若い世代のニューレフト(新左翼)が市民運動を起こします。大戦後のベビーブーム期に生まれたこの世代を受け入れるために儲けられた新たな大学施設は、金銭的な投資を政府が怠り、施設そのものや教員、そして社会的信用性までもが一般大学とは激しく異なり、大きな格差を生み出すことになりました。この抗議の意味で起こされた学生運動の渦は大きくなり続け、労働格差を訴える運動とも融合し、対ド=ゴール政権への反発運動として激化していくことになります。五月危機と言われるこの革命運動に、ヌーヴェルヴァーグも関与していきます。フランス政府が大部分を出資する私立施設シネマテーク・フランセーズというものがあります。ここは、映画作品や資料の保存や配給を目的とした施設で、フランス映画の発展や普及の中心となる存在です。当時の責任者アンリ・ラングロワはヌーヴェルヴァーグの精神的父として、彼らの実践的な新しい表現技法を肯定的に受け止めて成長を促していました。しかし、ド=ゴール政権はフランス映画界を商業的に利得が貧弱な方向へと誘導していると見做して、ラングロワを更迭し、より大きな利潤を得ようと画策しました。これに対してヌーヴェルヴァーグの代表的な監督たち、トリュフォー、シャブロル、ゴダール、リヴェットをはじめとしてシネマテーク擁護委員会を結成します。これに国民的映画監督であるジャン・ルノワールマルセル・カルネたちまでが賛同し、遂にはラングロワ解雇撤回にまで至らせることができました。


ゴダールはこれを機に政治的運動を主目的として活動していきます。カンヌ映画祭権威主義的な旧体制を排除すると、彼は商業映画作品を拒否するようになりました。或る意味で一貫していたその信念は、フランス映画界に大きな変革を与えた衝撃を、映画人の権威として生きながら世に与え続けたように感じられます。

「私が死ぬ時、映画も死ぬ」

1983年ヴェネツィア国際映画祭 インタビュー

彼が亡くなったいま、彼の一貫した信念による衝撃を誰かが引き継ぎ、今後も映画を発展させ続けてくれるものと願っています。


少し手に入りにくい作品ですが、ぜひ観ていただきたい作品です。機会があればぜひ。

では。

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『毛皮のマリー』寺山修司 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

著者の下宿の裏通りには街娼がよく出没した。その中の54歳の娼婦が実は男だと知り、作った表題作は都内中のゲイバーのママが総出演し、アンダーグラウンド・カルチャーの仇花となった。〝ワイ雑で、野放図で、ぶちこわし型で、その中に人間存在の根源をさがし求めてゆく〟やり方は、新劇の啓蒙的近代主義へのアンチ・テーゼとなった。1960年安保闘争を描いた処女戯曲「血は立ったまま眠っている」他、戯曲と同時代のすれちがいを提示しつつ、現代寺山演劇の萌芽を内包する初期傑作戯曲集。

寺山修司(1935-1983)は、母方の叔父が経営していた青森の映画館「歌舞伎座」で少年時代を過ごします。観客席のさらに裏側から見る光景は、映画を観る観客さえも一つの見世物として見え、一人客、男女の客、団体、様々な職業の人間たちがそれぞれの役者となって人生を演じているように感じられました。また、その映画館では、演劇が行われることがあり、旅の一座による演劇自体はもちろん、楽屋での慌ただしさ、人としての交流、垣間見える生活感、引き上げて行く後ろ姿などもやはりドラマ的に感じられました。毎日のように人間模様から得る発見は、芸術的感性を磨いていきます。そして、それと同時にドラマを見抜く観察眼も養われていきました。惹きつけられる人間への興味は、立場や名誉といった付属物は二の次に置かれて人間そのものへ注視する性格が出来上がっていきます。ここに、アンダーグラウンド演劇を形成する土壌が自然に構築されたと言えます。


詩人として早咲きした寺山修司は、その後シナリオ作家として活躍し、短歌集『田園に死す』をまとめると、前衛演劇集団として演劇実験室「天井桟敷」を結成します。思うように思うまま、束縛されない自由な演劇を目指して組織されました。創立時の劇団員募集では「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」と銘打たれ、家出者や学校を退学した者たちが集ったことからも、個性溢れる表現者たちがこの劇団に魅力を感じていたことが伝わります。しかしこれには、自分の詩作品に感化され、実際に家を飛び出した人々の受け皿とする目的としての意味合いもありました。

「見世物の復権」を掲げていた天井桟敷は、旗揚げ公演にシャンソン歌手として活躍していた美輪明宏(当時は丸山明宏)を主役に抜擢して、『青森県のせむし男』を上演します。これが大きな成功を収め、アングラ演劇としての基盤を築き上げました。

再び美輪明宏を招いた天井桟敷としての第三回公演においても、異例の深夜公演を行うほど人気を獲得しました。夜十時の公演に入りきらなかった観客が帰らずに劇場を離れないため、深夜十二時から再度公演したという伝説を残しました。この時に行われた演劇が『毛皮のマリー』です。寺山修司は文学という言葉の表現から、演劇というイメージの表現へと幅を広げることに成功しました。


寺山修司は演劇には「変革」させる力があると信じていました。一つは社会を変革させることです。当然アングラ演劇の代表劇団と見做されている以上、政治的、社会情勢、安保闘争全共闘などの意味合いでもありますが、そこに参加する発端は正義や信念ではなく「共感」でした。彼の作品には社会的マイノリティ、及び性的マイノリティが多く主題に取り上げられます。同性愛者、性的錯綜者、社会不適合者、社会絶望者、涜神者など、彼等自身で無ければ感じることが出来ないはずの抱いた苦悩を、寺山修司は彼の特殊な観察眼を持って入り込み共感することができました。しかし、やはりこれには彼自身の精神も特殊な成長過程があったという点は見過ごすことはできません。

父親の八郎は戦前から英語に関心を持つほどの文学畑の人でしたが、警察から戦地へと向かい帰らぬ人となりました。その後、母親のはつは自身の批評家としての文才を分け与えたと寺山修司に教え込み、父親の存在が霞んでしまうほど捻れた深い愛情を注ぎ続けました。父親の墓参りも碌にしない彼は母親に対する愛情のみが膨らみ続け、そして徐々に自身を生きにくくする束縛を自らに負わせることになります。このような特殊な愛情の受け方をした彼は、母親に対して近親相姦的な愛情を持つ者となり、マイノリティ者の精神に共感することができたと言えます。


もう一つの変革は「現実と虚構」にあります。彼の演劇論『迷路と死海』からも見られるように、現実の自分を一度解体させて虚構のなかに自分を作り上げる、ここに生まれた虚構の自分が演劇となっていく。しかし、その虚構の自分は現実でもあり得る存在であり、虚構でも現実でもない自分(演劇)が生まれる。この理論が示すように、演劇によって現実も虚構も変革させることができるという概念で構築されています。ここにもやはり、束縛された自身の精神を再構築したいという思いを、受け手は見てとることができます。

天井桟敷毛皮のマリー』ポスター
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毛皮のマリー』初演時に舞台美術を手掛けていた横尾忠則は期日通りにセットを仕上げました。しかし、搬入口が狭くセットをそのままの大きさでは舞台に入れることができず、寺山修司がカットして入れようと提案します。その発言に激怒した横尾忠則は断じて認めないとして、そのまま引き上げてしまいました。そこで救いの手を差し伸べたのが主演の美輪明宏でした。

それで私は寺山に言ったの。「『毛皮のマリー』の装置の原点はマレーネ・ディートリヒの『嘆きの天使』の楽屋でしょう?あの楽屋には一切ドアがなくって、舞台のところのドアを開けてこちらに来ちゃえば、通路だか居室だか楽屋だかわかんないようなところで、ドアのない螺旋階段を上がると屋根裏部屋があって、そこにベッドとトイレがある。すっぽんぽんで、ちょうどサルバトーレ・ダリやジャン・コクトーの世界と同じような、シュールレアリズムの雰囲気なんでしょ?後ろにいろんな役者たちが化粧をして通ってみたり、それはあなたが育った青森の映画館・歌舞伎座のスクリーンの裏、あなたの居室がまさにそうだったんでしょう?それに『嘆きの天使』のイメージがくっついてきてるんでしょう?」って言ったら、「はい」って。
「あなたは魔女以外の何者でもない」って言うのよ。

そこから家具調度品と小道具を全て、美輪明宏の住まいから持ち込んで演劇を行うことができました。

1983年 寺山修司追悼公演『毛皮のマリー』より
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四十を越えた男娼のマリーは、欣也という美少年の息子と身の回りの世話をする下男と暮らしています。マリーは毎日のように男を館に引き込んで性的な快楽を施していました。その生活を壊して欣也を連れ出そうとする美少女の紋白、マリーの気に入った逞しい水夫、これらが物語を動かしていきます。そして、マリーと欣也の関係が水夫に告白されて衝撃の結末へと突き進んでいきます。

欣也の母親である毛皮のマリーは、実の母親ではなく男娼である。男娼が母親という遊びは、女が疑似の母親というよりもより演劇的である。そして、その当時名を馳せたゲイバーのママさんたちを踊らせることによって、寺山修司は「万てのにんげんは俳優である」という論拠を確立する。

北川登園「劇場文化」エッセイより

ここに演劇効果としての変革、ドキュメンタリーとドラマの融合「ドキュラマ」が見られます。マイノリティの社会認知、現実と虚構の境界の崩壊、これにより訴える一貫した主題は「形態としての家族愛」であり、ここからの解放と変革が寺山修司自身の内面と、観客それぞれの内面の価値観変化と共鳴を果たしています。


この作品に内包される歪んだ「子への愛情」には、寺山修司が抱いていた母親に対する近親相姦的なエロティシズムが垣間見られます。そして、そこに見られる耽美的表現は、特定の国、特定の時代、特定の様相、特定の効果、特定の条件は定められず、「思うように思うまま、束縛されない自由な」表現方法で描かれています。このような耽美的感情を踏襲した作品が何作も作られたことからもわかるように、寺山修司は清濁を併せ飲んだ耽美派であると言えます。

母親の束縛的な深い愛情に取り込まれながら、彼の異常に発達した観察眼は、自身さえも客観視して否定と肯定を繰り返します。現実と虚構がない混ぜとなった作品に見られる愛の歪みは、彼が抱く価値観としての疑問符のように感じられます。

彼は空想と現実の間にそびえる不透明な壁を、きれいさっぱり取りはずしてしまった。彼の目玉がぎょろりと大きいのは、決して無意味なことではない。あの目を通して、頭蓋骨の中味と外側の分子とが、自由に出入りできる仕掛けになっている。自殺に関する空想を終えて、自分が生きながらえていることについて語る時、現実と美との距離などよりも、まず、「わたしはじぶんの自殺についてかんがえるとき、じぶんをたにんから切りはなすことのむずかしさをかんじる。じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです」ということの方に目を向けていることは、意味深い。

『書を捨てよ、町へ出よう』解題 中山千夏


寺山修司が亡くなるまで、いつまでも、誰よりも彼の理解者であった美輪明宏天井桟敷の舞台に誘われたとき、彼のカミングアウトで失墜した人気が「ヨイトマケの唄」で再燃し始めた頃でした。『家出のすすめ』などで世間的に如何わしいレッテルが貼られていた寺山修司の劇団への誘いは、周囲の反対意見に溢れました。しかし、美輪明宏は反対を押し切って舞台に立つことを決意します。

なあに、明日は明日の風が吹くっていうけど、明日の朝になりゃ、そのまま眼が覚めないことも、あるかもしれないじゃない?僕はね、何度も死に損なっている人間よ。今、生きてるのは、おマケで生きてるのさ。いつ死んでも悔いのないように毎日を送ってゆくだけよ。名誉とか金とか言っている人もいるけど、そんなもん、墓場に持っていけるわけじゃなし、人に迷惑さえかけなければ、たとえ貧しくたって何だって自分のやりたいことをやって行ければ、それで御の字よ。人間は一秒、一秒、死んで行ってるのよ。今、何かやらなきゃ、命が勿体ないじゃないのさ

美輪明宏『紫の履歴書』


マリーが墓の下で聞こえる木枯らしを「木の拍手、風の喝采」だと説く場面は、名誉や金を墓場に持っていけないという言葉と重なります。そして、シェイクスピアの言葉「人生は、どうせ一幕のお芝居」を語るマリーの声は、観客席へ現実と虚構の境を超えた人生の謳歌を歌います。「思うように思うまま、束縛されない自由な」人生を自身に言い聞かせると共に、世を生きる人々にも伝えようと試みていたようにも感じられます。


歌人、脚本家、劇作家、映画監督、評論家と、一つの職業に囚われない彼の活動は、数多の作品を生み出しています。そこに見られる信念はやがて一つに収束され、一貫した思想へと導かれています。彼の思想根本が凝縮された本作、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

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『悪の華』シャルル=ピエール・ボードレール 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

ボオドレール(1821-67)に至ってフランス詩は国境をこえ、やがて詩人は世界のあらゆる近代詩の源流に位置することとなる。代表作『悪の華』の初版(1857)は猥褻と冒瀆のかどで6篇の詩の削除を命じられ、再版は6篇を除き新たに35篇を加えて刊行された。訳者多年の研究に成った本書は、再版にその禁断詩篇を加えた全訳決定版である。

十一世紀に生まれた「聖アレクシス伝」「ロランの歌」などから始まるフランス詩史は、やがて厳格な規則性を持ちフランス韻文詩が形成されていきます。道徳的思想と芸術性を併せ持った美しい詩が数百年ものあいだ生み出され続け、堅固たる伝統的文化としてフランス文学に定着します。心身の美を追求した幾つもの作品は、読者の心を清浄にし、身の穢れを削ぎ落とす、美しい文体と韻律で絵画のように描かれていきました。

十九世紀に入るとナポレオン・ボナパルトの戴冠に始まり、ヴァグラム、ドレスデンライプツィヒワーテルローでの激しい戦争、フランス七月市民革命と、民衆が心を落ち着かせることが困難な世情が続きます。そして市民感情の激しさに合わせて芸術や文化もその属性に変化を齎しました。フランス文学に与えた刺激は多様な作品を生み出すことになりました。革命が生んだ自由と無秩序を包含したロマン主義、目の前の現実を善悪双方に映し出す現実主義(リアリズム)、エミール・ゾラに見られる全ての美化を排除した自然主義など、多くの新しい文学主義が生まれました。


フランス詩においても大きな変革が齎されます。韻文詩の持つ規則的で美しい形式を破壊し、反道徳的表現を存分に発揮した散文詩が発表されました。この詩は賛否の両極端な批評を受け、罰金刑に処されるに至りました。しかしこの詩に出会い、心に影響を受けて共感した多くの人物が偉大な詩人となっていきました。近代詩の祖と言われるこの作家こそシャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)であり、変革を起こした詩篇が本作『悪の華』です。

この散文詩が与えた驚きは文学におけるロマン主義から自然主義、現実主義、象徴主義、さらには文学に留まらず、エドゥアール・マネオーギュスト・ロダンなど芸術全般にまでも影響を及ぼすこととなりました。


ボードレールは芸術に造詣の深い父と早くに死別し、母の深い愛情の中で育ちました。同じように母を深く愛した彼は、母の早い再婚に失望し、やがてはエディプス・コンプレックスを抱くに至ります。二十歳になり先父の遺産を相続し放蕩を続けながら文学探究に勤しみます。散財に見兼ねた義父は、彼を強引に商船に乗せて旅立たせます。義父に対する見栄か、捻くれた態度か、ボードレールは腐らずに堂々と船内で振る舞い、水夫と度々揉め事を起こしながらも順調に旅を続けました。カルカッタ航路を往く船は大嵐に見舞われて遭難の憂き目に合いましたが、運良くアメリカの船に救われて開拓中の植民地へと導かれます。しかし、たどり着いた開放的な開拓地はボードレールの肌に合わず、暗く陰鬱でせせこましいパリの街に改めて想いを馳せ、彼は「美」を再認識します。


フランス韻文詩に与えられる雁字搦めに束縛された道徳観は、ボードレールにとっての本質的な「美の表現」にとって不自由でしかなく、苦悩した末に生まれた詩こそが散文詩でした。『悪の華』は、悪と美を主軸に表現されています。抱いた「死の思想」、道徳に照らした悪、その先に見える美こそに真実を見出していました。これらは十八世紀後半に生まれたマルキ・ド・サド、ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ、ジャック・カゾットたちの悪魔的思想小説群に受けた影響も多分にあると見られます。キリスト教による堅固な美徳価値観の支配から脱却する、そして個の価値を尊重し、道徳的悪魔主義象徴主義における二つの事物で想起させる「死の思想」は読者に強い印象を与えます。

 

かくて今、天空の深さわれを自失せしめ、その清新われを愁傷たらしむ。無覚なる海、不感なる外景、いずれもわれを傷つくるのみ……。さらばわれ永劫に悩むべきさだめの者か、知らず永劫に美より逃れて生くべきか?汝、自然、無惨なる妖婦、常に勝つ敵手よ、われを放せ!わが制作欲とわが自負心を試すを休めよ!美の研鑽こそわれら芸術の使徒が敗るる先立ちて、おののいて音をあぐる決闘なりと知らざるや。

『芸術家の告白の祈』堀口大學


ボードレールはただ一途に、心の底に確かに存在する「真の美」の感覚を作品に込めようと追究し、辿り着いた表現方法が「照応(コレスポンダンス)」でした。彼にとっての技法としての「照応」は、客観的な事物の照らし合わせではなく、主観として、自身そのものを事物と照らし合わせるものであり、だからこそ心の底から「真の美」を引き摺り上げ、吐き出すことができました。

心を映す鏡となってゐる心、
何といふ暗くて澄んだ 差し向かひ。
鉛色の星一つ 顫えてゐる、
明るくて黑い、眞理を映す井戶、

惡魔的な恩寵の炬火、
唯一無二の 慰安で同時に光榮の、
地獄の、皮肉な 一つの燈臺、
ーー惡の中に在る 意識こそは。

「どうにもならぬもの」


道徳の啓蒙に用いられていた詩を個にとって自由にし、美のみを追求することを目指して生まれた本作は、美を語るための醜を表現し、悪魔主義的表現に善悪の基準が明確にあります。しかし、この涜神的価値観はキリスト教に準拠しており、敬虔な信者として構築された背景が見られます。そこからの解放と、「真の美」の表現を目指した結果が本作を生み出す原動力となりました。

言葉の上ばかりではなく、精神に於て眞摯な本物の涜神は、一面的信仰から生ずるものであつて、全くキリスト教で固めた者にあり得ないと同じく、すつかり無神論者になりきつた者にもあり得ないのである。

T.S.エリオット『心の日記』序文


ボードレールは、隆盛を始めていたフランスロマン主義が掲げた自由主義個人主義)の中に、彼ら各々の心が構築した価値観と理想とに囚われ、真の自由を表現できていないことを指摘し、結果的に懐古的で理想的な美化を成していると批評します。これに賛同した、真っ先に彼から献辞を送られたフランスの詩人であるテオフィル・ゴーティエを筆頭に、誇大な感傷表現や政治的思想、社会的偏見を込めるロマン派の風潮に対して、詩の自由を求めてフランス詩の改革的運動(パルナシアン運動)を起こします。1866年にルメール書店から刊行された『現代高踏詩集』に準えて彼らは「高踏派」と呼ばれ、ボードレールステファヌ・マラルメポール・ヴェルレーヌらが一つの詩派としてまとめられました。そして自由詩運動は継続され、昨今の散文詩として認められるに至りました。これが、ボードレールが近代詩の祖と言われる所以です。

 

「数多の芸術家、真の芸術家、真の詩人は、自分が見て感じた感覚に従ってのみ作品を生み出すべきである。我々は自分自身の内性に真に忠実でなければならない。」

ボードレール サロンにて

真に感じた心情を、美を持って正確に芸術作品に込める、その単一の想いを貫き続けたからこそ洗練された素晴らしい詩篇が生まれました。悪魔主義的で、耽美で、退廃的で、醜悪な表現の内奥に込められた「神秘の美」が存分に込められている作品です。未読の方はぜひ、体感してみてください。

では。

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『桜島』梅崎春生 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

処女作『風宴』の、青春の無為と高貴さの並存する風景。出世作桜島』の、極限状況下の青春の精緻な心象風景。そして秀作『日の果て』。『桜島』『日の果て』と照応する毎日出版文化賞受賞の『幻化』。無気味で純粋な〝生〟の旋律を伝える作家・梅崎春生の、戦後日本の文学を代表する作品群。


日本文学における第一次戦後派と呼ばれる作家たちは、戦争体験により影響された哲学や思想、社会性や政治などに対する訴えが込められた文学作品を生み出していきました。野間宏武田泰淳椎名麟三埴谷雄高などと並び、梅崎春生(1915-1965)もその代表作家のひとりです。

彼は第二次世界大戦争の戦時中、九州の南端にある桜島近くの坊ノ津に派遣されました。この地は海軍の特攻隊を管轄する基地があり、本部からの指示を受け、次々に特攻兵を出立させていました。「震洋」という船首に二百五十キロもの炸薬を積んで敵船にそのまま衝突させて被害を与える特攻船は、二千五百人以上の突撃死者を生み出しました。梅崎春生はこの地に通信暗号員(戦争中の暗号連絡を解読する専門兵)として滞在します。「トトトト」という特攻機出立合図の通信を最も近くで感じ続けた人間の一人でした。本作『桜島』は、この頃の体験を舞台背景として描かれています。しかし、語り手の村上兵曹と自身の行動を重ねているわけではなく、ノンフィクションではないと強く本人が否定しています。


梅崎春生は父の病死後、兄に召集令状が届くと、言いようのない生に対する焦燥感に襲われます。間近に感じる死は、彼の中で「生とは何か」という思考が大きく渦巻き、死生観を構築していきます。ここで書き上げた作品が『風宴』でした。数回見知った程度の親しくない女性の死に触れ、生について煩悶を続けるという内容には、彼の生に求める在り方が如実に描かれています。

戦争が、はじめて死の想念をよび起こしたのではない。むしろ内なる死との照応とこだまが、『桜島』のあの見事な緊迫を生み得たのである。

筑摩書房文学全集』

戦前に書き上げた『風宴』には既に梅崎春生の「内なる死」が垣間見られ、纏わりつく死の想念が作中を覆っています。そして本来持っていた想念に、戦地へ赴き、戦争によって齎された「外なる死」(兵士たちの死)を多く受け、彼の「内なる死」が照応し、死生観が昇華されていきます。自身の中で沈みきって水中の澱のように溜まった死に対する恐怖は、戦争によって目のあたりにした死たちに触れる度に、石が落ちて澱が弾むように生への希求心がゆっくりと芽生えていきます。本作は戦争体験談ではなく、戦争を通した死の想念の描写であると言い換えることができます。

 

敗戦を前にした坊ノ津基地で、村上兵曹が生の意義を見出そうと苦悶します。片耳の娼婦に問われる自身の死に様や、兵曹長の偏執的に光る眼と青い顔、不吉を運ぶつくつく法師の鳴き声、双眼鏡でのぞき見られる老人の首吊り未遂など、抽象的に表現される陰鬱さは、徐々に死の想念へと変わり彼の上から覆い被さるようにのし掛かります。

欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼のあたりに見た此の風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた。基地隊の方に向って、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔ない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。

死を考え、死を受け入れた末に辿り着いた生への憧れは、やがて執着へと変化して自己強迫とも言える息詰まる思いを抱きます。そして、昭和天皇みずからの声による玉音放送によって終戦を知らされると村上兵曹は涙が溢れ出てきます。しかし、すっきりとした安堵の気持ちでは決してなく、張り詰めていた慢性的な死の危険による緊張感からの解放、死を受け入れて日常的な心を殺した覚悟の無為さ、美しい悔いのない死を得られなかった無念さ、全てを戦争とその勝利に命を捧げた兵曹長が敗戦によって生き延びてしまった憐れみなど、ひと言で表すこともできず納得もできない心情が含まれた涙でした。


梅崎春生が描いた死の想念は、戦争の危険の中心にいる者の「死の印象」を、自身が体験していながらもそれでも客観的な目線で見て描くことにより、明確で鮮明に読者へと伝えられています。応召された者は、その時点で既に死を得ているという観念は、その瞬間から非日常を生きていくための精神を構築しなければなりません。その為には支えが何かしら必要となり、「美しい死」を拠り所とすることに至ります。しかし、作品の最後の場面を通して彼はそこに虚妄性を訴えました。


桜島』以降、実に多くの作品書き上げましたが、晩年に執筆した遺作『幻化』において、彼はひとつの答えに辿り着きます。そこには「執着した生」が見られます。

終戦して二十年後、戦地である坊ノ津へと過去を辿る語り手の五郎、そして道中に知り合う丹尾という男性。二人は補うように互いの表裏を持っています。五郎は終戦により日常を取り戻した兵士、丹尾は交通事故により妻子を失って日常を無くした営業マン。二人に内在する生と死の想念は、対話によって互いに感情を触発され、嫌悪と同情が揺れ動きます。彼らは一旦離れて別行動となったのち、阿蘇山にて再び引き合わされるように顔を合わせます。火口周辺へと歩みを進めると丹尾は五郎に賭けを持ち掛けます。丹尾が火口へ飛び込むか否か。蒼白で固まった表情で丹尾は真剣に問い掛けます。覚束ない足元でふらふらと火口の周囲を歩み始めます。

丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中で叫んでいる。
「しっかり歩け。元気出して歩け!」

妻子を失い生に希望を見いだせない丹尾を見て、五郎は虚無感に包まれている自身の心を見つめ直します。死は死でしかないと理解して、生を感じながら生きることこそ、生を生たらしめるという強い思いを、読者は受け取ることができます。


何のために生きるのか不安になりながら、死の想念に取り込まれず前を向いて生きていくことは、困難でありながら人間として貫き続けたい大事なことであると考えさせられます。生を全うしようとすることさえ困難になる当時の苦悩を感じながら、それでも生きようとする戦渦の情景をぜひ体感してみてください。

では。

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『危険な関係』ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

十八世紀、頽廃のパリ。名うてのプレイボーイの子爵が、貞淑な夫人に仕掛けたのは、巧妙な愛と性の遊戯。一途な想いか、一夜の愉悦かーー。子爵を慕う清純な美少女と妖艶な貴婦人、幾つもの思惑と密約が潜み、幾重にもからまった運命の糸が、やがてすべてを悲劇の結末へと導いていく。華麗な社交界を舞台に繰り広げられる駆け引きを、卓越した心理描写と息詰まるほどの緊張感で描ききる永遠の名作。


一六世紀末にアンリ四世より創始されたブルボン朝はフランス絶対王政を堅固なものとして、国内外に向けて二百年以上も強力に勢力を伸ばして圧政を敷いていました。構築されたアンシャン・レジーム(旧封建社会)では、第一身分に聖職者、第二身分に貴族たちが位置付けられ、農民をはじめとする第三身分の人々は異常な税負担を強いられていました。三部会という第三身分による議会発言の場が制度上認められていましたが、実質的には意味をなさないものでした。産業の成長やバロック芸術(ヴェルサイユ宮殿など)の開花などの華やかな印象を残す一方、重商業主義による他国への侵略や宗教争いなどで激しい国交を生み出していました。これらの礎は全て第三身分(サンキュロット)が引き受ける結果となり、国の成長に影響された異常税率によって生きていくことが困難となる生活を過ごしていました。一八世紀に入ると英米との植民地争いが激しくなり、国家財政を保つためのより一層な税負担が第三身分に求められて、遂には賄いきれなくなり国家は弱体化していきます。抑え続けられた農民市民たちの声は徐々に思想家を中心として膨らんでいき、三部会に属していた僧侶シェイエスが発行した『第三身分とはなにか』というパンフレットを皮切りにフランス革命の道が切り開かれていきます。


ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ(1741-1803)は、フランス北部に位置するアミアンで生まれました。早くから軍人を志願して十八歳で砲兵学校にはいり、その後は少尉となって軍に帰属します。貴族であり軍人となったラクロは転任する各地で社交の場に歓待されることが多くなりました。特に滞在期間の長かったフランス南東部にあるグルノーブルでは、社交界で持て囃され、実質的な貴族の世俗一般を熟知することとなります。貴族間での苦悩や苦悶は、互いの関係性を種としており、社交界における名声が持つ影響力を少しでも掴もうと多くの貴族は躍起になっていました。その為に互いを欺き、或いは貶め、各々が謀略を張り巡らせて凌ぎ合うことに執心する姿をラクロは観察します。これらの手法は対話だけでなく、それと同等に、もしくはそれ以上の効力を持つ書簡を用いて行われていました。貴族は社交界で深夜まで互いに名声を凌ぎ合い、起床後は手紙を認める、といった生活が日々の殆どを占めていました。このような貴族の生活を支えていた第三身分の人々、または国の苦しい財政事情などは彼らの脳内には存在しておらず、愉悦(名声欲)と快楽(恋愛欲)に塗れていました。


七年間のグルノーブル生活で体感した貴族意識の没落は、早くから国のため、軍のために軍人となったラクロの感情に影響を与えます。しかし、それは悲観的な貴族への軽蔑だけでなく、貴族同士が凌ぎ合うさまざまな手法から他者の心理を動かす観察力と行動力を見分け、彼の心理分析をより高い位置へと押し上げました。特に書簡が持つ、受け取った者に与える欺きや信心の悪用による効力には、独特の性質を持っていることを明らかにしました。対話と違い、熟考のうえで精緻に書き上げられた手紙のやり取りは、深い思惑と策略を込めることができ、受け手の心を見抜き合う激しい心理戦が繰り広げられます。そして、彼によって1782年に世に出された本作『危険な関係』は、まさに書簡体形式で描かれ、余すところなく手紙の魅力や魔力が詰められています。


登場する書き手はフランス南部に滞在する貴族たちで、社交界の花形二人を中心に約十名、百七十五通の手紙で構成されています。

妖艶な外見に性悪猫のごとき心を持つメルトイユ夫人、見目麗しき紳士でありながら非道の心を持つヴァルモン子爵、旧知の二人が初心な男女を弄び、凌辱し、手足のように目的へと導いていく手練手管が繰り広げられます。貞淑な法院夫人、修道院から世に出て日の浅い無邪気な少女、純朴無垢で誠実な騎士など、次々と二人の魔の手に傷付けられていきます。終盤に畳み掛ける結末に向かう怒涛の流れは、緊張と興奮を読み手に与えながら雪崩のように突き進んでいきます。

ラクロの心理分析、その分析を用いて丁寧に描かれた心理戦は、現在にまでも通用すると想像される心の動きが精緻に描かれています。また、当時の貴族にとっては、社交界における地位、影響力、魅力などがいかに重要であったのかが窺えます。真実の愛よりも社交界にて受ける憧れの眼差しを優先する、それが延いては貴族としての格を上げる、そのような歪んだ社会の中で生活していました。

世間の評判というものはそのまま残るのではありますまいか。そうして、それだけでもあなたさまの行動を律するには充分ではありますまいか。人が悔悟した時にその罪をゆるすのは、神さまのみのなしたもうことです。神さまは人の心の中をお読みになりますが、われわれ人間は、行為によってしかそれを判断することはできません。そうして人間は誰でも、ひとたび他人の尊敬を失ってしまえば、次には必ず不信の目を受ける覚悟をしなければならず、そのためにいよいよその尊敬を取りもどすことが困難になるのでございます。


しかし、これらの貴族の苦悶や苦悩は全て、虐げられ続けていた第三身分の人々に支えられた生活の上に存在していました。異常とも言える格差を見ようともしない貴族たち、或いは見て見ぬ振りをする聖職者たちの頽廃が、第三身分の人々の不満を最大限に高めていた状況でした。直後に起こるフランス革命(1789年)によって貴族社会が衰退していくことは当然であったと言えます。ここに貴族であり、社交界での交遊を体感したラクロが、時代の貴族階級に投げかけた警鐘とも言える本作は、顰蹙という応えで突き返されます。

 

危険な関係」が二百余年の時間の距りにも拘らず、最も近代を思はせるものは、それが思想によつて書かれずに、眼によつて、鬼の眼によつて、不動の眼によつて書かれてゐるからだと私は思ふ。伊勢物語西鶴の作品に近代の感覚が漂ふのは、その思想によつてでなく、ラクロに近似したその眼によつてのことである。近くはレエモン・ラディゲがさうであり、人は彼が時間的に近代の人であるため、彼に時間的な近代を認めがちだが、単に昔ながらの文学の宿命的な近代、つまり人間を眼によつて描いてゐるにすぎないのである。

筑摩書房坂口安吾全集』

ラクロの驚異的な観察眼について、坂口安吾はこのように述べています。彼の心理分析は現代にも十分に通用することを伝え、読む者に強い印象を与えます。頽廃した貴族社会の乱れた風俗だけでなく、心理戦の応酬も存分に触れることができる作品と言えます。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

『山猫』トマージ・ディ・ランペドゥーサ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

一八六〇年春、ガリバルディ上陸に動揺するシチリア。祖国統一戦争のさなか改革派の甥と新興階級の娘の結婚に滅びを予感する貴族。ストレーガ賞に輝く長篇、ヴィスコンティ映画の原作を、初めてイタリア語原典から翻訳。

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896-1957)は、代々宰相を務める大貴族の家系に生まれました。莫大な富の中でありながら、父からの愛情をあまり受けることなく、母親と家庭教師と共に広大な敷地で暮らしていました。

1915年に第一次世界大戦争のイタリア戦線、カポレットの戦いに行軍します。この戦いは当初イタリア側が優勢と見られていましたが、ドイツの援軍が決定打となりオーストリアハンガリー軍がイタリア王国軍を破ります。敗戦したランペドゥーサを含むイタリア王国軍は捕虜となりますが、彼は脱走してイタリア王国に戻り、中尉として迎えられたのち、シチリアに戻って穏やかな暮らしを満喫します。この頃に外国文学を研究していたこともあり、本作『山猫』の執筆を構想していました。本作の中心人物ドン・ファブリーツィオのモデルは曽祖父とされています。


1820年に始まったイタリア統一運動(リソルジメント)における貴族としての意識の流れや葛藤が描かれています。イタリア統一を大きく前進させた、ジュゼッペ・ガリバルディによる1860年シチリアナポリ占領の事件を皮切りに、ドン・ファブリーツィオの周囲の世界が変化していきます。リソルジメントが加速するにつれて、貴族として求められる選択や、台頭する新興貴族たちとの取引、前国王と新国王への関わりなど、次々と頭を悩ませる事柄が増加していきます。しかし貴族としての誇りや思考は変わることなく、変化を求めず、訪れる問題にも真摯に応えていきます。歴史的事実は物語においてはあくまでも背景であり、大貴族ドン・ファブリーツィオが、何を感じ、何を行い、何を問い、何を思うか、などが重視されて物語は進展していきます。


『山猫』では、世における生の意義、それを受け入れる死の希望が一貫して述べられています。人間は何のための運命を生きているのか、使命や義務を超えた自身の納得性を持つ客観的な生の理由を求めます。国に仕える兵士の死は、国のために命を懸ける理由を兵士自身が理解するだけでなく、その兵士の死が国のためであるという兵士の意志を他者(世の人々)が認識する必要があると説いています。しかし重要な認識として、常識的な理解としての「国のため」ではなく、兵士自身が国の礎として、国王を真に護ろうとする志を持たねばならないとしています。「兵士とはそういうものだ」という諦めのような理解ではなく、積極的な「死を受け入れた生」である必要があります。

こういった思考の飛翔は、ドン・ファブリーツィオが大貴族であるが故の国王にまで及ぶ人脈があり、そして代々受け継いできた家系に養われた貴族としての在り方という深い精神を持っているからこそ行われると言えます。この思考は「永遠」を否定します。死のための生を肯定する考えは、受け入れた死を希望として生が存在すると考えるためです。大切な死を否定する「永遠」をドン・ファブリーツィオは憎悪します。

冒頭から夜空を仰ぎ見る彼は天空に憧れます。悩み、疲れたときに、いつでも夜空で待ち迎えてくれる金星は死の希望としての象徴でした。何度も焦がれ、募らせた想いは、遂に報われて彼の元へと舞い降ります。生の終わりに迎えにくる美しい女性としての金星は、死こそが生における希望である象徴的な表現と感じられ、希望的な幸福を感じさせられます。


しかし、この「永遠の否定」は繁栄や隆盛からは掛け離れた印象を受け、実際に本作は退廃的な作品となっています。彼の生涯の断片を綴り続けた物語は、彼の死後にまで及びます。ドン・ファブリーツィオが抱き続けた死を希望とした生の観念が失われ、サリーナ家は衰退の一途を辿ります。彼が亡くなったことで、彼が体現していた思想は家系から剥がれ落ち、家系として生の意義が失われたと言えます。彼の死こそが実際的な「山猫」の死であり、貴族としての退廃が死後に明確に描かれており、生前のファブリーツィオが抱いていた意識こそが真であったことの裏付けとなったと言えます。そして、愛犬ベンディゴは身を持って一連を表現しています。

 

「われわれは自分たちの息子や、たぶん孫たちのことを、真剣に心配するかもしれない。しかし自分たちの手で愛撫できるものを越えては、義務はすこしもない。だからわたしは一九六〇年の偶然の子孫たちがいったいどうなるかなどと、ほとんど気にかけていられない」という公爵の没落意識は、階級的な没落意識であると同時に、一個のエロス的人間の没落意識であって、おそらくあらゆる時代、あらゆる文化の生んだすぐれたデカダンス文学が、この二つの精神のなかの「死」に直面したのである。

澁澤龍彥さんは書評でこのように述べています。向上心の放棄とも言えるドン・ファブリーツィオの思考は、怠惰の言い訳にも取れるものの、何のための生なのかを考え抜いた結果でもあると受け取ることができます。


ランペドゥーサにとって、イタリア統一後に台頭した新興貴族たちは貴族たり得ないということを思想的に訴えているように感じられます。これは、ドン・ファブリーツィオが新イタリア国家上院議員への推挙を、丁寧に感情を押し殺しながら、貴族の誇りを説き続けて断ろうとする会話で表現されています。利己主義で品性の無い言動を認めず、利他主義で永遠以外のものを愛し続ける彼こそが、貴族の誇りの体現者でもありました。


小説ではあるものの、物語の進行はドン・ファブリーツィオの思考の飛躍に伴われており、詩篇を読んでいるような印象を受ける作品です。生の意義や死の概念に刺激を与える本作、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『スターメイカー』オラフ・ステープルドン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

肉体を離脱した主人公は、時間と空間を超え、宇宙の彼方へと探索の旅に出る。訪れた世界で出会った独自の進化を遂げた奇妙な人類と諸文明の興亡、宇宙の生命と生成と流転を、壮大なスケールと驚くべきイマジネーションで描いた幻想の宇宙誌。アーサー・C・クラークスタニスワフ・レム、J・L・ボルヘスをはじめ多くの作家に絶賛され、多方面に影響を与えてきた伝説の作品を全面改訳で贈る。

敬虔なクリスチャンであった哲学者のオラフ・ステープルドン(1886-1950)は、幼少期に海運事業主の父の都合で幼少期をエジプトの運河都市ポートサイードで過ごしました。イギリス国民の生活を一変させた生活革命(珈琲、紅茶、砂糖などの流通)を担った三角貿易の恩恵で大きな発展を見せた都市で、アジアとヨーロッパの中継都市として文化と人種が多く交わって栄えていました。彼は父親の趣味である星の観測を、一緒に特製の天文台に登って楽しみ、宇宙への関心を強めていきます。1915年からは勃発してしまった第一次世界大戦争に救急隊員として従軍し、日々、生死を間近で感じることとなります。心身ともに疲れ果てていた彼は、毎夜、空を見上げて夜空の星に思いを馳せます。この頃に本作『スターメイカー』の核となるコスモス論、創造主論、世界共棲論が芽生え始めます。


『スターメイカー』は、ステープルドンによる壮大な宇宙的ヴィジョンをもって描かれた哲学的論文作品です。世界の在り方を宇宙単位で見渡し、生命の意味、社会の意味、宇宙存在そのものの意味を問いながら、第二次世界大戦争の直前にある世界情勢に向けて、平和と愛をメッセージとして訴えています。

本作は、「驚異的な小説である」と感嘆するホルヘ・ルイス・ボルヘスの賞賛を筆頭に、アーサー・C・クラークブライアン・オールディスなど、多くのサイエンス・フィクション作家たちからも強い支持を得ました。


家庭を持つ一般的なイギリス人男性が、生の苦痛を抱きながら夜空を見上げて物思いに耽る場面から物語は始まります。彼の逡巡する思考は瞑想状態を経て、精神の飛翔に至ります。意識のある精神体となった彼は、地球という惑星を飛び出し、数多の惑星を探索します。そして飛翔方法を会得すると、人間的な文化形成をした世界がどこかにあるに違いないと思い至り、銀河の果てまで生命体と文化を探し始めます。

宇宙の探索、数々の惑星との出会い、そして消失を観察したのちに、人間に近しい進化を遂げた別地球へと出会います。観察を行うなかで、今度は精神と精神の接触を試みます。別地球に住む賢人ブヴァルトゥと精神的対話に成功すると、詳細な文化的意見交流を行い、存在を認め合う関係性を持つことになります。そしてブヴァルトゥも精神を共鳴させ、精神を共棲させて、また宇宙へと飛翔して旅立ちます。

時間をも超える精神の飛翔でコスモス(宇宙)の探索を続ける二人は、惑星、銀河、コスモスへと活動の領域を広げて、数多の種族文化の盛衰を観察していきます。そして出会う人間的精神進化を遂げた生命たちへ接触し、多くの共鳴者を引き連れて旅立ちを繰り返します。


観測の旅を続けていくうちに、コスモスの創造主の存在を感じ取ります。謎に包まれたコスモスの存在意味を創造主(スターメイカー)の意思に見出そうと、共棲精神は接触を試みます。時空、次元を超えて驚異的な移動を繰り返しながら、コスモスの探索はやがて永続的ユートピアへと辿り着きます。そして遂に、スターメイカーの存在を感知するに至ります。

このユートピア性は、コスモス全体としての観点であり、苦痛と苦悩の責め苦を受け続けている存在もありました。これに超存在であるスターメイカーが救おうとしない姿勢に、共棲精神は憤って問い掛けます。しかし、その糾弾にさえも沈黙を続け、慈愛さえも感じさせる態度を見せることから、スターメイカーがコスモスを観照する目的を感じ取ります。スターメイカー自身が有限であり、破壊と創造を永続的に繰り返しては、善悪を包括し、コスモス内での紛争を必要なものとして眺め、犠牲による進歩、種としての進化を眺め続け、そしてより完全な永続的ユートピアの構築を辿っていることを理解します。創造したコスモスに干渉しない態度こそ、創造主としての姿勢であり、苦悩や苦痛さえも必要な構成要素として眺め、コスモス自体の構造階層をさらに上へと辿り着かせようとする意志の現れでした。


寓話調で描かれるインテリジェント・デザイン論は、神的存在を探求するミスティシズムへと印象を変えていきます。ステープルドンによる科学的想像力は惑星から銀河を経てコスモスへと広がり、そこから時空さえも超えて膨張し、精神体を別次元へと昇華させます。これは精神の神格化、あるいは心の神格化とも言え、果てに臨む永続的ユートピアは信仰対象の様相を呈します。しかし、この永続的ユートピアは有限であり、その先の先に見える破壊と虚無からはニヒリズム的ヴィジョンが想起され、全ての創造や活動は不毛であると投げかけられます。

今やわたしは、〈スターメイカー〉を二つの相から見たように思った。すなわち、わたしというコスモスを生起させた神霊の特殊な創造的様態として、そしてまた、実に恐るべきことに、創造性とは比較にならぬくらい偉大ななにか、つまりは絶対的神霊の永遠に達成された完成体として。不毛だ、不毛にして瑣末なのだ、これらの世界は。それでもその経験は不毛ではないのだ。


しかし、ステープルドンはペシミズム(厭世主義)を超えてニヒリズムに至るも、破壊による虚無の先の先に、更なる信仰的希望を見出させます。これは創造主における希望でもなく、コスモスや銀河にとっての希望でもなく、諸人類にとっての希望でもありません。今を生きる全存在にとっての希望であり、喜びの使命とも言えるものを突きつけます。共棲精神としての経験により、地球の、地球人の、太陽系の、そしてこのコスモスの遥か先に起こる運命を理解して受け止めたうえで、自分にできることを役割として受け止め、自己の意志と生命を尊重するという結論に至ります。そして根幹には人類の共棲という主題を置き、滅亡を生み出す諍いと格差を遠ざけようと努力します。これは心の神格化による平和と愛の強い主張であると言えます。


全ての章は共棲というテーマに収束されることからも、ステープルドンが抱く世界への共棲的ヴィジョンを感じ取ることができます。第一次世界大戦争を経て、ナチスが台頭し、世界各国が臨戦態勢に移行しつつある緊迫した情勢のなか、ステープルドンが共棲を謳った作品を執筆したことは大きな意義があると言えます。作中で描かれた様々な世界、利己主義の発展、格差社会、二つの種族共生の盛衰など、いずれも科学の発展から野生の退化と滅亡が待ち受けており、そこに至る切っ掛けはいずれも種族間による争いが原因でした。この紛争はコスモスレベルでの必然であるとともに、たとえそれでも自己は信仰を抱いて共棲を臨むという姿勢こそ、今の精神体が掴むべき希望であり、持つべき平和と愛の意志であると受け取ることができます。


少し複雑な語彙や表現の豊かさで少し難解な印象を受けるかもしれませんが、世界に入り込むとどんどんのめり込んでいくことができる作品です。サイエンス・フィクションがお好きな方はぜひ、読んでみてください。

では。

『カラマーゾフの兄弟』フョードル・ドストエフスキー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

父親フョードル・カラマーゾフは、圧倒的に粗野で精力的、好色きわまりない男だ。ミーチャ、イワン、アリョーシャの3人兄弟が家に戻り、その父親とともに妖艶な美人をめぐって繰り広げる葛藤。アリョーシャは、慈愛あふれるゾシマ長老に救いを求めるが……。

1830年ごろに隆盛した「ロシア詩黄金期」は、アレクサンドル・プーシキンミハイル・レールモントフを中心に素晴らしい詩を数多く残しました。ここに同時代の偉大な散文作家たちを加えて「ロシア文学黄金時代」と現代では括られています。含まれる散文作家の代表者と言えば、ニコライ・ゴーゴリレフ・トルストイイワン・ツルゲーネフなどが挙げられ、今回のフョードル・ドストエフスキー(1821-1881)もその一人です。詩に端を発するセンチメンタリズムは、散文によってロマン主義へと変化し、リアリズムへと変遷していきます。ドストエフスキーは心理描写に長けており、フリードリヒ・ニーチェに「学ぶことができた唯一の心理学者」と云わしめるほどでした。思想家としても強い影響を与え、ロシアの根幹を揺るがす考えに、遂には思想犯として逮捕され死刑判決まで受けることになります。執行間際に特赦により解放されますが、これは皇帝ニコライ一世の画策した仕打ちでした。これによりドストエフスキーの強い社会主義思想は大きな変化を見せ、ロシア正教人道主義へと大きく方向を変えてのめり込んで行きます。そして生まれた『罪と罰』がロシア国内で大きく受け入れられ、世界最高峰の散文作家として作品を生み出していきます。生み出された作品群は数多くの作家に影響を与えます。ヴァージニア・ウルフフランツ・カフカアーネスト・ヘミングウェイなど、枚挙に暇がありません。


本作『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキー最晩年に執筆された長篇小説です。物語は、父と三人の子を中心に繰り広げられます。

父のフョードル・カラマーゾフは淫蕩に耽り、金銭に強欲、気を衒った行動で注目を集める道化のような生き方を良しとする者でした。信心浅く、都合の良いときにだけ神に祈るような、裏切りや反故に無関心な、しかし金銭を増やす能力の一点にだけは長けている、そのような人間が三人の子をもうけます。

初めの妻との子である長男ドミートリー・カラマーゾフ(ミーチャ)は繊細さと傲慢さが同居した精神の持ち主で、感情の起伏が激しく、そしてその感情を抑制できずに周囲へ粗暴な態度を取り、のちに持ち前の繊細な心を自らで傷つけるような人物です。

後妻の子である次男イワン・カラマーゾフ(ワーニャ)は徹底的に思考を深く深く沈め、凶暴とも言える哲学の極端化を図り、理性的な抗神論者として自身の哲学を固めていきます。弟に語る『大審問官』という劇詩は、神の在否を読者に問いかけます。

もう一人の後妻の子の三男アレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)は、とても敬虔なロシア正教の修道者で、心優しく相手の気持ちを汲み取り、純粋で透明な心を持っています。そして、父にも二人の兄たちにもそれぞれに愛され、彼らの救いのような存在で描写されています。

この四人を取り巻く幾人かの登場人物がいます。アリョーシャが仕えていたロシア聖教の体現者のようなゾシマ長老、ドミートリーの元婚約者であるカテリーナ、フョードルの私生児と目されている下男のスメルジャコフなど、この家族に起こる事件を複雑に織り成していきます。


発端はフョードルとミーチャの確執

事件の発端は、父フョードルと長男ミーチャの仲違いでした。金銭的困窮にあったミーチャは、後妻の遺産をあてにしていましたが、フョードルは一切合切を自身の懐に納めてしまいます。しかし、それ以前にフョードルはミーチャと相続に関して先に取り決めており、事前に権利放棄書と引き換えに六千ルーブルを受け取っていたのでした。ここに輪を掛けたのが、グルーシェニカというミーチャの想い人です。潤沢な財産に目が眩んだのか、彼女は父であるフョードルを誑かして口頭ではあるものの婚姻関係までも仄めかし、父と子の三角関係を作り上げたのでした。この遺産と恋の問題を解決するためにカラマーゾフ家は集まり、話し合いの場を設けたのでした。


ミーチャに対するスメルジャコフの軽蔑

各自が胸に秘めたそれぞれの思いは、会話を重ねるごとに吐露されていき、やはり衝突してしまいます。フョードルとミーチャは決定的な亀裂を作り、問題の解決には程遠い結果となりました。アリョーシャが純朴な心で困惑を露わにする中、フョードルの下男スメルジャコフはミーチャに対する軽蔑の思いを強めていきます。素行が悪く、思慮に欠け、金銭に困窮している有様を見て、世間一般の下男以下でありながら、周囲から敬意を受けていることに不満を持っています。当時の階級では軍人は高い地位にあり、最低限の敬意を周囲から集めていたことは事実でした。しかしスメルジャコフは、自身が羞恥的に感じている出生の謂れや、現在の下男としての立場に強い変化を求めており、フランスへ離れて新しい人生を送りたいという希望さえ持っていました。この苦しい環境と、それによって作り上げられた鬱屈した性格は、イワンの抗神論的哲学へと傾倒していき、危険な思想の体現者として暗い心を成長させていきます。


スメルジャコフとアリョーシャの対比

スメルジャコフがイワンとの接触のみに集中して心を反応させていくのに対して、アリョーシャは殆どの主要な登場人物と対話を行い、どの人物も心を通わせて様々な胸の内を明かしていきます。相談や懺悔の告白など、真に信用して救いを求めます。語り手が主人公であると定義していることもあり、物語の進行そのものも彼の視点が多くなっています。しかしながら、スメルジャコフに対してのみ、そのような描写を見ることができません。神への信仰心が強いアリョーシャは、イワンの抗神思想に染まったスメルジャコフにとっては反対の立ち位置にあり、必然的に心の距離を取っていたからと言えます。アリョーシャが避けたというより、スメルジャコフが神の救いを求めていなかった、或いは求める必要がなかったと考えられます。イワンがスメルジャコフに語った「すべては許されている!」という思想は、彼の狂気的な考えを正当化してしまいます。


アリョーシャの神とイワンの悪魔

イワンはスメルジャコフに抗神主義を語りながらも、自身の中では戸惑いながら「この考えは正しいのか」を模索し続けます。突き詰め続けた考えは一つの幻覚を生み出します。悪魔と名付けたその幻覚は、イワンの悪の思考の具現者であり、対話の中でイワンの中に燻る信仰的不安を否定します。

この抗神主義の根源的な思考を、イワンはアリョーシャに詩劇として語りかけます。世界中で行われている幼児虐待の例をいくつか挙げ、このような犠牲が世の調和に必要なのであれば、自分はそのような未来は必要ないと断言します。高い犠牲の数々を払った調和の上の未来は、良いものと言えるはずもなく、また、その犠牲を欲する神になど傾倒するわけにはいかないと主張します。

この予定調和説は哲学者ゴットフリート・ライプニッツが唱えたもので、現実の世界で起こることは神が最善の選択を行った結果だとするものですが、これを全面的に否定する内容となっています。1755年に起こったリスボンの大地震における災害について哲学者ヴォルテールは『リスボンの災厄に関する詩』という詩篇を書いています。

されど、愛する子らに惜しみなく善を与え
かつまたその子らに悪をあまた降り注ぎ給うた
善意そのものの神なる存在を
どうして想像できようか

いつの日かすべては善となる
それこそわれらが希望
今すべてが善であるとは
幻想にすぎぬ

植田祐次訳『カンディード』解説より

これを受けて、アリョーシャはその中でも許される存在こそがキリストであり、受難者たちの救いになると諭します。そこでイワンは詩劇『大審問官』を語り始めます。


十六世紀の宗教裁判が盛んに行われていたセヴィリアを舞台に話は進みます。日ごと異教徒とされる者たちが聖職にある者により断罪され、火炙りによって命を落としている時代です。その地に舞い降りたキリストらしき人物(キリストとは断言していない)は、セヴィリアの民衆に接すると小さな奇跡から始まり、やがて命を蘇らせる大きな奇跡をも披露します。これに民衆はキリストであると確信して、その人物に付き従っていきます。この一部始終を見ていた聖職に関わる者が、衛兵たちに「この者をとらえよ」と捕縛を命じ、独房へと閉じ込めます。そこに聖職の権威である大審問官が現れ、キリストらしき人物に語り掛けます。「おまえがイエスか」と問いながらも返事を求めず、キリストであるかどうかは問題ではなく、キリストが語ったことなど全て理解していると突っ撥ねます。そして大審問官は、キリストの存在は現在のキリスト教において不要であり、民衆はキリスト教という宗教組織に救いを求めているのだと主張します。そして、宗教組織の権力を持つものにこそ世を導く力があり、崇拝される対象であるべきだと豪語します。実際に起こす奇跡ではなく、聖書に書かれた奇跡の描写こそが必要であり、その謂れを神的に崇めることこそが民衆の救いとなる、そしてその救いを与え続ける我々宗教組織の人間こそが必要とされていると断じます。この不信心の極みとも言える言説をキリストらしき人物は一語も反論せず、その大審問官に跪き、足元に口づけをします。この沈黙こそが読者に衝撃を与え、そしてアリョーシャへもイワンの考えを十全に伝える言葉となりました。


イワンとゾシマ長老

「このような世界を創る神を認めない」というイワンの抗神思想は、アリョーシャだけでなく、ゾシマ長老の信心とも関わっていきます。この抗神は神の在否を問い、未だ沈黙を続ける神の姿勢は、沈黙こそが神の罪であると解釈されていきます。この問いにゾシマ長老も同じくして沈黙を守り、イワンに抗弁することなく考えを受け入れ続けます。しかしこの行為は、ただ受動的になされているわけではなく、ゾシマ長老の強い信心が、否定的な抗神思想さえも包み込み、イワンの心の全体をも愛で包み込んでいたのでした。

そして、フョードルとドミートリーの口論において、ゾシマ長老がドミートリーに平伏して口づけた行為は、ただ訪れる大きな不幸を憂いたわけではなく、その不幸さえも包み込もうとしたと考えられ、キリストらしきものが大審問官の足元に口づけたことも、同様の意図からによるものと考えられます。つまり、ゾシマ長老の死体から放たれた異臭は、夥しいほど他者から内包し続けた抗神心、不信心が解き放たれたと言え、描写の醜さとは真逆な聖性を帯びています。


ゾシマ長老と新たな救済者アリョーシャ

計り知れない深さの信仰心を持ったゾシマ長老の教えは、事件を通して考えを深められたアリョーシャの思考と共鳴します。エピローグにおいて、将来を担う少年たちに向けて演説を行います。教えを説く長老のように、救済者としてのキリストのように、心に留めておくべき大切なものは何かを伝えようとします。

十三という不思議な数を持った「エピローグ」で、「十二人くらい」の少年たちに囲まれて、アリョーシャが石のまわりで語る。石とは初代教会の指導者「ペテロ」と読めるから、アリョーシャの言葉は新しい使徒たちに語る新しいキリストの言葉として響くのだろう。私たちの言葉では、ここでキリストは無力な「同行者」としてばかりではなく、「救済者」として実行的な愛の力を発揮しているように思える。

井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』

アリョーシャは次のように語ります。

「何かよい思い出、とくに子ども時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、その後の一生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。きみたちは、きみたちの教育についていろんな話を聞かされているはずですけど、子どものときから大事にしたきたすばらしい神聖な思い出、もしかするとそれこそが、いちばんよい教育なのかもしれません。自分たちが生きていくなかで、そうした思い出をたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです。」


そしてアリョーシャのこの言葉は、ゾシマ長老が遺した言葉と重なります。

「親の家からわたしが持ちだせたものは、かけがえのない思い出だけだった。なぜなら人間にとって、父母の家ですごしたごく幼い時代の思い出にまさる尊いものはほかにないからで、愛と信頼がかろうじてあるだけの貧しい家族でも、ほとんどの場合がつねにそうなのである。たしかに、どんなにひどい家庭にも、かけがえのない思い出が保たれることがある。といっても当人の魂に、そうしたかけがえのないものを探し出す力があればの話だ。」

スメルジャコフの心に「大切な思い出」を探し出す力があったならば、凶行に至ることなく、夢を追い続けてフランスへと新しい人生を探しに向かうことができたのかもしれません。


神の在否、罪の所在、赦しの在り方、信心と抗神、登場人物たちの性格と境遇が異なる価値観を生み出し、衝突とすれ違いを繰り返します。幸福とは何か、幸福を求める行動に罪は無いのか、幸福は犠牲の上に在るのか、幸福のために生きることは罪なのか、幸福は神より与えられるのか、人間が根源的に抱く問い掛けを鮮やかに浮かび上がらせる本作は、ドストエフスキーの晩年の思想を凝縮した作品とも言えます。読後に彼が提示した解釈を受けて、我々も深く改めて考えさせられる作品となっています。ドストエフスキーの作品群の中ではサスペンス色が強く、物語として読みやすい作品となっていますので、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『死に至る病』セーレン・オービュ・キェルケゴール 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

死に至る病」とは絶望のことである。憂愁孤独の哲学者キェルケゴールは、絶望におちいった人間の心理を奥ふかいひだにまで分けいって考察する。読者はここに人間精神の柔軟な探索者、無類の人間通の手を感じるであろう。後にくる実存哲学への道をひらいた歴史的著作でもある。

セーレン・オービュ・キェルケゴール(1813-1855)はデンマークの思想家であり哲学者です。当時のゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルを中心とした理想主義の席巻は、宗教論にまで派生してデンマークの各教会にまで影響(ぐらつき)を与えるほどでした。これに対抗する思想を立ち上げてぶつかり合ったキェルケゴールは、現在における実存主義の先駆けとして後世に影響を与え続けています。


作品名である『死に至る病』は新約聖書ヨハネによる福音書」から引用されています。病によって命を落とした友人ラザロをイエス・キリストが蘇らせた際、「この病は死に至らず」と発しました。この時の死因が「絶望」であったことから、本作にはこの題名が付けられました。副題は「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」としており、敬虔なクリスチャンの立場(アンティ=クリマクスという別名で出版)で強い信仰心の元に書かれています。


今ある自己(現自己)が受けた極限的不幸によって自己の精神は変化します。精神が現自己から遠く離れたいが現自己は自己であるために逃れられない状態、また現自己であり続けようとするが不幸の永続性に苦しみ続ける状態、また現自己からあるべき自己(本自己)へと移行したいが肉体や精神が伴わない状態、これらを総括して「絶望」と呼びます。


「絶望」は自己の在り方によって段階的に幾つかに分類されます。

無限性絶望は、自己を世間と比較して立ち位置を定めて、より高みに登ることができたなら、と希望的空想に思いを巡らせて逃避的思考へと移行し、本自己から遠ざかり続けることを言います。それは本来なすべき行為や目の前の問題を放棄することに繋がっていきます。

有自覚的絶望は、世間との自己比較によって見出された否定的差異を理解しながらもそれを受け入れて、且つ、諦めの観念を持ちながら世間との調和のみを求めて過ごすことを言います。騙り取り(かたりとり)と表現しますが、諦めや不貞腐れに近い状態で、これもやはり、なすべき行為や解決すべき問題から目を逸らしていると言えます。

可能性的絶望は、現自己を置き去りにして空想的観測に委ねて現在を見失っている状態です。置かれている状況や危機的問題に目を向けず、妄想に耽って現実から逃避していることを言います。

必然性的絶望は、本自己を見失っている状態です。あるべき、或いは、ありたいとする自己を見ることができず、ただただ目の前の現実に打ちひしがれて盲目的であり、先を見ようとする意欲が湧かず、諦めの観念に包まれています。


キェルケゴールは「絶望」を罪であるとしています。絶望の発端となる思考は、世間の目やその評価からくるものであり、対人間としての価値観から陥る否定的な精神状態です。本自己と現自己の乖離に、俯き、激昂し、諦めながらも受け入れないことは、人間の内における永続性としての精神の停滞であり、そこから快方へ向かおうとする思考の否定です。信仰対象の「神」に肯定的可能性を求め、祈り、救済を願うことを正とし、永続的な否定的精神状態からの解放を望むことこそ必要であるとしています。これを求めず、神の存在を認めていながらも、精神状態を否定的に置き続けることを罪であると唱えています。


信仰は理性の否定とも言えます。現自己の否定であり、自意識の否定であるとも言えます。しかしその上で神という存在を認め、神の持つ可能性へと望みを委ねることこそ「信じる」行為であると彼は言います。

自己自身において、現自己の置かれた否定的状況による否定的精神状態を受け入れること、本自己との乖離を認めてその距離を埋めようと望む可能性を抱くこと、そして神の前でその可能性を祈り願うこと、これらを「信仰」であるとしています。だからこそ、「信仰」の否定は「神」の否定であり、可能性を求めず絶望状態を維持継続し続けることを「罪」であると訴えています。「絶望」という病に処方すべき薬剤は「可能性」であり、それを求めずに打ちひしがれる「罪」を、神への「信仰」により振り払うことが必要なのです。


キェルケゴールは「神の前に」と何度も強調します。神は絶対的な存在であり、何ら論証も必要なく、信心の元に信仰の対象となるべき存在であると唱え続けます。神とは思弁的な対象となるものではなく、論証的に確証されてはならない、人間の思考により生まれる「知」の一部であってはならないとして、絶対的な存在であり、だからこそ人間の救いたり得ると考えています。これはヘーゲル精神現象学における宗教論に対する姿勢です。ヘーゲルの宗教論は、宗教とは人間精神がとる一つの究極的な形であるとして、啓示を通して神が人間に、人間が神に精神を触媒として聖霊的受胎を認め、神が自己に内在するという考え方を説いたものです。この宗教論に対して、「神と人を同等に考えるとは何ごとか!」とキェルケゴールは激昂しました。ヘーゲル無神論者であると断じた上で、本作『死に至る病』の執筆において反証的にヘーゲルの宗教論を否定します。このことが「神の前に」を頻出させる根拠となっています。そして本作においてはイエス・キリスト(神)を否定することが「絶望における可能性の否定」であることとして、永続的に絶望であり続けると述べています。


絶望における可能性への転化を「逆説」的思考と捉えて、池田晶子さんは以下のように述べています。

逆説とは思想の情熱であり、逆説をもたない思想家は情熱をもたぬ恋人、そしてすべての情熱は自身の破滅を欲する、ゆえに理性もまたその極致において。

理性には理解不能な逆説それ自体、逆説が存在するというそのこと自体が、この人にとっては「神」なのである。いや神と「言いたい」のである。神と人とはあくまでも別ものであるべきだという根強い思い込み、じつはそれこそが信仰なのだと言うべきだろう。

池田晶子『人生は愉快だ』


信仰における根拠の有無は非常に現代的な問題とも言えます。中世において無条件に神を崇めることは当然なことでした。しかし時代が進むにつれて、哲学は細分化し、精神研究も複雑化して、あらゆるものの根源に対する疑問が浮かび上がっていきます。信仰に対象が自由であれば、信仰するかどうかという、そのもの自体にさえ自由があります。

人間は誰しもが現自己と本自己に挟まれて生きています。その中で、突如として訪れる大きな苦難が絶望の切っ掛けとして口を開けて道の先で待ち受けています。自己自身が陥る絶望という病に、可能性という薬剤を自身で処方できるかどうかは、その時の信仰の有無によるのかもしれません。


現代における苦悩からの脱却の糸口ともなり得る本作『死に至る病』、随所で考えさせられる素晴らしい作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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